■第八十三話 魔王軍の病院に、存在しない患者が入院していた
病院の受付で、看護師が白紙の患者票を俺に突きつけた。
「昨日まで、ここに名前があったんです」
寝台では少女が熱にうなされている。
ところが会計記録には患者番号がなく、神界の補助金だけが別口座へ送られていた。
「記録がないなら診療できない、なんて言わないよな」
医師は怒ったように答えた。
「患者はここにいます。治療は続けます」
エリナは紙の薬剤台帳と看護師の当直表を照合した。
「電子記録は消えても、調合した薬の量までは消せません。少女を含む七人が治療を受けた痕跡が残っています。ただし、投薬量だけで個々の治療経過までは確定できません。紙の患者台帳と当直記録も調べます」
「補助金はどこへ?」
「神界医療監査室です」
監査する側が金を受け取っている。
「補助金の振込先が監査室になっているのは、正規の経由口座なのか?」
エリナは首を振った。
「通常は病院の指定口座です。監査室の口座へ送られた理由は、送金指示書を調べなければ分かりません」
誰かが少女の名前を消しただけではない。
治療費の行き先まで書き換えられている疑いがあった。
俺は少女の母親へ説明し、記録の複写を家族にも渡すよう命じた。
「証拠は会社だけで持つな。誰かが消そうとしても、残るようにしよう」
少女の枕元に、母親が七枚の薬袋を並べた。
袋には日付と看護師の筆跡がある。
「この子がいなかったことにされたら、私が看病した七日間まで消えてしまう」
俺は袋を証拠箱へ入れず、母親の手元に残した。
吉岡は母親の同意を得て薬袋の日付と記載内容を複写し、看護師本人の署名と当直簿を照合した。
原本の薬袋は母親が保管する。
監査室の職員は「補助金を止めれば不正も止まる」と言ったが、エリナは反論した。
「止まるのは治療です。送金先だけを凍結してください」
昼過ぎ、病棟の扉の前で小さな口論が起きた。
番号を失った患者の家族が、薬の受け取り順を巡って言い争っていたのだ。
「うちの子は昨日から待っているんです」
「昨日は番号がないから薬を渡せないと言われました。今日も同じなら、どうすればいいんですか」
受付の看護師は顔を伏せた。
指示どおりに動いた自分の言葉が、家族を追い詰めていた。
「でも、こちらは呼吸が苦しいんですよ」
俺が口を挟みかけると、医師が二人の間に立った。
「順番は帳簿ではなく、容体で決めます。お二人とも診察を受けてください」
母親は胸元の薬袋を握りしめていた。
番号を消されても、病気が軽くなるわけではない。
俺は謝るしかなかった。
「書類を直すまで待て、とは言えないな」
エリナは仮番号の受付表をその場で作り、医師が優先順位を決め、家族が確認できるようにした。
正式な患者台帳の復旧とは別の、今日の命を守る手続きだった。
夕方、少女の熱が下がった。
看護師が持ってきたのは、七人の患者番号が同じ時刻に削除されたことを示す操作履歴だった。
「台帳では七人の治療が確認できています。誰が記録を消したのかは、まだ分かっていません。操作権限と承認印の履歴を調べましょう」とエリナ。
「診療は止めない。送金先を調べる間も、患者の名前は家族と病院の双方で保管しよう」
俺の提案に、看護師はようやく息をついた。
翌朝、病院の玄関には診察券を握った家族が集まった。
記録が戻るまで、患者には仮番号を発行し、診療を継続する。
番号がなくても、本人と家族の証言、薬の受け渡し記録で治療履歴を確認する。
家族のいない患者は当直日誌と薬師の署名を照合した。
監査室は手続き違反だと抗議したが、エリナは患者名を伏せた送金記録を提示した。
「不正の疑いがあるのは治療ではなく、この振込先です」
翌日、患者台帳の原本と魔力記録を照合すると、削除された番号だけに同じ承認印があった。
「担当者を責める前に、誰がこの印を使えたか調べよう」
監査役が保管庫を封鎖し、病院は治療を止めずに記録を複製した。
数日後、紙の患者台帳、薬剤の受け渡し記録、削除操作前の控えを突き合わせ、七人それぞれの番号を確定した。
看護師と独立監査役が二重に確認してから、七人の患者番号は復旧された。
削除に使われた承認印は複数の担当者が共用しており、実際に操作した人物はなお調査中だった。
七件の削除と神界医療監査室への送金が関連するかも未確定で、独立監査役が一か月後の報告に向けて追跡していた。
ただし不正送金された補助金の回収と返還先の確定は、独立監査の結果待ちだった。
エリナは監査報告の提出期限を一か月後とし、病院と患者家族に進捗を知らせる連絡窓口を設けた。
「名前を戻して終わりじゃないんだな」
少女の母親は、訂正申請書の欄外に小さく書いた。
「名前を消されても、この子はここにいるんです」
その言葉を聞いて、俺は患者本人と家族が訂正内容を確認できる手続きも必要だと気づいた。
エリナは少女の母親に向き直った。
「ええ。補助金の行方が明らかになり、必要な返還が終わるまで、監査は続きます」
熱が下がってからさらに数日が経ち、医師が検査結果と経過を確認して退院を認めた日、少女は新しい患者票に自分の名前を書いた。
少し曲がった字を、母親が嬉しそうに見つめた。
俺はその紙を見て思った。
数字の間違いを直すのは、数字の向こうにいる人を守るためなのだ。




