■第九十七話 世界の非常停止レバーが、社員食堂の下にあった
料理長が床板を外すと、巨大な赤い取っ手が現れた。
「これが世界の非常停止装置です」と吉岡が説明する。
俺は昼食の献立札を見た。
「どうして煮込みシチューの真下に」
料理長は肩をすくめた。
「古い増築台帳を調べたんです。装置が先に据えられ、後年の増築で真上に食堂を造ったとありました。なのに工事担当者は地下の図面を確認していなかったようです」
冗談のような説明に、誰も笑わなかった。
非常停止レバーに警告表示がなかった。
厨房を閉鎖したあと、最初に怒鳴り込んできたのは世界管理会社の役員ではなく、食堂の料理長ボルドだった。
「昼飯はどうするんです。鉱山の夜勤明けが二百人、もう並んでますよ」
「世界が止まるよりは、昼飯が遅れるほうがましだろ」
「腹をすかせた二百人に、それを社長が説明してください」
俺は聖剣を置き、庭に臨時の配膳台を運んだ。
剣を振るより重い鍋だった。
その間、ガンドルは床下で装置の封印を調べていた。
取っ手には新しい指紋が残っていたが、押し込まれた跡はない。
点検者の指紋か第三者のものかは、まだ判別できなかった。
代わりに、安全装置を固定する楔が半分だけ抜かれていた。
「押した奴を探す前に、勝手に動かないようにしろ」
「それが難しい。楔を打ち直すには制御盤を開ける必要がある。開けた瞬間、装置が『保守のため停止』と判断するかもしれん」
「停止させないための保守で停止するのか!」
吉岡が古い設計図を持ってきた。
余白に、震える字で『点検は二人で実施。
一人は食堂側で音を聞く』とある。
「これを書いた人は?」
「三十年前の設備係です。退職後、港の時計店を営んでいます」
俺は迎えに行こうとしたが、エリナが止めた。
「本人の同意を取りましょう。退職者に昔の責任を押し付けてはいけません」
夕方、元設備係は杖をついて現れた。
彼は装置を一目見て顔色を変えた。
「誰だ、食堂をこの上に建てたのは。非常停止の取っ手を毎日、床の振動で揺らしていたのか」
俺たちは互いの顔を見た。
世界を止める犯人は、悪の組織ではなく、三十年間の増改築かもしれなかった。
元設備係の指示で、ガンドルが制御盤の外から仮固定具を組み、俺は食堂側で振動を測った。
ボルドが大鍋を置くたび、針がわずかに跳ねる。
「鍋が世界を滅ぼしかけていたのか」
「私の料理のせいにしないでください。床を直さなかった会社のせいです」
反論できなかった。
修理費は俺たちの予算で負担し、食堂は別棟に移す。
ただし、楔が半分抜けた原因は振動だけと決めつけない。
指紋と入室記録を保全し、三界の技師が人為的な操作の可能性も調べる。
装置の管理権限と点検記録は、三界の技師が相互に確認できるようにした。
本格修理と安全試験が終わるまでは食堂を閉鎖し、装置の周囲に常時監視員を置く。
異常な振動やレバーの動きがあれば、現場判断で制御盤を開けず、三界の技師と住民の避難担当へ同時通報する手順も決めた。
修理班が地下へ入る前、ボルドは大きな紙に翌日の献立を書いた。
「世界が止まるかもしれない日に、何を作るんです?」と俺が尋ねる。
「腹が減ると人は怒るんです。怒った人間が大事な説明を聞けますか」
「……聞けないかもしれない」
「だったら食わせます。技師も、避難の案内をする人も、みんな」
エリナはその場で臨時食堂の運営費を承認し、危険区域と配膳場所を離すよう指示した。
ガンドルが地下から顔を出した。
「腹が減った技師に世界を預けるな、ってことか」
「そういうことです」とボルドは胸を張った。
剣も魔法も使わない安全対策が、こんなところにもあった。
夜、ボルドは臨時食堂で最後のシチューをよそった。
「社長、今日の教訓は?」
「世界の命運を握る装置の上で、鍋を振るな」
「違います。建物を増やす前に、図面を見ろ、です」
その言葉を聞いた吉岡が、地下の図面のさらに下に貼られた古い札を指差した。
『本設備は試験運用中。
正式引渡し未了』。
「……試験運用って、いつからだ?」
吉岡は答えなかった。
翌朝、食堂の移転工事が始まった。
料理長ボルドは臨時の配膳台でシチューをよそいながら、図面を見つめていた。
「この地下設備、正式な引き渡しの記録がないんですね」
「三十年間、試験運用のまま使っていたらしい」とガンドル。
吉岡が昨日見つけた札の裏側を調べ、設備の銘板を読み上げた。
『世界非常停止装置・試運転用』
「世界を止める装置が、試作品なのか?」
誰も笑わなかった。
俺は神界の試験記録を取り寄せるよう命じた。
床の振動は止められても、装置の設計そのものが安全かどうかはまだ分からない。
ボルドが鍋を置いて言った。
「調べるのはいいですが、明日の昼飯も忘れないでください」
「世界の危機でも昼飯は必要か」
「だからこそ、です」
俺はうなずいた。
世界を守る仕事は、世界で暮らす人の生活を止めないことから始まる。




