■第九十八話 世界が試運転中だったと知って、神様が青ざめた
試験場の奥にある壁一面の計器が、いきなり黄色く点滅した。
【水循環試験・未完了】
【季節変動試験・未完了】
【住民の同意・確認欄未設定】
「最後のはどういう意味だ」
俺が聞くと、若い検査官は目を伏せた。
「世界は本来、誰も住んでいない状態で試験する設計でした。生命が生まれた後の規定がありません」
「規定がないなら、消していいってことか」
「規定がないので、判断する権限も……」
そこでガンドルが怒鳴った。
「橋を直すとき、通行人がいるから橋ごと捨てる職人がいるか!」
検査官は反論しなかった。
代わりに、倉庫から古い試験記録を運んできた。
故障の記録には赤い封が貼られ、開封者の名前を書く欄がある。
誰も署名していない。
セラフィが羽根ペンを握った。
「私が開けます。処分されても、記録を隠したままにはできません」
エリナが止めた。
「証拠を守るため、先に開封権限を確認しましょう」
若い検査官は管理者の承認を取り、住民代表と監査役の立ち会いを求めた。
封の状態、時刻、開封者の名前を記録し、写しを双方に渡してから、セラフィが封を切った。
すると、最初の一枚に『海流制御の異常。
港の灯台に影響』とあった。
俺は思わず窓の外を見た。
港では今日も船が出ている。
「試験が終わるまで待ってもらえると思うか?」
検査官は首を振った。
エリナが記録を三つに分けた。
今日中に直す危険、期限を定めて調べる危険、まだ原因不明の危険。
神界の合格印より先に、現場の修理班へ伝令を走らせた。
誰かが『これで正式稼働ですね』と言ったが、エリナは否定した。
「違います。住民を守るための点検を、ようやく始めたんです」
試運転記録の最終ページは白紙だった。
吉岡は日付を読み上げ、「正式な検収印がありません」と言った。
俺は神界の担当者へ白紙を見せた。
「完成していない世界に暮らす人間は、試作品じゃない」
窓の外では市場が開き、パンを買う列ができていた。
「試運転だから終了できる、という理屈なのか?」
俺は神々を見回した。
「ここで生まれて、働いて、誰かを待っている人間にとっては、本番の人生だ」
返事はなかった。
初めて、神々の会議室が魔王城より冷たい場所に思えた。
検査官は未署名の試験記録を抱え、住民説明会に出ると申し出た。
神界の上司は「不安を招く」と止めたが、港の代表が答えた。
「不安なのは、何も知らされないことです」
計器の数値だけでなく、故障したときの連絡先を掲示することになった。
説明に納得してうなずく住民もいた。
もちろん、全員ではない。
腕を組んだままの人もいる。
それでよかった。
信用は命令では生まれない。
世界が試運転中だと聞いても、今日生まれた子供の泣き声は本物だった。
「隠さず知らせて、危険を減らそう」
俺の言葉に、検査官は初めて顔を上げた。
その日のうちに、エリナは故障記録を住民代表にも公開する手続きを整えた。
試験場の技師は、小さな模型を使って停止時の影響を調べ始める。
「実物で試さないのか」と俺が聞くと、ガンドルが睨んだ。
「住民が暮らしている世界で実験する馬鹿があるか」
若い検査官は、上司の処分を恐れて故障報告を伏せていたと告白した。
セラフィは彼に言った。
「記録を隠した責任は調べます。でも、今は修理班へ知らせることが先です」
港の職人が濡れた測定棒を持ってきた。
試験記録の想定水位を、実際の川は春になるたび越えていた。
「紙の上だけで合格にしないでくれ」
検査官は試験項目を書き直した。
説明会の終わり、一人の少女が手を挙げた。
「世界は、まだできていないの?」
若い検査官が答えに詰まる。
少女の隣の母親は、彼女の肩を抱いた。
「できていないところがあるんだって」
「じゃあ、わたしたちも直せる?」
ガンドルは腰を落として少女と目を合わせた。
「危ない機械には触るな。でも、橋が壊れていたら教えてくれ。水がおかしかったら、大人を呼んでくれ」
少女は大きくうなずいた。
俺は検査官に言った。
「これが住民の参加だ。合格印を押すための署名じゃない」
検査官は説明会の記録に、少女の質問も残した。
小さな声を記録から落とさないことが、最初の改善だった。
翌朝、神界から試験の一時中断と未完了項目の再検査を命じる正式通知が届いた。
世界の廃棄命令ではなく、住民の暮らしを維持したまま検査方法を見直すための通知だった。
停止するのは危険を伴う実機試験だけで、水道や港湾など生活基盤の運用と安全点検は継続する。
俺は通知の余白に住民代表の意見欄を作らせた。
「神様の判子より先に、ここで暮らす人の声を聞こう」
世界はまだ試運転中かもしれない。
だが、誰かの今日を試作品扱いすることだけは認めなかった。




