■第七十八話 魔王軍の運命を決める一票を、料理長がカレーで売ろうとした
「勇者様、一票の値段を知りたいですか」
料理長オーク・ボルドは、巨大な鍋をかき混ぜながら言った。
俺は身構えた。
「金貨か? 土地か? それとも役員の椅子か?」
「カレーです」
「……は?」
「百年分のカレーです」
聖剣が笑い転げた。
『世界の支配権、香辛料で落札!』
「お前は黙れ!」
だがボルドは笑っていなかった。
「魔王軍が株式会社になってから、食堂の予算は三度削られました。灰冠は買収後に外部委託すると言っています。俺たちは鍋ごと消されるんです」
鍋の底には、少し焦げたじゃがいもが貼りついていた。
「このカレーは、戦争から帰った連中が最初に食べた飯です。勇者も魔族も、同じ皿で食べた」
俺は匙を受け取った。
「うまい」
「そりゃそうでしょう。四十年、同じ鍋を磨いてきたんだ」
ボルドは皿を二枚置いた。
片方には香り高いカレー、もう片方には白い飯だけ。
「一票を売るというのは、片方だけに食事を出すようなものです」と彼は言った。
俺が首をかしげると、料理長は笑った。
「だから全員に食わせてから投票させる。空腹を利用して票を取る奴には負けません」
厨房の扉の向こうで、敵対する株主たちが同じ列に並び始めていた。
食堂の壁には、古い写真が並んでいた。
片腕の兵士、角の折れた魔族、孤児院から来た子供たち。
皆、湯気の向こうで笑っている。
「食堂は利益を出していません」
ボルドが言った。
「でも、夜勤明けの鉱夫に熱いものを出す。傷病者には柔らかいものを作る。食べられない奴の分は、俺たちが少しずつ負担する」
「その費用は帳簿に?」
「赤字と書かれています」
俺は返事ができなかった。
そこへエリナが入ってきた。
「食堂の収支を見せてください。赤字の理由を確かめたい」
ボルドは警戒した。
「また削減ですか」
「違います。食堂を残す方法を、数字でも説明できるようにしたいんです」
エリナは伝票を一枚ずつ並べた。
食材費、人件費、夜間の炊き出し、怪我人の特別食。
「この『無償提供』は?」
「給料が遅れた社員に出した飯です」
「それなら会社の給与遅延による補償です。食堂の経営努力不足ではありません」
ボルドの眉が上がった。
「……そういう計算になるのか」
「本来は会社が負担すべき費用です」
俺は思わずエリナを見た。
「じゃあ赤字の半分は、会社が食堂に押しつけたのか」
「正確には、責任の所在を隠した費用です」
吉岡が伝票の束を持って現れた。
「なお、社長の夜食代も三か月分未払いです」
「それは今言わなくていい!」
「料理長の赤字を減らすためには重要です」
「払います!」
ボルドが初めて笑った。
午後、灰冠の代理人が食堂に現れた。
クラウスは金貨の入った箱を置いた。
「株を売れ。厨房の設備も残す。五年間の雇用も保証する」
「六年目は?」
ボルドが聞く。
「経営状況による」
「じゃあ、いらん」
クラウスの頬が引きつった。
「現経営陣なら永遠に守るとでも?」
「いいや。勇者も、まだ何も約束してない」
俺は一歩前に出た。
「守ると言いたい。でも俺の一言で、ずっと残せる保証はない」
「正直で結構だ」
ボルドは鍋の蓋を閉めた。
「なら、条件を変える。俺が欲しいのは百年分のカレーじゃない。百年後にも食堂を残す仕組みだ」
エリナは、食堂を独立採算にする案を却下した。
「食堂の役割には、採算だけでは測れないものがあります」
代わりに、社員と経営側が半数ずつ参加する食堂運営委員会を提案した。
予算削減には理由の公開を義務づけ、夜勤者と傷病者の食事を福利厚生として明記する。
「一票をもらうために、こんな制度を作っていいのか?」
俺が尋ねると、エリナは首を振った。
「投票と引き換えにはしません。議決権の行使に関係なく、必要な制度だから提案します」
ボルドは書類を読み、鼻を鳴らした。
「難しい字が多い。つまり、社長が代わっても勝手に鍋を捨てられないんだな」
「勝手にはできません。変更するなら、働く人たちへの説明が必要です」
「よし。それなら俺は、自分の頭で投票する」
昼の配膳が始まると、ボルドは俺に鍋を渡した。
「口で食堂を守ると言うなら、一時間だけ働いてみろ」
「俺が?」
「社長にしかできない仕事があるなら帰れ。そうでないなら、列の最後までよそえ」
鍋は予想以上に重かった。
小さな子供には少なめに、夜勤明けの鉱夫には多めに盛る。
簡単そうで、毎回迷った。
「その人は右手を怪我してる。皿じゃなく取っ手のある器だ」
「分かった」
「そっちは薬を飲む前だから辛味を抜け」
「どうやって?」
「別鍋だ。見てないのか」
一時間後、俺の腕は剣を振った日より痛かった。
ボルドは壁の古い献立表を見せた。
「戦争が終わった年、豆しかなかった。次の年は芋が増えた。三年目に初めて肉を入れられた」
「毎年残してるのか」
「献立は、会社が誰を食わせてきたかの記録だからな」
そこへ灰冠の使者が入ってきた。
「料理長、外部委託後もあなたの雇用は保証します。特別待遇で」
ボルドは鍋を置いた。
「俺だけか?」
「優秀な人材は選抜します」
「皿洗いの婆さんも、夜勤の若いのも、まとめて食堂なんだ。俺だけ残して何を作れっていう」
使者は返事をせず去った。
俺はようやく分かった。
ボルドが求めているのは自分の席ではない。
誰かが帰ってこられる場所そのものだった。
エリナは食堂の入口に新しい掲示を出した。
『夜間食・療養食・無償食の実績を公開します』。
「赤字ではなく、会社が何を支えているかを数字にします」
ボルドは腕を組んだ。
「数字にしたら、削られやすくならないか」
「隠したままなら、存在しないことにされます」
二人はしばらく黙っていた。
それからボルドは、エリナにもカレーを一皿よそった。
「明日から伝票の書き方を教えてくれ」
「もちろんです。夜勤の炊き出しも、きちんと残しましょう」
「書類が増えるな」
「その分、守れるものも増えます」
投票の列の最後に、食堂で働く少女が立っていた。
彼女の一票は大株主の票より軽く見えたが、数える係の吉岡は同じ声で読み上げた。
俺はカレーの匂いの中で、誰かの暮らしを数字だけにしない方法を少しだけ見た気がした。
夜、ボルドは厨房の片隅で、誰かが皿を洗う音に気づいた。
俺もそちらを見た。
大きな黒い翼を折りたたみ、元魔王ゼルガディスが水桶に向かっていた。
「何してるんだ、あいつ」
「昨日からだよ」
ボルドが答える。
「最初は皿を割った。今日は三枚しか割ってない」
「三枚も?」
「進歩だろう」
ゼルガディスは俺たちに気づいても振り向かなかった。
投票当日の朝、ボルドはいつもどおりカレーを作った。
「料理長、結局どちらに入れる?」
「秘密投票だろう。社長が聞くな」
「そうだった」
「ただし、どちらが勝っても昼飯は食わせる」
「俺にも?」
「夜食代を払ったらな」
吉岡がすかさず請求書を差し出す。
「用意してございます」
俺は金貨を払った。
一票は買えなかった。
だが、皿一杯のカレーなら、正しい値段で買えた。




