■第百話 元魔王が世界の裁判長になったので、全員が帰りたくなった
公開審理の朝、元魔王ゼルガディスは黒い法服を着て現れた。
六枚の翼が背中からはみ出し、角は法廷の入口に引っかかっている。
「吉岡、この法服は寸法を測って作ったのか?」
「はい。翼を畳んだ状態で測りました」
「畳めないのだが」
「追加加工費は経費で落とせます」
「まず扉を広げろ!」
俺は笑いかけて、法廷に並ぶ人々の顔を見て口を閉じた。
人間、魔族、天使。
戦争で家を失った者、神界の契約で仕事を奪われた者、世界終了通知に名前すら載っていない者。
誰も笑っていなかった。
昨日、世界終了の仮差止めを申し立てた。
申請は受理されたが、停止命令そのものは消えていない。
今日の審理で、終了をいったん止める理由を示さなければならない。
ところが、審理を進行する裁判長の名前を見て、俺たちは言葉を失った。
【ゼルガディス・第七代魔王】
「どうしてお前が裁判長なんだ? 当事者でもあるお前が裁くのは、公平なのか?」
「古代の任命状が自動更新されておったらしい。利害関係は事前に申告したが、開廷時に正式な忌避判断を受けるまでは審理を進められぬそうだ」
「魔王の任命を自動更新するなよ!」
エリナは任命状の裏にある小さな文字を指さした。
「任期満了まで有効。ただし、重大な利害関係がある場合は忌避の対象になる、とあります」
「忌避とは何だ?」
「裁く立場にふさわしくない人を外す手続きです」
元魔王は黙って自分の名前を見つめた。
開廷の鐘が鳴る前、一人の老女が法廷へ入ってきた。
白髪を結い、古い布袋を抱えている。
「裁判長に、これを」
差し出されたのは忌避申立書だった。
「私の息子は、魔王軍に村を焼かれて死にました。あなたが裁くなら、私は証言しません」
元魔王の翼が止まった。
「息子の名は?」
「名前を聞くのも、今が初めてですか」
彼は答えられなかった。
老女は袋から焦げた木札を取り出した。
家の戸口に掛けていたという。
文字の半分が焼け落ちている。
「世界を終わらせるかどうかを決める前に、終わらされた暮らしがあったことを聞いてください」
書記官が困った顔で規則集を開く。
「通常の進行規則では裁判長が忌避申立てを受け付けますが、本人が当事者の場合は判断に加われません」
「本人に本人を外すか決めさせるのか!」
エリナが古い条文を見つけた。
「この場合は当事者の同意を得て、三界から選ぶ中立の合議体に判断を移せます。ゼルガディス本人はその審査から外れます」
「わしが同意しなければ、審理が止まってしまうのか」
俺が尋ねると、元魔王は裁判長席へ目を向けた。
黒革の背もたれには、さっき角でつけた傷がある。
「わしは王だった頃、どれほど泣き声を聞いても玉座を離れなかった」
彼は任命状を机に置いた。
「今も同じことをするなら、法服を着ただけの魔王だ」
「辞退するのか?」
「する。わしはこの件の当事者だ」
元魔王は忌避判断の移管に署名し、進行役を辞退した。
書記官が代わりに三界の代表を呼び、利害関係のない暫定の合議体を構成する。
合議体はゼルガディスの忌避を認め、三界の審理規則に従って世界終了契約の仮差止めも担当することを確認した。
元魔王の戦争責任を争う部分については、利害関係のない裁判官を別に選ぶことになった。
老女は拍手しなかった。
「椅子を降りれば、息子が帰ると思わないでください」
「思わぬ」
「なら、逃げないでください」
「逃げぬ。証人席に座る」
元魔王は法服を脱いだ。
翼がようやく自由になり、吉岡が小声で「返品は可能でしょうか」と呟く。
「その心配は後にしろ」
俺が言うと、聖剣まで鞘の中でうなずいた。
証人席の前に、エリナが封印された箱を運ばせた。
中には魔王軍の戦時命令が残っていた。
「これらは元魔王本人が提出を申し出た資料です。ただし、本人が選別したと疑われないよう、原本の保管記録と照合してから開封します」
吉岡は保管番号を読み上げ、書記官が封蝋を確認した。
老女にも番号を見てもらう。
「都合の悪い紙を抜いていないと、どうして分かるの?」
「完全に分かるとは言えません」とエリナ。
「だから、欠番と保管者の履歴も公開します」
ゼルガディスは箱に触れなかった。
「これは証拠の扱いについてのお願いだ。わしが渡せば、また命令になる。証拠はおぬしらの手で調べてくれ。事実については宣誓してから答える」
最初の命令書には、村の名前と日付があった。
老女の指が、焼け残った木札を強く握った。
「この日です。息子は橋を直しに出て、帰りませんでした」
書記官が命令書の表題と署名を記録に読み上げた。
「補給路確保のため、北方の集落を焼却せよ。署名、ゼルガディス」
法廷の誰も動かなかった。
俺は何か言おうとして、やめた。
勇者として魔王を倒した日のことなら、いくらでも話せる。
だが、あの日までの被害を代わりに説明する権利はない。
書記官が証人としての宣誓を求め、ゼルガディスは「知る限りの事実を偽らず話す」と誓った。
「命令を出した理由を聞かせてください」と合議体の一人が言った。
「敵軍の補給を断つためだ。当時は必要だと思っていた」
「今は?」
「必要だったという説明で、失った命は戻らぬ」
元魔王は老女に向き直った。
「許してくれとは言わぬ。だが、わしの署名を記録から消さないでくれ」
審理はそこで終わらなかった。
世界管理会社の法務官ノクスが立ち上がる。
「個別の戦争責任と、世界終了契約の有効性は別問題です」
「その通りです」とエリナが答えた。
「だから混同しません。いま争うのは、終了によって取り返しのつかない損害が生じるかどうかです」
港の船長は星が消えた夜の航海帳を、医師は薬が届かなかった患者の記録を、農夫は水門が閉じた日の作物の帳簿を提出した。
誰の書類にも、世界を終わらせることへの同意欄はなかった。
ノクスは言った。
「契約には終了権限が明記されています」
「その契約に、今ここで生きている人は署名したのか?」
俺の問いに、彼はすぐには答えなかった。
裁判の記録には、勝者の名より先に、世界の継続に必要な条件が書き込まれた。
食料、水、医療、そして異議を申し立てる権利。
俺は聖剣を机に置いた。
「世界を止めるボタンがあるなら、止めない理由も記録に残してくれ」
書記の羽根ペンが、静かに走った。
合議体は審理を続けるため、終了命令の執行を一時停止する暫定措置を告げた。
最終判断ではない。
次の審理まで、世界が残るというだけだ。
それでも傍聴席から、息を吐く音が聞こえた。
老女は帰り際、ゼルガディスに言った。
「次の審理にも来なさい。私の息子の名前を、最後まで聞いてもらいます」
「必ず」
彼は短く答えた。
書記官が次回審理の日付を告げた。
「被害記録の追加提出は、明日夕刻まで受け付けます」
エリナはすぐに吉岡へ目を向けた。
「港と農村へ伝えてください。出せない人のために聞き取りも手配します」
俺は法廷の窓から外を見た。
まだ終わっていない。
それでも、昨日まで声を届ける場所さえなかった人たちが、今は次の審理を待っている。
法廷を出ると、吉岡が法服を抱えて追いかけてきた。
「先ほど進行役を辞退されたゼルガディス様、こちらの衣装代はどの部署へ?」
ゼルガディスは少し考えた。
「わしの給金から引け」
「裁判長としての給与はございません」
「ならば皿洗いで返す!」
「裁判長より皿洗いの方が向いてるんじゃないか?」
俺が言うと、元魔王は珍しく怒らなかった。
法廷の扉の向こうで、老女が書記官に息子の名前を伝えている。
俺たちはその声が記録されるまで、誰も帰らなかった。




