表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/29

母のピアノ

 金城邸の朝は早い。


 広い廊下に朝日が差し込み、使用人たちが音を立てずに動き始める。


 花園真珠(はなぞのましろ)も、いつものようにメイド服で廊下を磨いていた。


 銀の燭台を拭き、花瓶の水を替え、階段の手すりを布で磨く。


 新しく金城邸に居候することになった姉、ソフィア・アレクセーエヴナは、そんな妹の働きぶりを腕組みして見ていた。


「朝からよく働くな」


「メイドですから」


「それは知ってる。でも、元は花園家のお嬢様なんだろ」


 真珠の手が、ほんの少し止まった。

「昔の話です……」


 花園家は、それなりの旧家だった。


 広い屋敷と代々受け継がれてきた家財道具。


 だが十年前、豪華客船の海難事故で花園夫妻は死んだ。


 姉の花園朱珠(はなぞのすず)も死んだものと思われた。


 花園家にただ一人残されたのは、中学生だった真珠だけ。


 幼い少女が、突然すべてを相続することになった。


 土地にも、屋敷にも、家財にも、相続税がかかる。


 中学生の真珠に払えるはずがなかった。


 土地も屋敷も売られた。


 家財道具も、すべて手放すしかなかった。


 全財産を失った真珠は、金城家に引き取られた。


 花園家の令嬢ではなく、メイドとして。


 ソフィアは眉をひそめた。

「両親が死んで、姉も死んで、中学生に税金払えって言われたのか」


「制度ですから」


「ソビエトにもロシアにも相続税なんて無かったな……」


 ソフィアは呆れたように言った。

「貧乏な漁村でも、死んだ親の物を受け取るために子どもが破産するなんて聞いたことないぞ」


 真珠は困ったように微笑む。

「ここは日本です」


「日本、怖いな」


「怖い国ではありません」


「いや、十分怖い」


 真珠は何も言い返せなかった。


     *


 朝の掃除が終わると、真珠は金城邸の大ホールへ向かった。


 そこは舞踏会も開けるほど広い空間だった。


 高い天井。


 大きな窓。


 磨かれた床。


 そして、その一角に黒いグランドピアノが置かれている。


 ソフィアは足を止めた。


 胸の奥が、かすかに痛んだ。


「このピアノ……」


 真珠はピアノの蓋をそっと開ける。


「母が弾いていたピアノです」


「母が……」


「はい。昔は花園家にありました」


 真珠は椅子に座り、鍵盤に指を置いた。


 黒く磨かれたそのピアノは、ただの楽器ではなかった。


 ドイツの名門ピアノメーカー、ベヒシュタイン。


 その最高傑作と呼ばれる名機。


 ヴィクトリア女王の依頼で製作された伝説のピアノと同じ機種。


 花園家にとっては、母の思い出そのものだった。


 だが、真珠が相続することになった時、その評価額は二億円。


 中学生の少女に、そんなピアノの相続税を払えるはずがない。

 それは、真珠が破産する元凶になった。


「今は坊ちゃまが買い取って、金城邸に置いてくださっています」


 真珠は静かに言った。

「これは、わたくしの物ではありません」


「でも、お前が手入れしてるんだな」


「はい。調律の手配も、湿度の管理も、磨くのも、わたくしがしています」


「自分の物じゃないのに?」


「ここにあれば、母の音を忘れずにいられます」


 ソフィアは黙った。


 真珠が弾き始める。


 静かな旋律が、ホールに広がった。


 明るい曲ではない。


 優しく、懐かしく、けれどどこか悲しげな音。


 ソフィアは、その音を聞いた瞬間、胸を押さえた。


「……知ってる」


 真珠の指が止まりかける。


「思い出しましたか?」


「分からない。でも、知ってる気がする」


 ソフィアはピアノに近づいた。


「この曲、何だ」


「ベートーベンの『Das Lied des Marmottenbuben』です。日本では『マーモット使いの少年の歌』と呼ばれています」


「マーモット使いの少年……」


 その言葉が、記憶の扉を叩いた。


     *


 白いカーテンが揺れている。


 午後の日差し。


 母がピアノを弾いている。


 小さな真珠が母の隣で眠そうにしている。


 少し大きい少女が、ピアノの横に立っている。


 その少女は、ソフィアではない。


 花園朱珠。


 母が微笑む。


「朱珠、この曲はね、旅芸人の少年の歌なの」


 幼い朱珠が尋ねる。


「楽しそうな曲なのに?」


 母は少し寂しそうに答える。


「ええ。でも歌詞は悲しいの。一文無しの少年が、マーモットを連れて諸国を巡るのよ」


 真珠が母の膝に寄りかかる。


「かわいそう」


 母は真珠の髪を撫でる。


「だからこそ、優しく弾くの。かわいそうな人に、せめて音だけは優しく届くように」


 朱珠は鍵盤を見つめていた。


 母の白い指。


 黒い鍵盤。


 柔らかな旋律。


 母の声。


「いつか、あなたたちもこの曲を弾いてね」


     *


 ソフィアは大きく息を吸った。


 ホールの景色が戻る。


 目の前には、メイド服でピアノを弾く真珠がいる。


 ソフィアの目には、涙が浮かんでいた。


「母さんが……弾いてた」


 真珠が振り向く。


「ソフィア……」


「少しだけ思い出した。白いカーテンがあって、お前が小さくて、母さんがここで……いや、花園家の屋敷で、この曲を弾いてた」


 真珠の目も潤む。


「はい。母はよくこの曲を弾いていました」


 ソフィアはピアノに手を置いた。


「この曲、悲しい歌なんだな」


「はい」


 真珠は鍵盤を見つめた。


「歌詞は、ドイツの詩人ゲーテによる風刺劇『Jahrmarktsfest auf Plundersweilern』の一節から採られています」


「難しい名前だな」


「わたくしも、母にそう教わっただけです」


 真珠は少しだけ笑った。


「一文無しの少年が、マーモットと共に諸国を巡る旅芸人に身をやつしている。そんな歌です」


 ソフィアは真珠を見る。


「お前みたいだな」


 真珠は驚いた。


「わたくしですか?」


「ああ。昔は旧家のお嬢様だったのに、全部なくしてメイドになった」


 真珠は静かに目を伏せた。


「……そうですね」


「しかも、そのピアノのせいで税金が払えなくて一文無しになった」


「ピアノのせいではありません」


「いや、元凶だろ。二億円のピアノなんて、子どもにどうしろっていうんだ」


 ソフィアは呆れたように言った。


「ソビエトにもロシアにも相続税なんて無かったな……」


 真珠は困ったように微笑んだ。


「何度も言いますが、ここは日本です」


「やっぱり怖い国だ」


「怖い国ではありません」


「少なくとも中学生には厳しい国だ」


 真珠はそれ以上、否定できなかった。


 ソフィアは真珠の肩に手を置いた。


「お前は悪くない。中学生一人が家を守れなくても、当たり前だ」


「ソフィア……」


「私はまだ、自分が花園朱珠(はなぞのすず)だって実感がない。ソフィアとして生きてきた時間の方がはっきりしてる。けど、少なくとも今、こう思った」


 ソフィアはピアノを見た。


「このピアノを手入れして、母さんの音を残してきたお前は、すごい」


 真珠は唇を震わせた。


「ありがとうございます」


     *


 海底のカイサーン城。


 怪人ラピスラズリは、青い水晶の鏡を見つめていた。


 鏡には、金城邸の大ホールが映っている。


 ピアノの前に座る真珠。


 その横に立つソフィア。


 思い出を取り戻しかけている姉。


 それを見守る妹。


 ラピスラズリの胸の奥で、青い結晶が軋んだ。


「また、絆を取り戻すのですか」


 その声は静かだった。


 だが、静けさの底には冷たい怨念が渦巻いていた。


「わたくしは、すべてを失ったというのに」


 玉座のクラーケンが目を開く。


「ラピスラズリよ。怒りが深まっているな」


「あの姉妹が笑うたび、わたくしの中の石が軋みますわ」


「ならば、その怨念を使え」


 クラーケンの触手から、海の悪魔の黒い泡があふれる。


 だが、今やクラーケン一人では新型怪人を完全には生み出せない。


 海の悪魔の憎しみだけでは足りない。


 大地の悪魔に選ばれたラピスラズリの怨念。


 それが加わって初めて、海と大地の二つの力を持つ怪人が生まれるのだ。


 烏賊王子も、ラピスラズリを見る目を変えていた。


 彼女はもはや、クラーケンに拾われた哀れな地上人ではない。


 カイサーンの新型怪人を生み出すために必要な、新幹部だった。


 クラーケンが言う。


「ラピスラズリ。お前の大地の闇を貸せ」


 ラピスラズリはゆっくりと前へ出た。


「ええ。あの悲しげなピアノの音ごと、砕いて差し上げます」


 クラーケンが海の悪魔の黒泡を放つ。


 ラピスラズリが両手を広げる。


 瑠璃色の結晶光と、土色の闇が流れ出す。


「大地の悪魔よ。我が嫉妬を、湿った泥と獣の牙に変えなさい」


 海の黒泡と大地の闇が絡み合う。


 そこから、ぬめる海鼠の身体と、ずんぐりした水豚の頭を持つ怪人が生まれた。


 海鼠と水豚。


 海と大地の境目にいるような奇妙な怪人。


 怪人ナマカピ男。

挿絵(By みてみん)

「ナマカピ……ぬるぬる、もふもふ、踏み荒らすカピ」


 烏賊王子が微妙な顔をした。


「……これは強いのか?」


 クラーケンは重々しく言った。


「油断するな。海鼠の再生力と粘液、水豚の突進力と地上適応力を併せ持つ。さらにラピスラズリの怨念が、相手の悲しい記憶に絡みつく」


 ラピスラズリは冷たく微笑んだ。


「行きなさい、ナマカピ男。花園姉妹の思い出を、泥と粘液で汚しておしまい」


「ナマカピ。仰せのままに」


     *


 金城邸の大ホール。


 真珠はもう一度、母の曲を弾いていた。


 ソフィアはピアノの横に立ち、目を閉じている。


 少しずつ、記憶が戻ってくる。


 母の手。


 妹の寝顔。


 朱珠と呼ばれる声。


 完全ではない。


 だが、確かに自分の中にある。


 その時、警報が鳴った。


『緊急警報。金城邸周辺にカイサーン反応』


 守の声が通信から響く。


『海の悪魔と大地の悪魔の混合反応。さらにラピスラズリの結晶エネルギーを検出』


 真珠が息をのむ。


「瑠璃様……」


 ソフィアは拳を握った。


「またあの女か」


 豊たちがホールへ駆け込んでくる。


「真珠、ソフィア、無事か!」


 その瞬間、庭の地面から黒い泥と海水が噴き上がった。


 ぬめる巨大な影が姿を現す。


 ナマコのような胴体。


 カピバラのような顔。


 太い足。


 そして、背中から伸びる青い結晶。


 怪人ナマカピ男。


「ナマカピ。悲しい音がするカピ。ぜんぶ泥で埋めるカピ」


 リュビィが顔をしかめる。


「変なの来た」


 怜音が叫ぶ。


「変なのはいつものことだろ!」


 豊がブレスを掲げる。


「みんな、変身だ!」


「富轟チェンジ!」


「ダイフゴー!」


 五色の光が弾ける。


「巨万の勇気! フゴーレッド!」


「相場を制する知略! フゴーブルー!」


「漆黒の旋律! フゴーブラック!」


「荒波育ちの黄金魂! 新フゴーイエロー!」


「奉仕の真心! フゴーピンク!」


 五人が並び立つ。


「富轟戦隊!」


「ダイフゴー!」


 リュビィも皇女の十字架を掲げる。


皇女の十字架クレースト・ツァレヴナ!」


「母なる海と父なる大地の命を持つ者!」


「愛の戦士リュビィ、参上!」


 ナマカピ男は体を震わせ、ぬめる粘液を飛ばした。


「ナマカピ粘液!」


 ブルーが叫ぶ。


「粘液に精神干渉反応! 触れるな!」


 しかし、粘液は庭に広がり、ホールの窓にも飛び散った。


 その瞬間、真珠の耳に悲しいピアノの音が響いた。


 売られていく屋敷。


 運び出される家具。


 遠ざかる母のピアノ。


 中学生の自分。


 何もできず、ただ頭を下げるしかなかった自分。


 ピンクの動きが鈍る。


「わたくしは……何も守れなかった……」


 ナマカピ男が突進する。


「泥に沈めるカピ!」


 ピンクが反応できない。


 その前に、新イエローが飛び込んだ。


「真珠!」


 黄金の弓で突進を受け止める。


 重い衝撃。


 ソフィアは地面を滑る。


「ぐっ……!」


 ピンクが我に返る。


「ソフィア!」


 新イエローは歯を食いしばる。


「お前の悲しみは、お前だけのものじゃない。私にも少し思い出せた。あのピアノも、母さんも、花園家も」


 ピンクは震える声で言う。


「でも、わたくしは守れませんでした」


「中学生だったんだろ!」


 ソフィアは叫んだ。


「中学生の妹が全部守れるわけないだろ! そんなもん、背負わせる方が間違ってる!」


 ピンクの目が見開かれる。


「ソフィア……」


「それに、ピアノはここにある。母さんの曲も、お前の手も、残ってる。全部なくしたわけじゃない!」


 ピンクの手がサーベルを握り直す。


「はい……!」


 ナマカピ男が再び粘液を飛ばす。


「ナマカピ! 悲しい記憶に沈めカピ!」


 リュビィがリュビィ・タクトを掲げた。


「愛の光よ、悲しみを切って!」


 白い光の剣が伸び、粘液を切り払う。


「リュビィ・タクト、ラブリー・スラッシュ!」


 粘液が光の粒になって消える。


 ブルーが叫ぶ。


「今だ。精神干渉が弱まった!」


 ブラックがギターアックスを振る。


「ブラック・ロックアックス!」


 レッドが二丁拳銃を撃つ。


「レッド・ミリオンショット!」


 イエローとピンクが並ぶ。


「真珠、曲を思い出せ」


「曲を?」


「あの母さんの曲だ。悲しいだけじゃない。優しい曲なんだろ!」


 ピンクは静かにうなずいた。


 頭の中で、母のピアノが鳴る。


 悲しい旅芸人の少年へ、せめて音だけは優しく届くように。


 ピンクのサーベルが柔らかな桃色に輝く。


 新イエローの弓が黄金に輝く。


「ピンク・メロディサーベル!」


「イエロー・マーモットショット!」


 二つの光がナマカピ男を貫いた。


「ナマカピィッ! 悲しいのに、あったかいカピィ!」


 レッドが叫ぶ。


「富轟バスターだ!」


 五人の武器が合体する。


「富轟バスター!」


 リュビィもタクトを掲げる。


「ラブリー・レイ!」


 黄金の光弾と白い光が合わさり、ナマカピ男を直撃する。


「ナマカピィィィ!」


 ナマカピ男は爆発した。


     *


 だが、カイサーン城でクラーケンが触手を掲げる。


 隣にはラピスラズリ。


「ラピスラズリ。巨大化だ」


「ええ。あのピアノの記憶ごと、踏み潰して差し上げます」


 二人の力が重なる。


 海の悪魔の黒泡。


 大地の悪魔の瑠璃色の闇。


 爆煙へ注がれた二つの力で、ナマカピ男は巨大化した。


「巨大ナマカピ! 屋敷ごと泥に沈めるカピ!」


 レッドが叫ぶ。


「豪商軍!」


 リュビィが続く。


「ソウルアーク!」


     *


 五体の富豪メカが出撃し、豪商軍へ合体する。


 同時に、ソウルアークが海から浮上する。


 巨大ナマカピ男は粘液で豪商軍の足を絡め取り、カピバラの突進力で体当たりしてくる。


「ナマカピタックル!」


 豪商軍が後退する。


 ブルーが叫ぶ。


「粘液で関節部が拘束されている!」


 ソウルアークが光の錨を放つが、ナマカピ男のぬめる身体に弾かれる。


 リュビィが叫ぶ。


「ぬるぬるしてる!」


 ブラックが言う。


「見た目通りだな!」


 ピンクは操縦席で目を閉じた。


 頭の中に、母のピアノが響く。


 その旋律に、ソフィアの声が重なる。


「全部なくしたわけじゃない」


 ピンクは目を開いた。


「聖商軍です!」


 レッドがうなずく。


「聖魂合体!」


 豪商軍とソウルアークが光に包まれる。


「完成!」


聖商軍(セイショーグン)!」


 聖商軍が白金の光をまとって立ち上がる。


 巨大ナマカピ男は粘液を大量に飛ばす。


「悲しみ粘液!」


 リュビィがリュビィ・タクトを掲げた。


「愛の光よ、みんなの記憶を守って!」


 聖商軍の手に白い光の剣が伸びる。


 ピンクが静かに言った。


「母のピアノは、悲しみだけではありません」


 新イエローが続ける。


「母さんの優しさも残ってる!」


 レッドが叫ぶ。


「金で買えないものを守るぞ!」


 聖商軍の胸の魂の宝玉が輝く。


 そこに、花園夫妻の魂の光が重なった。


 ピアノの旋律のような光が、聖商軍の剣に宿る。


「必殺!」


「セイント・ハードカレンシー!」


 白金の剣撃が、巨大ナマカピ男の粘液と闇を切り裂いた。


「ナマカピィィィ! 思い出は泥に沈まないカピィィ!」


 巨大ナマカピ男は光に包まれ、大爆発した。


     *


 戦いの後。


 金城邸の大ホール。


 ピアノは無事だった。


 真珠はそっと鍵盤に触れた。


「よかった……」


 ソフィアは少し離れて立っている。


「なあ、真珠」


「はい」


「もう一度、弾いてくれないか」


 真珠は微笑んだ。


「もちろんです」


 真珠が弾き始める。


 ベートーベンの『Das Lied des Marmottenbuben』。


 悲しい旅の歌。


 けれど、その音は先ほどより少しだけ明るかった。


 ソフィアは目を閉じる。


 白いカーテン。


 午後の日差し。


 母の横顔。


 小さな真珠。


 ピアノの横に立つ自分。


 そして、母の声。


 歌詞が、ゆっくりと戻ってくる。

挿絵(By みてみん)

 ソフィアは小さく息を吸い、真珠の隣で歌い始めた。


「Ich komme schon

durch manches Land,

Avec que la marmotte,

Und immer was zu essen fand,

Avec que la marmotte.」


 真珠の指が一瞬止まりそうになる。


 だが、止めなかった。


 ソフィアは、たどたどしくも明るく歌った。


「いろんな国を旅してきた」


「マーモットと一緒に」


「なんとか食べ物にありつきながら」


「マーモットと一緒に」


 その歌詞は悲しい。


 一文無しの少年が、マーモット一匹を連れて諸国を巡る歌。


 けれど、ソフィアの声は明るかった。


 陽気で、強く、前を向いていた。


 それは、悲惨で辛いソビエト社会でも、いつも明るく陽気だった養父アレクセイのような歌い方だった。


 何もなくても、笑う。


 食べ物が少なくても、歌う。


 海が荒れても、明日また船を出す。


 マーモット一匹だけを連れて旅する少年も、きっとそうだったのかもしれない。


 明るく。


 陽気に。


 元気よく。


 真珠のピアノの音が、少しずつ変わっていく。


 悲しげだった旋律に、温かさが混じる。


 ソフィアの歌声が重なる。


 真珠の目から涙がこぼれた。


「ソフィア……覚えていたのですね」


「全部じゃない。でも、この歌は出てきた」


 ソフィアは少し照れくさそうに笑った。


「母さんが教えてくれたんだな」


「はい」


 真珠はうなずいた。


「母が、わたくしたちに教えてくれました」


 ソフィアはピアノに手を置いた。


「私はまだ、完全には花園朱珠(はなぞのすず)じゃない。ソフィアのままだ」


「それでいいです」


 真珠は涙を拭いた。


「ソフィアも、朱珠姉さんも、どちらもわたくしの姉です」


 ソフィアは真珠の頭に手を置いた。


「じゃあ、真珠。もう一回弾け」


「はい」


「今度は、もっと明るく」


 真珠は微笑んだ。


「はい」


 ピアノの音が、もう一度ホールに広がる。


 ソフィアは明るく歌う。


 悲しい歌を、明るく。


 失ったものを抱えながら、それでも前へ進むように。


 その日、花園姉妹は小さな絆を取り戻した。


 母のピアノと、失われた歌を通じて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ