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ニーナ〜統合失調症の俺にだけ見える少女は、顔のない怪物を狩る〜  作者: qp46


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1話 統合失調症

夜勤の終わりが近付く頃になると、店内の空気は少しずつ変わっていく。


深夜の客が途切れ、代わりに出勤前の会社員や朝練へ向かう学生が増え始める時間帯で、同じコンビニのはずなのに数時間前とは別の場所のように見えるのが不思議だった。もっとも、そう感じるのは彼方自身の方かもしれない。日付が変わる頃にはまだ余裕があった身体も、朝が近付くにつれて少しずつ重さを増し、レジ横の時計を見るたび帰宅という言葉だけが現実味を帯び始める。


眠い。


そう言ってしまえば簡単だが、実際にはもう少し複雑だった。


頭は動いている。


レジの打ち間違いもない。


商品の位置も覚えている。


客に何か聞かれても普通に答えられる。


ただ身体の奥へ少しずつ砂が積もっていくような疲労感だけが残り続け、その感覚が限界へ近付く頃に朝が来る。


彼方はレジから店内を見渡した。


雑誌コーナーの前で立ち止まる会社員。


飲み物を選んでいる学生。


入口近くでスマートフォンを見ている女性。


誰が何をしているのか自然と目に入る。


意識して見ているわけではない。


むしろ見ない方が楽なのかもしれないが、気付けば視界へ入った情報が頭の中へ積み重なっている。何かを探している人とそうでない人の違い、レジへ向かおうとしている人の歩き方、急いでいる人と時間を潰している人の空気の違いまで何となく分かってしまうのは昔からだった。


店長はそれを気配りだと言う。


彼方にはよく分からない。


ただ確認しているだけだ。


誰がどこにいるのか。


何が起きそうなのか。


危険はないのか。


それを無意識に見ているだけで、褒められるようなことではないと思っている。


「式島くん」


声を掛けられ振り返る。


段ボールを抱えた店長がこちらを見ていた。


「もう上がっていいよ」


その言葉を聞いた瞬間、身体の奥で張り詰めていたものが少しだけ緩む。


帰れる。


ただそれだけのことなのに嬉しい。


社会人でもないのにそんなことを考える自分がおかしく思える時もあるが、眠れると分かった瞬間に元気になるのはたぶん人間の仕様なのだろうと彼方は思う。


「ありがとうございます」


「今日も助かったよ」


そう言われても実感はなかった。


レジを打った。


品出しをした。


客対応をした。


やるべきことをやっただけだ。


真面目だと言われることもあるが、自分としては失敗したくないだけだった。怒られるのも嫌だし、誰かが困るのを見るのも嫌だ。その結果として仕事が出来るように見えているのだとしたら、それは能力というより性格の問題なのかもしれない。


ロッカーで制服を脱ぎながら今日の予定を思い出す。


病院だった。


その事実が頭へ浮かんだ途端、帰宅への安心感とは別の重さが胸の奥へ沈む。


病院が嫌なわけではない。


医師は優しい。


薬も飲んでいる。


だから通院そのものに不満はない。


ただ診察の日になると、自分が見ているものについて話さなければならないことを思い出す。目の前に存在しているとしか言いようのないものを説明しようとするたび言葉だけが空回りし、本当に伝えたいことがどこかへ零れ落ちていくような感覚があり、その感覚だけは何年経っても慣れなかった。


荷物を肩へ掛け、従業員用の出口へ向かう。


扉の向こうには朝がある。


夜勤明け特有の白い光。


人が動き始める前の静かな空気。


その景色を想像しながらドアノブへ手を掛けたところで、彼方は隣に立つ少女へ自然と視線を向ける。


驚きはない。


いつものことだからだ。


朝になればいる。


夜になればいる。


それがいつから始まったのかだけは思い出せない。


「終わった?」


ニーナの声を聞きながら扉を開く。


冷たい空気が流れ込み、火照った頭を少しだけ冷ましていく。その心地良さに目を細める一方で、自分にとって当たり前になり過ぎている隣の存在を改めて認識した瞬間、もし本当に普通の人間なら今見えている景色は少し違っているのだろうかという考えだけが、朝の空気に混ざるように静かに頭の隅へ残った。


自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら歩き始めると、夜勤中には感じなかった冷たさが肌へ残った。


季節のせいなのか、徹夜明けだからなのかは分からない。ただ身体の奥へ沈んだ疲労が外気へ触れた途端に輪郭を持ち始め、今すぐ帰って布団へ潜り込みたいという気持ちが少しだけ強くなる。


もっとも今日は真っ直ぐ帰れない。


病院がある。


頭の中へ浮かんだ予定を追い払うように息を吐きながら歩いていると、隣から靴音が聞こえる。


ニーナだった。


彼方は特に気にしない。


気にしないというより、気にする段階を何年も前に通り過ぎてしまった。


いつからいるのか分からない。


どうしているのかも分からない。


それなのに隣へいることだけは自然で、朝の通学路に電柱が立っていることや信号機があることと同じくらい当たり前になっている。


だからこそ時々不安になる。


慣れてしまったものほど異常に気付きにくい。


それは人間関係でも仕事でも同じで、自分にとって普通になった瞬間に疑うことをやめてしまう。


ニーナもたぶんそうだった。


「眠そう」


その声を聞きながら彼方は小さく笑う。


夜勤明けの人間へ言う言葉としてはあまりにも当たり前で、逆に少しだけ気が楽になった。


「夜勤明けだからな」


そう返しながらも、自分が本当に眠いだけなのかは少し分からなかった。


身体は疲れている。


それは確かだ。


だが最近は眠ったという実感そのものが曖昧になり始めている気がする。


目を閉じる。


気付けば朝になっている。


その間に夢を見たのかも覚えていない。


眠れているのかと聞かれれば眠れている気もするし、休めているのかと聞かれると少し違う気もする。


病院で聞かれるたび上手く答えられないのは、その感覚に名前が付いていないからなのかもしれなかった。


駅前へ近付くにつれ人が増えてくる。


出勤途中の会社員。


学生。


犬を散歩させている老人。


誰も彼も自分の目的地へ向かって歩いているように見える。


彼方はそんな人の流れを眺めながら、無意識に視線を動かしていた。


急いでいる人。


立ち止まりそうな人。


誰かとぶつかりそうな人。


別に見たくて見ているわけではない。


ただ気付く。


そして気付いた情報が頭のどこかへ残る。


昔からそうだった。


そのせいで疲れることもある。


人混みの中にいるだけで頭へ入ってくる情報量が増え過ぎて、何も考えていないつもりでも気付けば神経だけがすり減っていることがある。


「また見てる」


ニーナの声が聞こえる。


彼方は少しだけ眉を寄せた。


否定しようと思ったが、たぶん否定出来ない。


実際に見ているからだ。


誰がどこにいて、何をしていて、どこへ向かおうとしているのかを無意識に拾っている。


ただ、それが普通じゃないと言われると少し困る。


自分にとっては昔からそうだった。


昔からそうだったものを急に異常だと言われても、何を基準に普通を考えれば良いのか分からなくなる。


だから結局何も言わずに歩き続ける。


その時だった。


駅前の横断歩道を渡ろうとした瞬間、人混みの向こう側で立ち止まっている誰かが視界へ入る。


会社員かもしれない。


学生かもしれない。


距離があるせいで服装もよく見えない。


ただ一つだけ分からないものがあった。


顔だった。


目も。


鼻も。


口も。


そこにあるはずなのに認識だけが引っ掛かる。


写真の一部へモザイクが掛かったような、夢の内容だけ思い出せない時のような、不自然な欠落だけが人混みの向こう側へ立っている。


彼方は足を止める。


見間違いかもしれないと思った。


疲れているのかもしれないと思った。


実際、病院へ通っている理由だってそこにある。


だからもう一度見ようとした。


だが信号が変わり、人の流れが動き出した瞬間には、その姿はどこにも見当たらなかった。


探しているわけではない。


探したいわけでもない。


それなのに見失ったことへ少しだけ安堵している自分へ気付き、彼方は無意識に肩の力を抜く。


「いた?」


ニーナの声が聞こえる。


短い言葉だった。


けれど彼方はすぐ返事をしなかった。


何を見たのか自分でも上手く説明出来なかったからだ。


見えた気がした。


ただそれだけだ。


それ以上でもそれ以下でもない。


そう思おうとしているのに、視界の奥へ焼き付いた違和感だけは消えず、人混みの中を歩き始めた後も、自分が本当に見たものが何だったのかという考えだけが静かに頭の隅へ残り続けていた。


人混みの中へ紛れてしまった違和感は、それ以上追い掛けようとしなければすぐに消えてしまいそうなものだった。


実際、彼方もそうするつもりだった。


病院へ行く。


診察を受ける。


薬を貰う。


今日はそれだけの日だ。


顔の見えない誰かを見た気がしたとしても、それが見間違いならそれで終わる話だし、仮にそうでなかったとしても今ここで考えたところで答えが出るわけではない。


そう思いながら歩いているうちに病院の建物が見えてくる。


見慣れた外観だった。


白い壁。


大きな窓。


入口横の植木。


何度も通っている場所なのに、近付くにつれて少しずつ足取りが重くなる感覚だけは変わらない。


病院が怖いわけではない。


医師も優しい。


受付の人達も親切だ。


それでもこの建物へ入る時だけ、自分が見ている世界について考えなければならなくなる。


考えないようにしているわけではない。


むしろ毎日考えている。


ただ病院ではそれを言葉にしなければならない。


その違いが大きかった。


「行きたくない?」


隣から聞こえた声に彼方は少しだけ視線を向ける。


ニーナがこちらを見ていた。


いつも通りの表情だった。


心配しているようにも見えるし、ただ聞いているだけにも見える。


その曖昧さは昔から変わらない。


「そういうわけじゃない」


答えながら病院の入口を見る。


行きたくないわけではない。


本当にそうなのだ。


薬を飲み始めてから少し楽になった部分もある。


眠れる日も増えた。


見えなくなることだってある。


だから通院が無意味だと思ったことはない。


ただ、それと同時に言葉に出来ない何かが胸の奥へ残り続けている。


もし本当に全部なくなったらどうなるのだろう。


その考えは何度も浮かんでいる。


病気なら治る方がいい。


それは分かる。


誰だってそう言う。


彼方自身もそう思っている。


なのに、その先の未来を想像した時だけ上手く呼吸が出来なくなるような感覚が残るのは、自分でも説明出来なかった。


「そっか」


ニーナはそれ以上何も言わない。


短い返事だった。


けれど彼方は無意識にその言葉の意味を考えてしまう。


納得したのか。


諦めたのか。


何も考えていないのか。


分からない。


ニーナは昔からそうだった。


何を考えているのか分かりそうで分からない。


ただ彼女の言葉を聞く度に、自分が気付いていなかった何かを考え始めてしまう。


病院の自動ドアが開く。


冷房の効いた空気が流れ出てくる。


彼方はそのまま中へ入った。


待合室には何人か患者が座っている。


雑誌を読んでいる人。


眠っている人。


ぼんやり窓の外を見ている人。


誰も彼も普通に見える。


少なくとも彼方にはそう見える。


だから時々分からなくなる。


自分だけが違うのか。


それとも、ここへ来る人達は皆どこかで同じようなことを考えているのか。


診察券を取り出し受付へ向かいながら、彼方はさっき駅前で見た違和感を思い出す。


顔が見えなかった。


そう思った。


だが本当にそうだったのだろうか。


疲れていただけではないのか。


人混みに紛れた誰かを見間違えただけではないのか。


思い返そうとするほど輪郭は曖昧になり、代わりに確かだったはずの記憶まで少しずつ崩れていく。


結局、自分が何を見たのかは分からない。


ただ分からないという感覚だけが残る。


その感覚は病院へ来るたび抱くものと少し似ていて、自分の認識そのものへ小さな疑問符を付け続けるような不安だけが静かに胸の奥へ沈んでいくのを感じながら、彼方は受付で名前を呼ばれるのを待った

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