■第九十九話 世界終了のお知らせが届いたので、勇者が異議申し立てした
通知書の末尾には「異議申立て期限・明日正午」とあった。
住民代表は夜通し署名を集めていたが、提出先は神界の閉鎖窓口だ。
「世界を終わらせる前に、意見くらい聞け」と俺は言葉を選んだ。
エリナは署名を数え、吉岡は受付印を押すための規定を探し始めた。
通知書には「明日正午まで」とある。
ところが提出先の神界受付は、昨日から閉鎖されていた。
神界の受付門には、真新しい札が掛かっていた。
『世界終了に関する異議申立ては、終了決定後に受け付けます』。
「終了した世界からどうやって申し立てるんだ!」
門番は困った顔で規則集を開いた。
俺が剣に手をかけるより早く、エリナが止める。
「門を壊せば、提出の記録まで壊れます」
住民代表の老漁師が、夜通し集めた署名を差し出した。
紙の端には塩がこびりついている。
「海で星が消えたとき、俺の孫が舵を取った。あの子の暮らしを、まだ会ったこともない神様の一枚紙で終わらせたくない」
門番は署名を受け取ろうとしたが、背後の上司が首を振った。
「所定の様式ではない。代表者の印鑑も足りない」
「世界の住民全員分の印鑑を持ってこいって?」
「規則です」
そのとき、セラフィが門番の机の下から古い受付簿を引き出した。
三百年前の災害時、神界は紙一枚の嘆願を正式に受理していた。
そこには、印鑑ではなく受取人の署名がある。
「例外ではありません」とセラフィ。
「あなた方が以前、命を守るために使った手続きです」
上司が受付簿を取り上げようとした。
門番は初めて、その手を遮った。
「私は受領します。内容を認めるかどうかは審査する方が決めることです。受け取らない理由にはなりません」
小さな受領印が押された瞬間、老漁師が膝をついた。
喜びではない。
徹夜で立ち続けた足が、もう持たなかったのだ。
俺は彼を支えた。
「これで世界は助かるのか?」
エリナは首を振った。
「いいえ。異議が受理されただけです。停止命令はまだ有効です」
「じゃあ、次は?」
「緊急の仮差止めを求めます。世界が消えたら、審理の意味がなくなることを示さないと」
その証拠を作ったのは、神界の学者ではなかった。
星を失った漁師、日の出が遅れた畑の農夫、薬の供給を待つ診療所の医師。
彼らが持ってきた記録を、吉岡が時刻順に並べた。
聖剣が小声で言った。
「勇者よ、今日は一度も抜かれなかったな」
「お前を抜いたら、みんなの話が聞こえなくなる気がした」
「……それなら鞘の中で聞いておこう」
受付簿には、三十年前にも似た申立てがあった。
却下理由の欄は空白だった。
「理由を書かずに断ったなら、今度は書かせよう」と俺は言った。
エリナは申立書の最後に一行を加えた。
『本件の判断により生活を失う当事者の意見を聴くこと』。
「裁判所に来られない人もいます」と吉岡。
「だから港や村から証言できる仕組みを求める」
「そのための費用は?」
「うちの会社が出す。剣を研ぐ予算より、ずっと安い」
聖剣が不満そうに震えた。
『私の整備費を削るのですか』
「お前はいつも光ってるだろ」
『精神的な磨耗があります』
「それは俺もだよ!」
申立書を運ぶ途中、神界の回廊で若い花嫁に呼び止められた。
「明日、結婚式なんです。でも、世界が終了するなら招待状を出す意味はないでしょうか」
彼女の手には、宛名を書き終えた封筒が束になっていた。
「出せばいい」と俺は答えた。
「世界が続く保証はありませんよ」
「だからこそ、続いてほしい理由を増やすんだ。誰かが待っているってことを、神様に忘れさせるな」
花嫁は小さく笑い、受付の掲示板へ一枚の招待状を貼った。
神界の職員が注意しようとしたが、エリナが先に言った。
「住民の生活に関する参考資料です。撤去するなら、その理由を記録してください」
職員は手を止めた。
「……結婚式は何時からですか」
「昼です」
「その時間なら、私の休憩と重なります」
世界の終了通知を扱う職員が、招待状を一枚受け取った。
俺は思った。
規則を変えるより先に、規則の向こう側に人がいると知ることがある。
吉岡は提出書類の封筒を二重に封じ、受領番号と時刻を全員に読み上げた。
老漁師が自分の控えを確かめると、かすれた指で番号をなぞった。
「字は得意じゃない。でも、この番号なら覚えられる」
その控えは、港の孫にも届けることになった。
俺は証拠が誰の手元にも残ることの意味を、初めて実感した。
セラフィは控えを受け取り、神界の門番にも同じ写しを渡した。
「上司が命じても、受け取った事実は消さないでください」
門番は頷いた。
「私は今日、受付係として働きました。世界を守れたかは分かりませんが、受け取った紙を無かったことにはしません」
俺はその言葉に、少しだけ勇気をもらった。
審理の日程を確保するため、エリナは受付簿の写しを三界へ送った。
「提出しただけでは止まりません。仮差止めの理由を、審理する側が確認できる形にしましょう」
俺たちは船長の航海帳、農夫の記録、医師の患者名簿を一つずつ照合した。
署名の数を誇るより、世界が終われば取り返しのつかない暮らしがあることを示す。
吉岡は受付印の時刻を何度も確かめた。
「提出は期限内です。これだけは覆されません」
「世界も覆されないといいんだけどな」
市場へ出ると、パン屋がまだ窯に火を入れていた。
「明日がなくても、今日の客は腹をすかせる」
店主は焼きたてのパンを老漁師へ渡した。
俺はその言葉を証拠の一行目に書いた。
世界が続くと信じることと、今日の仕事を投げ出さないことは同じじゃない。
老漁師は署名の束を抱えたまま、港へ戻ろうとした。
「審理で何か聞かれたら、俺にも知らせてくれ」
「自分で来ないのか?」
「船が帰ってこない。残った家族が待ってる」
俺は答えに詰まった。
裁判所に立てる人だけが、世界の住民じゃない。
エリナは遠隔証言の申請書を差し出した。
「港からでも声を届けられるようにします」
老漁師は初めて笑った。
「それなら、孫の話も聞いてもらえるな」
翌朝、神界から審理通知が届いた。
【仮差止め申請を受理。
審理開始は明朝】
その下の裁判長欄を見て、俺は二度見した。
【ゼルガディス・第七代魔王】
ただし、欄外には小さく『利害関係の申告および忌避審査を要する』とある。
「待て待て待て! なんでお前が世界の裁判長なんだ!」
元魔王は通知を受け取り、首をかしげた。
「わしも初耳だ」
聖剣が小さく震える。
『勇者よ、今度は裁判長を倒すのか?』
「絶対に斬るな! 今度こそ世界が終わる!」




