■第八十四話 王国の大臣が、魔王軍の病院でこっそり治療を受けていた
夜明け前、王国の大臣が帽子で顔を隠して病院に来た。
腕には呼吸の苦しそうな少女がいる。
「この子だけは助けてくれ」
医師が娘を診察室へ運ぶと、大臣はようやく口を開いた。
「魔族の治療薬を禁じたのは私だ。娘が必要とするまで、誤りを認めなかった」
俺は拳を握った。
薬を使えずに亡くなった人だっている。
「娘は治療する。ここは病院だ。けど、あんたが禁じた薬を使う理由は、国民に説明してもらう」
廊下に記者が押し寄せたが、エリナが扉の前に立った。
「禁じた薬を大臣の家族だけが使うのですか!」
「他の患者はどうなるんです!」
問いはもっともだった。
けれど、ここで娘の病名を晒しても、薬を待つ人は一人も救われない。
「政策の説明責任と、患者の病歴を公開することは別です」
大臣は娘の病名を伏せたまま、輸入規制を撤回する声明を出すと約束した。
ゼルガディスが俺の肩を叩く。
「敵の子を助けるのか」
「敵って誰だよ。あの子は俺と戦ったことがない」
大臣の娘の治療が始まると、待合室に別の父親が立ち上がった。
「うちの子には、その薬が届かなかった」
大臣は答えられず、椅子に腰を下ろした。
俺は父親に順番を譲れとは言わなかった。
医師が病状で優先順位を決め、エリナが薬の在庫と輸送先を公開する。
大臣は記者会見で規制撤回を発表し、後任への引き継ぎを終えるまでの暫定在任を申し出た。
辞任の発効日は一週間後とし、それまでの権限は医薬品の流通回復と引き継ぎに限ると公表した。
「娘だけ助かればいいと思った私には、もう同じ命令を出す資格がない」
父親は許さなかった。
「規制を撤回すれば、死んだ息子が帰ってくるんですか」
大臣は答えられなかった。
会見場では、辞任だけで責任を終わらせるなという声と、薬の輸入を急げという声が同時に上がった。
俺には、どちらの声も切り捨てられなかった。
それでも翌朝、国境で薬を一律に差し止める措置は解除された。
検査施設は残し、既存の薬剤検査と製造元の確認を続けた。
共同検査窓口が動き出すまでは、王国の薬剤師と魔界の薬師が既存施設で臨時の合同確認を行うことになった。
大臣の会見が終わっても、待合室の父親は立ち上がらなかった。
「娘さんは助かるんでしょうね」
「医師が治療を続けています」と俺は答えた。
「よかったな、と言うべきなんでしょう。でも俺の息子は、もう帰ってこない」
返す言葉が見つからなかった。
父親は怒鳴らなかった。
だからこそ、声が胸に残った。
大臣が廊下へ戻ってきたとき、父親は一枚の診療記録を差し出した。
「これを、なかったことにしないでくれ」
大臣は受け取る前に、病院長へ保管方法を確認した。
被害者の記録を政治家個人が持ち帰ってはならない。
写しは本人の同意を得て第三者の調査窓口へ渡すと約束した。
「私が辞めても、調査を止めないでください」
その言葉が約束で終わらないよう、エリナは担当部署と報告期限を紙に残した。
その日の午後、国境の診療所から三通の手紙が届いた。
薬を失った患者の家族、密輸で命をつないだ薬師、偽物の薬が流入することを恐れる商人からだった。
「規制を撤回するだけでは足りません」とエリナ。
「薬を通しながら、品質も確かめる方法は?」
臨時の合同確認を恒久化するため、王国の医師と魔界の薬師が共同で検査する窓口を設けることになった。
大臣は公表した一週間の暫定在任期間内に、共同検査窓口の設置命令へ署名した。
後任には運用手順と未了の責任調査を引き継ぐと約束した。
数日後、共同検査窓口の試行運用が始まり、合同確認を済ませた最初の定期薬便が国境を越えた。
優先順位は大臣の娘への配慮でも、その逆の報復でもない。
病状の重さと輸送時間をもとに、独立した医師が決めた。
病院長から届いた報告では、大臣の娘も回復に向かっていた。
「許されたわけではないんだな」と俺。
病院の廊下には、禁輸のため治療を待たされた家族が並んでいた。
大臣は頭を下げたが、一人の父親が遮った。
「謝罪より先に、今日の薬を通してくれ」
エリナは緊急輸送と責任調査を別々の書類にした。
薬を届ける許可は即日出す。
禁輸を命じた経緯は記録を公開し、第三者が調べる。
「娘を助けてもらったから、私の判断が正しかったことにはならない」
大臣は初めて、自分の署名した命令書を遺族の前に差し出した。
「ええ。でも、今から果たせる責任はあります」
先日の撤回会見で大臣が約束した被害調査について、後任への引継書にも期限と担当部署が明記された。
娘の病歴は公表しない。
俺は会見の拍手より、国境を越えて運ばれる小さな薬箱を見届けたかった。




