第二話(6)
重國は自分に任せろ、と言った。
そして、本当にその通りにしてしまった。
織子は未だ実感のわかないまま、隣に座る少年・昂をちらっと横目に見る。
昂は今、橘家のダイニングテーブルで一緒に夕食をとっている。本日のメニューはハンバーグ。織子の母が、昂のために作ったものだ。
(…まさか…、本当にこんなことになるなんて…)
思いもよらなかったと、織子は一人、ため息を吐く。
銀星の在所、異界を出た後、織子は再び辰見家の車(リムジンだと聞いた)に乗って帰宅した。
突然高級車から降りてきた娘に母は驚き、一緒に降りた重國が辰見家の当主だと聞いて(これには織子も)さらに驚いた。
「大切なお嬢様を連れまわしてしまって、申し訳ございません」
丁寧に頭を下げた重國は、母にこう言って話を切り出した。
曰く、
重國は遠縁にあたる少年、昂を辰見家に引き取った。
昂は母親と二人で暮らしていたが、その母親が病死し、他に頼る親戚もないので重國が引き取ることになったのだという。
しかし、母親に懐いていた昂は辰見家に慣れず、誰とも口をきかず、笑うことも泣くことなく。まるで人形のようになってしまった。そして世話人達の目を盗んでは、屋敷を抜け出すようになった。
昂が目指すのは母親と二人で暮らしていたアパートだ。けれど、そこはとても遠い街にあり、子供が一人でたどり着ける場所ではない。
けれど、何度連れ戻されても昂はそこへ行こうとした。母親は死んだのだと、もう会えないのだと諭しても、聞かなかった。
この辺りで、涙もろい織子の母はすっかり絆されてしまっていた。
織子にしがみつき、恐る恐るといった態で自分を見上げている幼い少年に、すっかり同情してしまっていたのだ。
「今日も、昂は屋敷を抜け出しまして…」
苦笑する重國は、さらに嘘八百を並べ立てる。
脱走した昂が逃げ込んだ先は、小さな公園だった。ちょうど、織子の通う高校の近くにある公園である。そこで、偶然居合わせた織子が一人ぽつんと座り込む昂を気にかけ、一緒に遊んでくれたのだという。
「織子さんと遊んでいる昂を見て、驚きました。恥ずかしながら、私は昂の笑った顔を見たことがなかったのです…」
(嘘つき…。この子、よく笑うじゃない…)
ニイっと、それはとても子供らしくない笑みだけれど。
「織子さんの顔を見て、納得しました。織子さんは、亡くなった昂の母親にどこか面差しが似ている…」
そうしてすっかり織子に懐いてしまった昂は、傍を離れず。
無理やり引き離そうとすると、泣いて暴れて大変なのだという。
「昂も、織子さんが自分の母親でないことはわかっているのです。それでも、離れがたいらしい…。大変不躾で、無遠慮な事とわかってはおりますが…」
そこで重國は、深々と頭を下げた。
「どうか昂を、しばらくそちら様で預かってはいただけないでしょうか…。もちろん、無理なお願いだとわかっています。けれど…」
ぽん、と重國が昂の頭に手を置く。
それが合図だったかのように、昂は今にも泣きそうな顔で織子の母を見つめた。
このお姉ちゃんと、離れなきゃダメ…? そう、うるんだ瞳が訴えていた。
名演技である。織子には、母がすっかりこの二人の嘘を信じ込んでいるのが手に取るようにわかった。
「この子があまりにも不憫で…」
「まあまあ…。それは…、私は構いませんけれど…」
(お母さん!?)
「主人に聞いてみないと…」
「ええもちろん。ご主人には、私からもお願い申し上げます」
そうして重國は、仕事場から帰宅した父をもその舌先で丸めこみ、昂を橘家の居候として認めさせてしまったのだ。
生活費や学校のことなど、詳しい話は大人達だけで話していたから具体的なことはわからないが。とにかく昂は、橘家で生活することになった。
織子の両親の前では親を亡くした可哀そうな子供、を演じている昂は、はにかみながらハンバーグをちょっとずつ食べている。そうして、織子の母が「美味しい? 昂くん」と聞くと、ちょっと照れくさそうに、こくん、と頷くのだ。
そんな昂に、母も父も、優しい眼差しを向けている。
しかし織子は、昂の本性を知っているだけに、怖い。
「…ねえ、」
織子は両親に聞こえないよう、小声で昂に話しかけた。
「…本当に口に合うの? 大丈夫…?」
子供はハンバーグが好きだと思い込んでいる母は、問答無用で今夜のメニューをハンバーグにしたけれど。蛇って、玉ねぎとか食べても大丈夫なのかな、と思ったのだ。
すると昂は、織子にだけわかるように一瞬ニイっと笑って、
「本当は牛より蛙の肉の方が良かったですが、まあまあ…です」
と、空恐ろしいことを言ってのけた。
(っ! 蛙!?)
その時織子の脳裏に浮かんだのは、まさしく蛇に睨まれた蛙が一飲みにされる場面だった。
「か…蛙は…ちょっと…」
「ハッ、そんなことわかってる…ですよ。大丈夫、たとえ不味くても美味いと言ってやる…です」
「!?」
底意地の悪い笑みを浮かべて、ハンバーグを一切れ口にする。
しかし織子の両親の視線が向けられると、あっという間に幼い少年の顔をして、嬉しそうに微笑むのだ。
こんな神使と、これから一緒に暮さねばならないのか。
(…もう…くじけそう…)
織子は再び、深いため息を吐いた。
そうして、龍と出会って最初の夜は更けていった。
織子の心に、拭いきれぬ不安だけを残して。
これで一章は完結です。
ニ章では再び二葉が出張ってくる予定です。