■第七十九話 元魔王が皿洗いを始めた理由を、勇者は知らなかった
ゼルガディスが皿を割った音は、城の廊下まで響いた。
「またか!」
料理長ボルドの怒鳴り声に、俺は食堂の裏口から顔を出した。
元魔王は濡れた前掛けをつけ、割れた皿の破片を拾っていた。
「魔王が皿洗いとはな」
俺が言うと、ゼルガディスは睨んだ。
「元魔王だ。肩書を間違えるな」
「それは悪かった。で、どうしてここに?」
「皿が汚れているからだ」
「見れば分かる!」
「なら聞くな」
いつもの口喧嘩だった。
ただ、あいつの手には、剣ではなく布巾が握られていた。
割れた皿を拾うゼルガディスの手には、小さな切り傷ができていた。
治癒魔法を使えばすぐ消える傷だが、彼は布を巻いただけだった。
「昔、我の命令で皿洗いをする者が何人いたか、数えたこともなかった」
ボルドは新しい皿を差し出した。
「数えるなら、今からです」
俺は声を掛けずに厨房を離れた。
元魔王が何を償おうとしているのか、答えを急いで奪いたくなかった。
ボルドが俺を奥の小部屋へ連れていった。
「勇者さん。あいつが洗ってる皿、どこから来たか知ってるか」
「食堂だろ?」
「避難民用の炊き出しだ。北方金鉱の事故で家を出た人たちが使った」
壁際に、欠けた皿が積まれていた。
「昔、魔王軍が焼いた村から逃げてきた連中もいる」
俺は言葉を失った。
「ゼルガディスは最初、謝りに来た。だが、皿を受け取った婆さんが言ったんだ。謝る暇があるなら洗ってくれって」
「それで?」
「毎朝来る。王冠は置いてきたらしい」
裏口に戻ると、ゼルガディスは腕を組んでいた。
「聞いたのか」
「少しだけ」
「同情は不要だ」
「してない。皿の洗い方が下手だと思ってる」
「貴様!」
「洗剤をつけすぎだ。すすぎに水を使う」
「では教えろ」
その一言に、俺は思わず目を見開いた。
魔王城で初めて戦ったとき、あいつは誰にも教えを請わなかった。
間違いを認めることは、王の敗北だと信じていた。
俺は袖をまくった。
「まず、油を布で落とす。次に洗う。最後に水を流す」
「戦術に似ているな」
「似てない」
「前線を崩し、包囲し、殲滅する」
「皿を殲滅するな!」
ボルドが笑った。
あいつが笑うのを見たのは、何日ぶりだろう。
皿の底に、古い紋章があった。
ゼルガディスの指が止まる。
「その印は……」
「知ってるのか」
「二十年前、北境の村で配った救援食器だ。私が命じた」
「救援?」
「村を焼いたあとでな」
あいつは言い切った。
「戦の補給線を守るため、村を焼けと命じた。あとから食料を配った。私はそれで償ったつもりになっていた」
「それで済むわけがない」
「分かっている」
ゼルガディスは皿を置いた。
「王だった頃は、数字で報告を受けた。焼失家屋、死者、補償費。今日、あの村の生き残りに飯を渡した。手が震えて、匙を落とした」
俺は何も言えなかった。
「私が王に戻りたかったのは、謝る必要のない場所へ戻りたかったからかもしれぬ」
「それは、逃げだ」
「ああ」
元魔王が素直に頷くのを見て、俺はますます言葉を失った。
夕刻、クラウスが裏口へやってきた。
「ゼルガディス様。灰冠財団との契約をお忘れですか。買収が成立すれば、あなたを名誉総裁に迎える約束です」
「覚えている」
「では、なぜ勇者の食堂で下働きを?」
「働くことに敵味方があるのか」
クラウスは笑った。
「契約には忠誠義務があります。現経営陣を助ける行為は違反です」
「私が洗っているのは皿だ。株ではない」
「言葉遊びでは済みません」
クラウスは契約書を差し出した。
「灰冠は過去の戦争賠償請求を整理します。その代わり、あなたは買収を支持する。署名はあなた自身です」
ゼルガディスの顔から血の気が引いた。
「賠償を整理、だと」
エリナが追いつき、書類を読んだ。
「整理という言葉で、被害者の請求権を一括放棄させる条項があります」
「そんな説明は受けていない!」
「署名はある」
クラウスの声は冷たかった。
「あなたが読まなかっただけです」
ゼルガディスは書類を見つめた。
かつて俺が倒せなかった魔王が、たった数行の契約に縛られていた。
「破棄できるか」
俺がエリナに尋ねると、彼女は慎重に答えた。
「一方的な破棄は難しい。でも、説明と実際の条項が違ったなら争えます。被害者の権利を本人の同意なく処分できるかも問題です」
「なら、法廷へ行く」
ゼルガディスが言った。
「名誉総裁の椅子を捨てるのか」
クラウスが詰め寄る。
「椅子は誰かが磨く。だが、私が焼いた村の人間は、私以外の誰にも謝れない」
「訴えれば、あなたの戦争責任も公になりますよ」
「隠すつもりはない」
その声は小さかったが、震えていなかった。
次の朝、避難民の老女が厨房へやってきた。
「皿を洗っている魔王はどこだい」
ゼルガディスは布巾を握ったまま立ち上がった。
「ここにいる」
老女は小さな木箱を置いた。
中には欠けた陶器の皿が一枚あった。
「村が焼かれた夜、娘が持って逃げた皿だよ。娘は帰ってこなかった」
厨房の音が止まった。
「これも洗うのかい」
ゼルガディスは手を伸ばしかけ、引っ込めた。
「私に触れる資格があるとは思わぬ」
「資格なんて聞いてない。あんたが何をしたか、忘れていないか聞いてるんだ」
「忘れない」
「それなら洗っておくれ。汚れたまま箱にしまっておくのが、もう嫌になった」
ゼルガディスは皿を受け取った。
ひびに水が染みないよう、布を湿らせてゆっくり拭いた。
俺は口を出さなかった。
老女は皿を確かめ、うなずいた。
「許したわけじゃないよ」
「承知している」
「でも、明日も来るなら、炊き出しの薪を運んでおくれ」
「運ぼう」
老女が去った後、ゼルガディスは初めて腰を下ろした。
「謝罪すれば終わると思っていた」
「終わらないだろうな」
「王だった頃は、終わらない仕事が嫌いだった」
俺は窓の外を見た。
避難所にはまだ列が続いていた。
「俺だって、剣を振れば終わると思ってた」
「では、我々は似た者同士か」
「そこは認めたくない」
元魔王はほんの少し笑い、また立ち上がった。
薪置き場までの道を、今度は誰にも命じずに歩いていった。
途中で子供に道を譲り、落ちた薪を一本拾った。
その姿を見ても、誰も拍手しなかった。
だからこそ俺は、あいつが本当に変わり始めたのだと思った。
夜、俺は裏口でゼルガディスと並んで皿を洗った。
「お前が勝つとは限らないぞ」
「分かっている」
「明日の総会だって、どうなるか」
「それも分からぬ」
「じゃあ、何で今さら皿なんか洗う」
あいつは一枚の皿を光にかざした。
「今日洗った皿なら、明日また誰かが使える。それだけは確かだからだ」
俺は返事の代わりに、次の皿を渡した。
元魔王の謝罪は、まだ始まったばかりだ。
明日、どちらが会社を率いても、この仕事だけは続けてほしかった。




