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ニーナ〜統合失調症の俺にだけ見える少女は、顔のない怪物を狩る〜  作者: qp46


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3/3

診察

病院の待合室へ入ると、外の空気が一枚剥がれ落ちるような感覚があった。


自動ドアが閉まる音の後に残るのは、受付の奥でキーボードを叩く音や、どこかの診察室から漏れてくる小さな話し声、椅子に座った誰かの咳払い。それらは確かに聞こえているのに、コンビニや駅前で浴び続けていた人の流れとは違って、病院の中では音そのものが少し遠くなる。静かというより、静かでなければならない場所にいるのだと、身体の方が先に理解してしまう感じだった。


彼方は受付で診察券を出し、返された番号札を受け取ってから窓際の椅子へ腰を下ろした。


何年も通っている場所なのに、座る位置はだいたい同じになる。入口から近すぎず、受付からも遠すぎず、呼ばれたらすぐ立てて、周囲を見渡そうと思えば見渡せる位置。わざわざ考えて選んでいるわけではないが、気付けば身体がそこを選んでいる。


待合室には数人の患者がいた。


雑誌を読んでいる中年の女性。スマートフォンを伏せたまま膝の上で手を組んでいる若い男。壁の時計を何度も見上げている老人。それぞれの仕草が彼方の中へ勝手に積み重なっていく。誰が落ち着かないのか、誰が呼ばれるのを待っているのか、誰が本当に雑誌を読んでいるわけではなく紙面へ視線を置いているだけなのか。分かるわけがないと思う一方で、分かるような気がしてしまうのだから疲れる。


見ない方が楽なのだろう。


そう思って視線を落としても、耳は勝手に音を拾う。受付で名前を呼ぶ声、扉の開閉、隣の椅子が軋む音、誰かが息を吐く気配。そのどれも大したことではないのに、頭の中では一つずつ位置を持って残り続ける。


「また見てる」


隣から聞こえた声に、彼方は番号札へ落としていた視線を少しだけ上げた。


ニーナはいつの間にか隣の椅子に座っていた。座っていた、という表現が正しいのかは分からない。気付いた時にはそこにいて、足を揃え、退屈そうに待合室のテレビを眺めている。天気予報の映像が流れているが、彼女がそれを理解しているのか、そもそも興味があるのかは彼方にも分からなかった。


「見てない」


そう返した瞬間、自分でも嘘に近いと思った。実際には見ているし、見ていないつもりでも意識は勝手に周囲へ広がっている。人の動きが気になる。音が気になる。誰かが立ち上がる気配に反応する。それを口にすると、普通の範囲から少しずつ外れていくような気がする。


ニーナは彼方の返事を聞いて、小さく首を傾げた。


「見てるよ」


短い言葉だったが、責めるような響きはなかった。ただ事実を置くような声で、彼方は反論する代わりに待合室の床へ視線を落とした。白っぽい床に靴跡が薄く残っていて、清掃されているはずなのに完全には消えないその跡を見ていると、自分の頭の中も似たようなものなのかもしれないと思う。必要ない情報まで薄く残り続け、忘れたつもりでも何かの拍子にまた浮かび上がる。


「眠そう」


ニーナの声がまた聞こえた。


夜勤明けなのだから当然だと思う一方で、眠そうと言われると、自分が外からどう見えているのかを意識してしまう。目の下に隈があるのか、顔色が悪いのか、待合室にいる他の患者と同じように、どこか疲れた人間としてこの場所に馴染んでしまっているのか。そんなことを考え始めると、眠気よりも別の重さが先に来る。


「夜勤だったからな」


言いながら、彼方は自分の声が思ったより低く聞こえたことに少し引っ掛かる。疲れている時の声は自分のものではないように感じることがあり、口から出た言葉が少し遅れて自分の耳へ戻ってくるような感覚があった。


ニーナはテレビから視線を外し、彼方の顔を覗き込む。


「先生に言う?」


その問い掛けを聞いた瞬間、彼方は診察室で聞かれるであろう質問を思い浮かべる。眠れているか。薬は飲めているか。最近変わったことはないか。まだ見えるか。順番まで想像できるくらいには通い慣れているのに、いざ聞かれると答えに迷うのは、自分の状態を自分が一番分かっていないからなのかもしれない。


「聞かれたら言う」


そう答えると、ニーナはそれ以上何も言わなかった。


短い沈黙が落ちる。


気まずいわけではない。ニーナとの沈黙には慣れている。ただ、彼女が黙るとその分だけ待合室の音が戻ってくる。受付の声、椅子の軋み、時計の秒針、誰かがページをめくる音。その中に自分の呼吸まで混ざっていることに気付くと、ここに座っている自分もまた、他の誰かから見れば待合室の一部に過ぎないのだろうと思った。


名前を呼ばれる。


彼方は一瞬反応しかけたが、自分ではなかった。老人がゆっくり立ち上がり、診察室へ向かって歩いていく。その背中を目で追いそうになってやめる。見ても意味はない。意味はないのに見てしまうから疲れる。


待つ時間は嫌いではない。何もしなくていいからだ。けれど病院の待ち時間だけは少し違う。何もしなくていいはずなのに、何を聞かれるのか考えてしまう。どう答えればいいのか、どこまで話せばいいのか、何を言えば余計な心配をされずに済むのか。そういうことを考えている時点で、正直ではないのかもしれないと思う。


やがて受付の女性が彼方の名前を呼んだ。


ニーナがこちらを見る。


「行ってらっしゃい」


その言葉を聞いた時、彼方は少しだけ返事に迷った。行ってくる、と返すのは変な気がしたし、無視するのも違う気がした。結局小さく頷くだけにして立ち上がると、診察室へ向かう数歩の間に、待合室の音が背中の方へ遠ざかっていく。


扉を開けると、そこにはいつもの医師がいた。


机の上にはカルテがあり、窓際には観葉植物が置かれている。何度も見ている景色のはずなのに、彼方はこの部屋へ入るたび配置を確認してしまう。書類の量、時計の位置、椅子の向き、医師の表情。変わっていないことを確認しているのか、変化を探しているのか、自分でもよく分からない。


「最近はどうですか」


医師の声は穏やかだった。


その穏やかさに少し救われる反面、最近という言葉の中へ何を入れればいいのか彼方は迷う。夜勤は続いている。眠気もある。顔の見えない人を見た気もする。ニーナは隣にいる。どれも最近の出来事で、どれも説明しようとすれば上手く形を失っていく気がした。


「変わらないです」


それが一番近い答えだった。


医師は頷き、カルテへ何かを書き込む。ペンの擦れる音が診察室の中で妙に大きく聞こえ、その音を聞いているうちに、次に来る質問の輪郭が自然と頭の中へ浮かび上がる。睡眠、薬、そして見えているもの。通い慣れているはずなのに、その順番を予想できてしまうこと自体が少し嫌だった。


「睡眠はどうですか」


眠い。


その一言で済めば楽だった。


けれど実際には、眠いという言葉だけでは足りない。横にはなっている。目を閉じてもいる。気付けば時間が飛んでいることもある。けれど休めた感覚だけが追い付かず、眠ったはずなのに身体の奥へ疲労が残っている。その状態を眠れていると言うべきなのか、眠れていないと言うべきなのか、彼方には毎回分からなくなる。


「前と同じくらいです」


言葉にした途端、それが便利な逃げ方に聞こえた。


前と同じくらい。良くも悪くもない。医師にとっては経過を示す言葉かもしれないが、彼方にとっては自分でも掴めていないものを曖昧なまま置いておくための言葉だった。


医師がまたカルテへ書き込む間、彼方は診察室の隅へ視線を向ける。


ニーナは本棚の前に立っていた。背表紙を眺めているように見えるが、読んでいるのか、ただそこに視線を向けているだけなのかは分からない。そもそもニーナが文字を読めるのかどうかも、彼方は考えたことがなかった。考えたことがなかったというより、考える必要がなかった。彼女がそこにいることがいつの間にか日常になっていて、その日常の細部を疑うことを忘れていた。


「薬は飲めていますか」


医師の問い掛けで、彼方の意識は戻る。


飲んでいる。忘れる日もあるが、基本的には飲んでいる。薬を疑っているわけではないし、医師を信じていないわけでもない。むしろ信じているから通っているし、飲むべきだと思うから飲んでいる。ただ、薬について考える時だけ、治るという言葉の先にある景色が上手く想像できなくなる。


「飲んでます」


そう答えると、ニーナが本棚の前で少しだけこちらを見た気がした。


気がしただけかもしれない。


彼方はすぐに視線を戻す。


「まだ見えますか」


その質問が来ることは分かっていた。


分かっていたのに、実際に聞かれると胸の奥が少し重くなる。見えているものを見えていると言えばいいだけではない。医師にとってそれは症状で、彼方にとっては日常で、その二つが同じ言葉の中へ入ってしまうことが、いつも少しだけ息苦しかった。


「見えます」


答えた後、診察室にある沈黙の質が少し変わったように感じる。


医師は驚かない。否定もしない。ただ頷く。その反応は優しく、正しく、だからこそ彼方は少し寂しくなる。信じてくれているわけではない。否定しないでくれているだけだ。その違いは小さいようでいて、彼方の中ではずっと埋まらない距離として残っている。


「振り回されないことが大事ですからね」


医師の言葉を聞きながら、彼方は本棚の前にいるニーナを見る。


振り回されているのだろうか。


症状に。ニーナに。自分自身に。


答えは出ない。けれどニーナがいない生活を想像しようとすると、治るという言葉が急に冷たいものへ変わっていく感覚だけがあった。


診察はいつも通り終わった。


薬は現状維持。無理をしないこと。睡眠を出来るだけ取ること。変化があればすぐ相談すること。どれも正しい言葉だった。だから彼方は頷いた。頷きながら、正しい言葉だけで全部が片付くなら、自分はここまで何年も通っていないのかもしれないとも思った。


診察室を出ると、待合室の音が戻ってくる。


受付で会計を済ませ、処方箋を受け取り、病院の外へ出ると、朝の空気はもう少し温くなっていた。夜勤明けの冷たさは薄れ、街は完全に朝の顔をしている。人が歩き、車が走り、信号が変わる。当たり前の景色の中へ戻ってきたはずなのに、彼方の胸の奥には診察室で聞かれた言葉がまだ残っていた。


まだ見えるか。振り回されないこと。薬は現状維持。


それらは医師の言葉としては正しいのだろう。けれど彼方の中では、正しさよりも先に別の問いが残る。


見えなくなることは、本当に良くなることなのだろうか。


そう考えた瞬間、隣を歩くニーナがこちらを見た。


「飲むの?」


短い言葉だった。


彼方はすぐに答えられなかった。処方箋を持つ指先に少し力が入る。薬を飲むのは当然だ。飲まなければならないし、飲んだ方がいい。分かっている。分かっているのに、その問い掛けだけはただの確認では済まなかった。


「飲むよ」


答えながら、彼方はそれが自分の意思なのか、何年も繰り返してきた習慣なのか少し分からなくなる。


ニーナは彼方の横を歩いている。白い服の裾が朝の光の中で揺れているように見える。実際に揺れているのかは分からない。風を受けているのか、そう見えているだけなのかも分からない。ただ彼方にはそう見える。


「そっか」


ニーナの返事はそれだけだった。


その短さが、かえって胸の奥へ残った。責められたわけではない。悲しまれたわけでもない。けれど彼方は、その一言の中に自分が勝手に何かを読み取ろうとしていることに気付く。ニーナが何を思ったのかではなく、自分が何を恐れているのかを探そうとしているのかもしれない。


薬局へ向かう道はいつも通りだった。


それでも彼方は歩きながら、もし薬を飲み続けて本当に何も見えなくなった時、自分は安心するのだろうかと考える。普通になりたいと思っている。静かに生きたいと思っている。疲れずに眠りたいと思っている。けれどその普通の中にニーナがいないのだとしたら、自分が望んでいるものは本当に普通なのか、それとも今ある孤独を少しでも失いたくないだけなのか、その境目だけがどうしても分からなかった。

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