神秘の乙女
金城邸の朝は、今日も平和だった。
少なくとも、表面上は。
広い洗濯室で、花園真珠は白いシーツを丁寧に畳んでいた。
隣ではソフィア・アレクセーエヴナが、漁師の娘らしく大雑把にタオルを丸めていた。
「ソフィア、それは畳んでいるのではなく、丸めているだけです」
「乾いてれば同じだろ」
「違います」
「金持ちの屋敷は面倒だな」
そんな姉妹の前を、リュビィが白いワンピース姿で通り過ぎた。
今日も白い。
いつも白い。
どこからどう見ても白い。
真珠は、ふと手を止めた。
「……ソフィア」
「何だ」
「リュビィ様が、お風呂に入っているところを見たことがありますか?」
ソフィアはタオルを抱えたまま考えた。
「ないな」
「ですよね」
二人は、廊下の向こうへ消えていくリュビィの後ろ姿を見つめた。
風呂に入っていない。
それなのに、匂わない。
汚れている様子もない。
白いワンピースは、毎日真っ白。
食事をこぼしても、泥の上を転んでも、怪人と戦って爆煙を浴びても、気づけば真っ白。
「……おかしくありませんか?」
「おかしいな」
ソフィアは即答した。
「リュビィ様は、いつお召し物を洗濯しているのでしょう」
「見たことない」
「そもそも、お着替えをしているのでしょうか」
「見たことない」
「お風呂は」
「見たことない」
二人は顔を見合わせた。
「確認しましょう」
*
大食堂でリュビィは生の魚を両手で持ち、幸せそうに食べていた。
「魚、おいしい」
真珠は静かに近づく。
「リュビィ様」
「なに?」
「失礼ですが、リュビィ様は普段、お風呂に入っていらっしゃいますか?」
リュビィはきょとんとした。
「お風呂?」
「はい」
「入らない」
食堂の空気が止まった。
豊が紅茶を吹きそうになる。
守は眼鏡を押し上げる。
怜音はパンを持ったまま固まる。
ソフィアは腕を組んだ。
「やっぱりか」
真珠は恐る恐る尋ねる。
「なぜ、入らないのですか?」
リュビィは当然のように言った。
「お湯に浸かったら、茹だる」
全員が沈黙した。
怜音がぽつりと言う。
「茹だる……」
リュビィは真剣だった。
「蟹、熱いお湯に入ると赤くなる」
豊が額を押さえた。
「リュビィ、お前はもう蟹じゃないだろ」
「今は美少女。でも元蟹」
ソフィアが妙に納得した顔でうなずく。
「寒冷な海に住む生き物だったなら、熱い湯は苦手なのかもしれないな」
真珠は困ったように言った。
「ですが、たまには洗うべきです」
「洗わなくても平気」
「平気ではありません」
「汚れてないよ」
確かに汚れていない。
だが、それとこれとは別である。
真珠はきっぱり言った。
「本日、リュビィ様には入浴していただきます」
リュビィの顔から血の気が引いた。
「やだ」
「駄目です」
「茹だる」
「茹だらない温度にします」
「蟹じゃなくなる」
「もう蟹ではありません」
「カニィ……」
リュビィは椅子の下に逃げ込もうとした。
ソフィアが首根っこをつかむ。
「逃げるな」
「カニィィ!」
*
金城邸の大浴場。
そこは、一般家庭の風呂というより、ほとんど高級ホテルの温泉施設だった。
大理石の床に広い浴槽。
サウナと水風呂まである。
どう考えても一般人の家にある規模ではない。
リュビィは浴場の入口で震えていた。
「ここ、湯気ある」
「お風呂ですから」
「危険」
「危険ではありません」
真珠は優しく言い聞かせる。
ソフィアは後ろで腕を組んでいる。
「真珠、こういうのは一気にやった方が早い」
「乱暴にしてはいけません」
「じゃあどうする」
「丁寧に」
真珠はリュビィの白いワンピースに手をかけた。
「リュビィ様、お召し物をお脱ぎください」
「やだ」
「洗います」
「汚れてない」
「汚れていなくても洗います」
しばらく押し問答が続いた。
湯気と白い衝立の向こうで、真珠とソフィアは無理にリュビィの白いワンピースを脱がせた。
そこで、二人は重大な事実に気づいた。
「……ソフィア」
「何だ」
「リュビィ様は、いつもこの一枚だけを着ていらっしゃったのでしょうか」
「そう見えるな」
「洗濯しているところも見たことがありません」
「ないな」
そして、もう一つ。
真珠は、白い布のように見えていた部分に手を伸ばしかけ、ぴたりと止まった。
「……これは」
ソフィアも目を細める。
「下着じゃないな」
リュビィは胸を張った。
「リュビィの体」
二人は沈黙した。
白い下着だと思っていたものは、どうやら体の一部が白くなっているだけだった。
海で泳いだときも水着というより、この格好だった気がする。
つまり、つまりである。
ずっとノーパンだった?
真珠は、考えるのをやめた。
ソフィアも、考えるのをやめた。
「……真珠」
「はい」
「この件は、深く追及しない方がいい」
「同感です」
リュビィは首をかしげた。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「神秘の力です」
「便利な言葉だな」
そして本題の入浴である。
真珠は湯加減を確かめた。
「ぬるめにしてあります。大丈夫です」
リュビィは足を一歩だけ伸ばし、湯面に触れた。
瞬間、飛び退いた。
「熱い!」
「かなりぬるいです」
「茹だる!」
「茹だりません」
ソフィアが後ろから押そうとする。
「入れ」
「やだ!」
リュビィは両手両足で抵抗した。
その力が、とんでもなく強かった。
人間の姿になっていても、基礎筋力がどこかおかしい。
ソフィアが踏ん張るが、ビクともしない。
「ぐっ……こいつ、見た目のわりに力が強い!」
真珠も手伝う。
「リュビィ様、少しだけで結構です!」
「カニィィィ!」
結局、二人がかりでもリュビィを湯船に入れることはできなかった。
数分後、真珠とソフィアは普通の湯船につかり、疲れ果てていた。
そしてリュビィは、サウナ用の水風呂に肩までつかっていた。
「冷たい。気持ちいい」
水風呂の中で、リュビィは幸せそうに頬を緩めている。
真珠は湯船からそれを見つめた。
「寒くないのですか?」
「ぜんぜん」
ソフィアは呆れたように言った。
「蟹だな」
「今は美少女」
「水風呂に長時間入って平然としてる美少女は珍しい」
リュビィは水面を手でぱしゃぱしゃ叩いた。
「ここ、好き」
真珠はため息をついた。
「今後は、リュビィ様専用に冷水浴を用意する必要がありそうですね」
「風呂じゃなくて水槽だな」
「ソフィア」
「冗談だ」
リュビィは嬉しそうに言った。
「リュビィの水槽!」
「用意しません」
*
風呂から出て、午後になると、リュビィは買い物に出かけた。
真珠が渡した買い物メモには、卵、牛乳、砂糖、紅茶、石鹸と書かれていた。
しかし、リュビィが帰ってきた時、買い物袋より目立つものがあった。
少年である。
小学生くらいの男の子。
眼鏡をかけ、少し利発そうな顔をしている。
小野寺翔太。
かつて、リュビィに十円玉を貸し、アイスクリームを奢った少年だった。
「リュビィ様」
真珠は玄関で固まった。
「なぜ、お子様を連れて帰っていらっしゃるのですか?」
リュビィは胸を張った。
「翔太、友達」
翔太は丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。小野寺翔太です」
豊が奥から出てくる。
「リュビィ、知らない子どもを勝手に連れてくるな」
「知らなくない。十円くれた」
「十円?」
「アイスも奢ってくれた」
リュビィは真剣な顔で言った。
「リュビィ、借りがある。断れなかった」
翔太は苦笑した。
「僕が無理に来たわけじゃなくて、リュビィさんが金城邸を見せてくれるって」
「リュビィさん」
怜音が小声で笑う。
「友達だな」
守は翔太を観察する。
「年齢は?」
「小学六年生です」
「小学六年生が、なぜリュビィと対等に会話している」
リュビィは首をかしげた。
「対等?」
ブラックが豊に小声で言う。
「リュビィの精神年齢って、いくつなんだ?」
ブルーも淡々と続ける。
「外見年齢と実年齢と精神年齢が一致していない可能性が高い」
豊は面倒そうに言った。
「子どもなんだろ」
全員がリュビィを見る。
リュビィは翔太と一緒に玄関の観葉植物を見ていた。
「この葉っぱ食べられる?」
「食べない方がいいと思います」
「そうなの?」
豊はうなずいた。
「うん。子どもだな」
真珠は困りながらも、翔太を客間へ案内した。
「お茶をお持ちします」
翔太は礼儀正しく言った。
「ありがとうございます」
誰も知らない。
この礼儀正しい少年こそ、フゴードラゴンの中の人間だということを。
*
客間。
翔太はココアを出され、目を輝かせていた。
「すごい。本物の金城邸だ……」
豊は少し苦笑する。
「そんなに珍しいか?」
「普通は入れません」
「まあ、そうか」
リュビィは翔太の隣に座っている。
完全に友達の距離感だった。
怜音がふと尋ねた。
「リュビィ、お前って何歳なんだ?」
リュビィはきょとんとした。
「何歳?」
「年齢だよ」
「分からない」
守が反応した。
「分からないとは?」
「数えたことない」
真珠が驚く。
「お誕生日などは?」
「たんじょうび?」
「生まれた日です」
「知らない」
ソフィアが腕を組む。
「海底人類には暦がないのか?」
リュビィはうなずいた。
「海の底、朝とか夜とか、あんまり分からない。何日とか、何年とか、数えない」
守は端末を取り出した。
「興味深い。海底王国には年齢計算の文化が存在しない可能性がある」
翔太の目が輝いた。
「水圧、光量、海流周期を基準にした別の時間感覚があるのかもしれません」
守が翔太を見る。
「君、詳しいな」
翔太は慌てて笑った。
「図鑑で読んだだけです」
ソフィアがじっと翔太を見る。
「本当に小学生か?」
「はい」
リュビィが胸を張る。
「翔太、頭いい」
守は検索を始めた。
「蟹の場合、年齢は脱皮回数、いわゆる脱皮齢期で推定できる場合がある。幼体の頃は一年に数回脱皮するが、成長につれて間隔が長くなり、やがて一年に一回のペースになる」
リュビィは手を挙げた。
「脱皮なら数えた」
全員が固まる。
豊が恐る恐る聞いた。
「何回だ?」
リュビィは指を折ろうとして、すぐに諦めた。
「五百十八回」
沈黙。
怜音がココアを飲む手を止める。
「ごひゃく?」
ブルーが端末を見つめる。
「五百十八回」
ソフィアが呟く。
「まさか、五百歳を超えてるのか?」
真珠は困惑した。
「竜宮城や乙姫様の物語が広く語られるようになったのは、室町時代、十四世紀から十六世紀頃とも言われます。もし、その頃から海底王家が地上の物語に関わっていたなら……」
リュビィはきょとんとしている。
「リュビィ、古い?」
怜音が言った。
「見た目は若いのに、人生の先輩どころじゃないな」
リュビィは得意げに笑った。
「リュビィ、すごい?」
翔太は目を輝かせてメモを取りそうになり、慌てて手を止めた。
怪しまれる。
今はただの友達でいなければならない。
だが、その時、リュビィが衝撃の一言を放った。
「人間になってからも一回、脱皮してるよ」
空気が完全に止まった。
豊がゆっくり聞いた。
「……何だって?」
「脱皮」
「人間になってから?」
「うん」
リュビィは立ち上がり、どこからともなく白っぽい薄いものを取り出した。
人間の皮のようにも見える。
薄く、半透明で、リュビィの形をしているような、していないような。
真珠が悲鳴をこらえた。
怜音はソファから落ちた。
ソフィアは眉間を押さえた。
豊は固まった。
守だけが端末を構えた。
「これは極めて貴重なサンプル――」
真珠が即座に止める。
「駄目です!」
リュビィはにこにこしている。
「記念に取っておいた」
ブラックが震える声で言った。
「コイツ、やっぱり蟹だったのか……」
リュビィは頬を膨らませる。
「今は美少女!」
「美少女は普通、脱皮の皮を保存しない」
「神秘の美少女」
翔太は目を輝かせていた。
「すごい……神秘のお姉さんだ」
リュビィは嬉しそうに笑った。
「翔太、いい子」
*
その直後だった。
翔太がココアのカップを持ち上げた時、手が滑った。
「あっ」
ココアがリュビィの白いワンピースにかかった。
真珠が慌てる。
「リュビィ様!」
翔太も青ざめる。
「す、すみません!」
だが、次の瞬間。
ココアは白い布の上を水玉のように弾かれ、ころころと床に落ちた。
シミ一つ残らない。
ワンピースは完全に白いままだった。
翔太は目を見開いた。
「……撥水加工?」
守が近づく。
「いや、液体が接触する直前に微弱な光が発生した。物理的な撥水ではない」
真珠も驚く。
「本当に汚れていません」
ソフィアがリュビィを見る。
「どういう仕組みだ」
リュビィは胸を張った。
「神秘の力だよ」
全員が黙った。
豊が聞く。
「もう少し詳しく」
「神秘の力」
「それ以外に説明は」
「ない」
守が額を押さえた。
「科学的説明を拒む現象か」
リュビィは堂々としていた。
「神秘だから」
翔太は小さく呟いた。
「神秘の力……」
その目は、ただの子どもの好奇心ではなかった。
研究者の目だった。
しかし、彼はすぐに笑顔を作った。
「すごいです。神秘のお姉さんだ」
リュビィは満足そうにうなずく。
「リュビィ、神秘のお姉さん」
怜音が言う。
「精神年齢は妹っぽいけどな」
「ブラック、失礼」
*
夕方。
翔太は金城邸の門まで見送られていた。
リュビィは手を振る。
「翔太、また来てね」
「はい。ありがとうございました」
真珠は丁寧に頭を下げる。
「お気をつけてお帰りください」
ソフィアは翔太をじっと見た。
「お前、本当にただの小学生か?」
翔太は笑った。
「はい。ただの小学生です」
ソフィアはまだ疑っている顔だった。
だが、それ以上は聞かなかった。
豊も言う。
「リュビィの相手をしてくれて助かった。また遊びに来るといい」
「ありがとうございます」
翔太は金城邸を後にした。
その小さな背中を、リュビィがずっと見送っていた。
「翔太、いい子」
ブルーは小さく言った。
「知能レベルはかなり高い」
ブラックが笑う。
「リュビィの友達が天才少年か。妙に似合ってるな」
豊は肩をすくめた。
「子ども同士、気が合うんだろ」
リュビィは振り向く。
「リュビィ、五百十八回脱皮した大人!」
全員が反応に困った。
*
夜。
小野寺翔太の家。
翔太は自室の机に座ると、すぐにパソコンを起動した。
画面に、今日得た情報が次々と整理されていく。
『リュビィ観察記録』
『入浴忌避:高温環境への本能的拒否反応』
『冷水環境を好む』
『衣服状外皮:汚染物質を自動排除』
『脱皮回数:518回』
『人間化後も脱皮を確認』
『神秘エネルギーによる物質汚染防御の可能性』
『神・悪魔由来の力は、既存科学では説明不能』
翔太は、リュビィの白い服がココアを弾いた瞬間を思い出す。
光。
ほんの一瞬だけ走った、科学では説明しきれない反応。
リュビィは言った。
神秘の力。
科学では解明できない謎。
だが、翔太はそこで終わらせるつもりはなかった。
机の横のモニターには、フゴードラゴンの設計図が表示されている。
さらにその隣には、聖商龍の合体データ。
科学の炎。
聖なる力。
海と大地。
それらは、すでに戦場で一つになり始めている。
「神秘は、科学で完全には説明できない」
翔太は呟いた。
「でも、科学と神秘をつなぐことはできるかもしれない」
彼は新しいファイルを開いた。
タイトルを入力する。
『Mystic-Science Hybrid System』
『神秘科学融合機関』
翔太の目が輝いた。
天才少年は、ただの観察者ではない。
七人目の戦士、フゴードラゴン。
その中にいる少年は、神や悪魔の力すら、科学と結びつけようとしていた。
リュビィの無邪気な一言。
「神秘の力だよ」
それは、少年にとって新たな研究の扉だった。




