プロローグ
プロローグ
彼方は今でも、自分がいつからおかしくなったのか思い出せない。
小学生の頃だった気もするし、もっと前だった気もする。ただ気づいた時にはもう当たり前になっていて、だから異常だと認識する方が難しかった。
最初は人混みの中だった。
買い物へ出かけた商店街だったか、駅前だったか、それすら曖昧だ。ただひとつだけはっきり覚えているのは、その時見た誰かの顔がどうしても認識できなかったことだった。
目も鼻も口も見えているはずなのに理解できない。
視線を向ければ向けるほど輪郭が曖昧になり、まるで脳がそこだけを拒絶しているみたいにノイズが走る。
怖かった。
だが同時に、周囲の人間が平然としていることの方が不気味だった。
誰も気にしていない。誰も見ていない。誰も存在に違和感を抱いていない。
そこに確かに立っているのに。彼方は母親へ話した。
顔の見えない人がいる、と。母親は困ったように笑い、疲れているんじゃないかと言った。
教師へも話した。保健室へ連れて行かれた。友達へも話した。
笑われた。当然だったと思う。彼方自身、説明できなかったからだ。
見えている。確かにそこにいる。
なのに顔だけが理解できない。そんな話を信じろと言われても無理がある。だから彼方は黙ることを覚えた。
見えても言わない。聞こえても言わない。怖くても言わない。
そうしているうちに、顔のない人影は少しずつ増えていった。
駅にもいた。学校にもいた。住宅街にもいた。
ただ不思議なことに、彼らは何かをするわけではなかった。いつも喋っている。
ずっと、何かを。
だが言葉だけが理解できない。耳へ届く前に壊れてしまうみたいに、意味だけが抜け落ちていく。
だから彼方は長い間、それを幻覚だと思おうとしていた。病気なのだと。そう考えれば納得できる。説明もつく。少なくとも周囲はそう言っている。だが高校へ入ってしばらく経った頃から、その考えは少しずつ揺らぎ始めた。
幻覚なら。
病気なら。
どうしてこんなにも現実感があるのだろう。どうして彼らは、こちらを見ているのだろう。どうして。名前を知っているのだろう。その日も彼方は一人で帰宅していた。
夕暮れだった。
住宅街は静かで、空は雨が降る直前みたいに重く曇っていた。顔のない人影は電柱の横に立っていた。見慣れた光景だった。だから彼方は無視しようとした。いつもみたいに。関わらないように。視線を逸らして通り過ぎようとした。
『——彼方』
その瞬間だった。彼方の足が止まる。
聞こえた。初めて、はっきりと。自分の名前だけが。耳鳴りでもない。ノイズでもない。確かに呼ばれた。振り返った先には、顔のない人影が立っている。夕暮れの中で。じっと。こちらを見ていた。そして。
「やっと見つけた」
背後から少女の声がした。彼方が振り返る。そこには白いワンピースを着た少女が立っていた。長い黒髪が風に揺れている。
不思議なことに、その少女だけは顔が見えた。初めてだった。顔の見える存在は。少女は少しだけ微笑む。まるでずっと前から知っていたみたいに。まるでようやく再会できたみたいに。そして静かな声で言った。
「彼方」
「もう、見えるんだね」




