■第九話 魔王軍十二万人が一斉に有給休暇を希望した結果、魔界経済が停止した
新社長就任、二日目。
朝八時。
俺……勇者ジークは、社長室の机に積み上げられた書類を見つめていた。
高さ、およそ二メートル。
「……吉岡」
「はい、社長」
「これは何だ?」
「昨日届いた有給休暇の希望届でございます」
「……何枚ある?」
「十二万枚でございます」
「…………」
俺はゆっくり顔を上げた。
「全員?」
「はい。全従業員でございます」
「……いつ休むんだ?」
「希望日はそれぞれ異なります。ただ、一部の部隊では『今日から全員休める』と誤解しているようです」
「制度の準備中だって、昨日説明しただろ!?」
吉岡は眼鏡を押し上げた。
「通達が末端まで行き渡る前に、独自判断で勤務を止めた部署がございます」
「確かに言った!」
「従業員一同、大変喜んでおります」
「それはいいことだ!」
「ありがとうございます」
「希望届を出しただけで休暇が承認されるわけじゃないだろ!」
吉岡は静かにうなずいた。
「はい。しかし、一部の現場責任者が希望届を承認済みと誤認し、交代要員を配置しないまま勤務を停止させました。その影響が重要施設にも波及しております」
「……何?」
「魔石発電所、主要施設が停止」
「…………」
「魔界物流網、幹線を含む多くの路線が運休」
「…………」
「魔界銀行間決済システム、処理停止」
「銀行まで!?」
「はい。弊社の魔導通信網を利用しておりますので」
俺は頭を抱えた。
「……魔界全体が止まってるじゃないか!」
「正確には、魔界経済の約七割でございます」
「七割!?」
吉岡は報告書を読み上げた。
【魔界経済緊急速報】
魔石発電所:主要施設の稼働率が大幅低下。
物流網:幹線を中心に運行停止。
食料配送:広域で遅延・一部停止。
魔導通信:一部停止。
魔界証券取引所:売買停止。
「……証券取引所まで?」
「はい」
「株価は?」
「取引停止前に三十パーセント下落いたしました」
「俺たちの持ってる株も!?」
「当然でございます」
俺は机に突っ伏した。
「……社長って、こんなに大変なのか」
そのとき、エリナが社長室に入ってきた。
「ジーク様。状況は把握しました」
「助けてくれ!」
「まず、全従業員の休暇取得を認める方針は維持します」
「……一部の部署が止まっただけで、こんな被害になるのか?」
「同じ日に取得する必要はありません」
「……あ」
エリナは一枚の紙を取り出した。
【有給休暇取得調整計画】
第一班:一週間休暇。
第二班:翌週休暇。
第三班:翌々週休暇。
重要施設:交代勤務制。
「……なるほど!」
「ただし、従業員の同意が必要です」
「そうだな」
「それから、すでに承認された休暇を一方的に取り消すことはできません」
「分かってる!」
「そこで、希望者を募ります」
俺は椅子から腰を上げた。
「よし! 全従業員に連絡だ!」
吉岡が頭を下げた。
「承知いたしました」
十分後。
魔界全域に緊急放送が流れた。
『魔王軍株式会社、新社長ジークよりお知らせします』
『休暇希望届は正式な承認ではありません。
勤務を停止した部署には、本人の同意を得たうえで交代勤務の再調整をお願いします』
『協力者には、特別手当を支給します』
『なお、休暇取得そのものを取り消すことはありません』
沈黙。
そして、魔界各地で歓声が上がった。
「特別手当!?」
「休みも取れるのか!?」
「前の魔王様とは大違いだ!」
一時間後。
希望者が続々と集まった。
魔石発電所の一部で、稼働再開。
物流網も、主要路線から順次復旧。
食料配送、再開。
魔導通信、復旧。
魔界経済は少しずつ動き始めた。
「……助かった」
俺は椅子に座り込んだ。
エリナが微笑んだ。
「初めての経営判断としては、悪くありません」
「……そうか?」
「はい。従業員の信頼を得られました」
吉岡も深々と頭を下げた。
「素晴らしいご判断でございます」
俺は少しだけ胸を張った。
「……社長も、案外できるかもしれないな」
復旧の知らせが届いた午後、俺は魔界中央配送所へ向かった。
扉の前には、出勤を希望した社員と、休暇を譲りたくない社員が向かい合っていた。
「社長、俺たちは三十年間、祭りの日にも休めなかったんです」
荷役主任のバルドが言った。
大きな手には、荷縄が食い込んだ古い傷が残っている。
「だから今日だけは家族と過ごしたい。特別手当を積まれても、帰ります」
「帰っていい。休暇を買い戻しに来たんじゃない」
俺が答えると、彼は疑わしそうに眉を寄せた。
一方、倉庫の奥では薬箱を積んだ荷車が立ち往生していた。
人間界との境にある診療所へ届ける解熱薬だという。
「患者は待ってくれない。だが、休む人間を責めたくもない」
希望届の山の下には、代替要員のいない職場の一覧があった。
俺は申請を責める代わりに、まず配置表を作り直した。
人事部の前には、希望日を変更してもいいという社員も並んでいた。
「工場を止めたら、隣町の薬が届かない」とスケルトンの運転手が言う。
俺は全員に出勤を命じかけて、口を閉じた。
休む権利を取り上げたら、昨日までの魔王と同じだ。
希望者を募り、交代手当を提示する。
集まった人数は必要数に足りない。
エリナは配送先に遅延を知らせ、俺は謝罪文へ署名した。
改革には、都合の悪い結果も付いてくる。
エリナが二つの帳簿を開いた。
片方には配送予定、もう片方には代替勤務を希望する者の名が並ぶ。
「診療所までの便は、もともと三人で運んでいました。今日は二人しか集まりません」
希望届を整理した吉岡は、未承認の申請と現場の勤務状況を照合した。
病院と水道の当直を残すため、組合と勤務調整を始めたのだ。
「休ませるために、休む順番を決める」
俺はその面倒な仕事から逃げなかった。
吉岡は休暇申請の束を二つに分けた。
「止められる仕事」と「止めれば命に関わる仕事」
診療所と水道だけは交代要員を先に確保する。
全員が休める制度は、誰か一人に仕事を押しつける制度であってはならない。
夕方になっても、山間部の発電所には停電が残っていた。
そこへ、休暇中の技師が戻ってきた。
「命令で来たんじゃありません。母の人工呼吸器が止まりそうで」
俺は彼を勤務に戻そうとして、エリナに止められた。
「善意だけで回す仕組みは、また壊れます」
緊急当番の賃金と代休をその場で決めた。
技師は条件を確認してから制御盤に触れた。
灯りが一つ、また一つと戻る。
休む権利を守るには、働く人の条件も守らなければならない。
「なら俺が三人目だ」
「ジーク様、運搬用の飛竜免許は?」
「ない」
「即座に却下です」
勇者の資格が荷物の配送に役立たないとは思わなかった。
吉岡が地図を広げた。
「飛竜を使わず、川沿いの旧道なら小型荷車で運べます。ただし、途中の橋が壊れかけています」
「俺が橋を直す。それなら資格は要らないだろ」
「建築の資格もお持ちではありませんね」
「俺にできることはないのか!」
「あります。現場の技師の指示に従って、石を運んでください」
結局、俺は半日、橋の補強材を担いだ。
剣より重い木材を運んだのは初めてだった。
薬は日暮れ前に届いた。
診療所から戻った配達員は、泥だらけの俺を見て笑った。
「社長、これが毎日の仕事です。英雄が一度手伝っただけで解決したと思わないでくださいね」
「分かってる。だから、明日からの当番表を一緒に作ってくれ」
休暇を取る権利と、止められない仕事を両立させる。
今日の薬が届いたのは、橋を直した俺の手柄ではない。
配達員が危険を知らせ、技師が補強方法を決め、代わりに働く者を募ったからだ。
誰か一人の善意に頼れば、次の休暇の日にまた同じことが起きる。
エリナは翌月分の交代勤務表を掲示した。
休日の人数、緊急便の担当、代理要員の訓練日が明記されている。
バルドは家族を連れて見に来た。
「来月の祭りも休めるのか?」
「希望を出せば調整する。全員の希望が重なったら、くじ引きじゃなく話し合いだ」
「……ようやく、休む日の予定を立てられます」
彼の子供が父親の手を握った。
俺はその光景を見て、休暇制度は紙に印刷した瞬間ではなく、誰かが安心して家へ帰れた瞬間に始まるのだと思った。
その夜、社長室に戻って報告書を整理していると、扉が開いた。
オークの隊長が駆け込んできた。
「社長! 大変です!」
「今度は何だ!」
「有給休暇中のドラゴンたちが、人間界の温泉地へ旅行に出かけました!」
「……いいじゃないか」
「はい!」
「何が問題なんだ?」
オークは震える声で答えた。
「ドラゴン三百頭が一斉に温泉へ入った結果……」
一拍。
「温泉が全部蒸発しました!」
「何やってんだああああ!」
翌日。
人間王国から、魔王軍株式会社に損害賠償請求書が届いた。
【温泉施設損害賠償請求】
金貨五十万枚。
俺は請求書を見つめた。
「……吉岡」
「はい」
「ドラゴンの旅行にも、保険はあるのか?」
「ございます」
「よかった……」
「ただし、温泉蒸発事故は免責事項でございます」
「そんな事故、想定してるのかよ!」
その夜、会社の緊急連絡簿に一つだけ追記した。
【社長も交代要員に数えないこと】
エリナの字だった。
「なぜだ!」
「あなたが一人で全部背負う制度は、制度と呼びません」
俺は休暇届の自分の名前を見た。
社長の署名欄は、まだ空白だった。
返す言葉がなかった。




