■第九十六話 偽物の勇者が、本物より経営に詳しかった
複製技師が差し出した決算書には、俺が一度も承認していない署名があった。
署名は決裁欄に記され、承認印まで押されている。
筆跡は俺そのものだった。
「複製のほうが正確に働けるなら、本物は不要ですか」と技師が問う。
エリナは書類を伏せた。
「正確さは必要です。でも、間違えたとき誰が責任を取るかも同じくらい重要です」
複製技師が示した署名の原本には、俺の筆跡だけでなく、右手の古傷による線の震えまで再現されていた。
「傷まで写せるのか」
「書類に残っている特徴は写せます。ただし、痛みは複製していません」
俺はその答えにぞっとした。
傷の形と、傷を負った理由は別物なのだ。
工房長が事故の報告書を差し出した。
夜勤の職人が機械に指を挟まれた。
現場には、安全柵の設置を「投資回収に不利」として延期する決裁書が届いていた。
複製には正式な決裁権限がなかったが、ジーク本人そっくりの署名と承認印を現場責任者が本物と信じ、工事を止めてしまったのだ。
「私は統計上の事故率を計算しました」
複製が言う。
「その職人の名前は?」
「個人名は意思決定に不要です」
職人本人が包帯の巻かれた手を持ち上げた。
「じゃあ、俺の指も不要な数字なのか」
複製は初めて返答を失った。
エリナは俺にも同じ問いを向けた。
俺だって現場の名前を全部知っているわけじゃない。
正義の顔をしたまま逃げることはできなかった。
「安全柵の費用は今夜の予算から出す。誰の承認で延期されたかも公開する。俺の名前を使った書類なら、俺も説明の場に立つ」
「偽造されたのに?」と複製。
「社長の署名が簡単に偽造できる仕組みを放置した責任は、俺にある」
吉岡は署名印の保管箱を持ってきた。
蓋には鍵が三つ付いている。
「今日から社長と経理と現場代表、それぞれが確認します。一人の英雄の筆跡より、三人の目のほうが信用できます」
複製は黙って安全柵の図面を受け取った。
複製勇者が所持していた偽造用の承認印を、独立監査役がその場で回収し、証拠袋に封印した。
保管箱の予備鍵を複製技師が無断で持ち出し、印影を転写したと分かった。
吉岡は鍵の貸出記録が残っていないことも報告した。
「私は利益率を改善するつもりでした。怪我をした職人のことは、数字に含めませんでした」
「なら、今から含めろ」と俺。
エリナは安全柵の設置費を優先予算に組み込み、対象期間の決裁書をすべて洗い出し、偽造の疑いがある書類の効力を独立監査役が一件ずつ調べるよう指示した。
複製名義の決裁書は一切受理しないと全職場に通知し、調査中は複製を現場研修以外の業務から外す。
本人の処遇は事故の責任と技師の関与を調べたうえで独立委員会が決める。
予備鍵を持ち出した技師は鍵の管理業務から外し、持ち出し記録の調査結果を監査役へ提出させる。
「処分されるのですか」と複製が聞く。
「責任を調べる。お前を消して終わりにはしない」
負傷した職人は、複製の前へ歩み寄った。
「謝られたって、明日から指が元どおり動くわけじゃない」
「治療費と休業補償は会社が手配します」とエリナが答える。
「金だけじゃない。次の夜勤で、誰かが同じ目に遭わないようにしてくれ」
複製は安全柵の図面をもう一度見た。
そこには、事故率も利益率も書かれていない。
手を挟んだ場所に、職人自身が赤い丸を付けていた。
「私は、この印を見落としました」
「見落としたなら、次は現場へ来い」と職人。
許したわけではない。
それでも複製は、数字では測れない責任の入口に立った。
複製は始末書の署名欄を見つめた。
「私には、あなたの名前しかありません」
「だったら、これから決めればいい。俺と同じである必要はない」
吉岡が訂正用紙を差し出した。
「まずは、間違えた書類の番号からお願いいたします」
複製は俺の筆跡を真似ず、自分の字で一文字ずつ署名した。
その日の事故報告と再発防止の説明を職人に終えたころ、社員食堂の地下から別の警報が響いた。
「……今度は何だ?」
吉岡の顔が引きつった。
「世界の非常停止装置でございます」




