■第九十四話 世界の創業者が、まだ生きていた
世界の設立契約書の裏表紙から、一枚の紙片が見つかった。
記されていたのは、人間王国と魔界の境界にある無人駅の住所だった。
「創業者の死亡届が一度も受理されていません」と吉岡。
「世界の創業者にも死亡届があるのか?」
「法人登記と違い、寿命の記載は任意だそうです」
「任意で済むのかよ!」
エリナは紙片を灯りに透かした。
住所の下に小さな文字がある。
【時計の修理は、日没まで】
「世界の契約書に時計屋の広告が入ってるのか?」
「広告ではないでしょう。行って確かめましょう」
翌朝、俺たちは一日一便の列車に乗った。
ゼルガディスは窓から廃線寸前の線路を眺めている。
「昔、あのあたりに城があった」
「壊したのか?」
「わしが建てた」
「じゃあ誰が壊した?」
「おぬしだ」
「ああ、そうだった」
聖剣が鞘の中で嬉しそうに鳴った。
エリナだけが、今日の交通費を黙々と記録している。
無人駅の待合室には、止まった時計が十七個並んでいた。
奥の修理店から、小さな金属音が聞こえる。
白髪の老人が、針を外した懐中時計を覗き込んでいた。
「時計の修理なら順番待ちだよ」
「世界の修理を頼みに来た」
老人は顔を上げ、俺の剣と元魔王の角を交互に見た。
「ずいぶん大きな修理だね」
「あなたが創業者か?」
「ガルディオン。そう呼ばれたこともある」
ゼルガディスが膝をつきかけた。
老人は杖でその額を軽く叩いた。
「ここは玉座じゃない。時計屋だ」
店には三つの大きな歯車が置かれていた。
港の潮汐、農地の雨、神界の時刻を示す刻印がある。
「世界を作ったって、本当なのか?」
「私一人ではない。最初は、戦争も飢えもない場所を作ろうとした」
「なら、どうして戦争も飢えもある?」
老人は針を机に置いた。
「住む者が増え、管理者が増え、誰も全体を見なくなった。私は責任を渡したつもりで、逃げていたのかもしれない」
「逃げたのかどうかは、困ってる人に聞いてくれ」
老人は反論しなかった。
ガルディオンが歯車の一つを回すと、店の外で鐘が鳴った。
同時に、港から魔導通信が入る。
『干潮のはずなのに、水位が上がっています!』
「止めろ!」
俺が叫ぶと、老人は首を振った。
「急に止めれば、今度は内陸の井戸が枯れる」
「そんな設計、誰が承認したんだ?」
「私だよ」
ガンドルが歯車の軸受けを調べ、舌打ちした。
「交換部品もない。寸法も公開されていない。故障したら創業者が戻るまで待てってか」
「昔はそれで間に合った」
「今は間に合わねえんだよ」
エリナは港の船長、農家の代表、井戸番を呼び、被害の順番を聞いた。
「全部を一度に直すことはできません。ですが、誰かの暮らしを犠牲にしたまま『修理成功』とは言えません」
井戸番の少女が泥のついた桶を持ってきた。
「昨日まで水が出たのに、今日は底が見える」
ガルディオンは桶の底を見つめた。
「私は世界の大きな仕組みを作った。小さな井戸までは……」
「小さいのは井戸じゃない。お前が見てる範囲だ」
俺の言葉に、元魔王まで黙った。
ガンドルは一枚の設計図を広げた。
「ここを交換すれば港の水位は落ち着く。ただし、隣村の水車が止まる恐れがある」
「だったら先に伝えよう」と俺。
「反対されたら?」と老人。
「理由を説明する。別の方法も聞く。反対されたから黙って回すのが一番まずい」
農家の代表は交換に同意したが、収穫期の水車停止は困ると言った。
そこで職人たちが仮設の動力を組み、作業時間を夜明け前に限定した。
ゼルガディスは重い部品を運びながらぼやく。
「世界の創業者を見つけたのに、やっておることは荷運びか」
「魔王だった頃より役に立ってるぞ」
「褒め方が腹立たしい!」
修理は一度失敗した。
港の水位が落ち着くと、隣村の水車が止まったのだ。
ガンドルは図面に赤い印をつけた。
「ここだ。連動している。直すなら一か所じゃ足りねえ」
老人は古い引き出しの鍵を取り出した。
「設計図の残りを渡そう。これを公開すれば、私だけが直せる世界ではなくなる」
「それが困るのか?」
「少し怖い。誰かが壊すかもしれないからね」
井戸番の少女が言った。
「でも、壊れたときに誰も直せない方が怖いよ」
老人は長い間、鍵を見つめていた。
夕方、港の水位が戻り、井戸から水が出た。
水車の修理はまだ続いている。
完了と書ける段階ではない。
ガルディオンは図面を職人たちへ渡し、欠陥と未修理箇所を自分の字で書き足した。
「世界は最初から完成品じゃなかった。住む者が、私の予定表を追い越したんだ」
「なら、予定表を作り直そう。今住んでる人と一緒に」
老人は初めて、修理台の向こうで笑った。
老人は切符を渡す前に、駅の時刻表を指さした。
「この列車は世界を直してくれない。ただ、責任を負う者のところへ連れていく」
俺は乗車券の名前をもう一度見た。
勇者として呼ばれるのは慣れていたが、説明を求められる側になるのは初めてだった。
帰り支度をしていると、ガンドルが図面の端を指さした。
「まだ直していない場所がある。修理記録に空白が多すぎる」
ガルディオンは小さくうなずいた。
「昔は、私がすべて覚えていた」
「覚えてる奴がいなくなったらどうするんだ?」
「考えたことがなかった」
「じゃあ今日から考えろ」
エリナは修理記録を三通作った。
港、農村、魔界の工房でそれぞれ保管する。
「一か所が壊れても、他の場所から直せるようにします」
「秘密がなくなれば、悪用する者も出る」と老人。
「秘密のままでも、今まで悪用されてきた」と俺。
「確かに」
老人は自分の名前の横に、今日作業した職人たちの名前を書いた。
初めて、創業者以外の署名が修理帳に並んだ。
少女は空になった桶を持って帰りかけ、ふと振り向く。
「明日、水が止まったらまた来てもいい?」
「もちろん」と老人。
「そのときは、私も一緒に直していい?」
老人は少し考えた。
「まず工具の持ち方から教えよう」
「じゃあ、私も時計屋になれる?」
「世界を直す職人になれるかもしれないね」
俺は思わず笑った。
世界を作った男の弟子入り試験が、まさか井戸番の少女から始まるとは。
店を出ようとすると、老人が一枚の切符を差し出した。
【世界管理株式会社 本社直通/乗車資格:代表権を争う者】
「明日の列車だ。乗れば、今の社長に会える」
「今の社長?」
「世界を終わらせる権限を持つ者さ」
エリナが切符の名義を見て、表情を変えた。
「社長、この乗車券……あなたの名前で発行されています」
俺はもう一度、印字を確かめた。
【ジーク】
「俺は世界管理会社に就職した覚えなんかないぞ!」
老人は壊れた懐中時計の蓋を閉じた。
「向こうの社長も、同じことを言うかもしれないね」




