■第七十七話 敵対的買収の公開買付けが終わり、勝者が二人になった
魔界証券取引所の大時計が正午を打った瞬間、場内の鐘が三度鳴った。
「公開買付け、締め切り!」
取引所長のリッチ・サヴィンが叫ぶ。
買収側の灰冠財団は過半数を確保したと発表した。
同じ時刻、エリナの集計でも、魔王軍株式会社の現経営陣が過半数を押さえていた。
「おめでとうございます、社長」
吉岡が真顔で言った。
「何が?」
「両陣営が勝利宣言しております」
「それはおめでたくない!」
掲示板には二つの数字が並んだ。
どちらも五割を超えている。
俺は算術に自信がない。
それでも百を超えたらおかしいことくらい分かる。
「魔界の株は増殖するのか?」
『斬れば半分になりますよ』
聖剣が言った。
「それは株券だ。権利は半分にならない」
『経営者らしい発言を覚えましたね』
「お前は黙ってろ」
二つの勝利宣言が並ぶ掲示板の前で、株主たちは口論していた。
エリナは議決権の基準日と公開買付けの決済日を別の色で囲んだ。
「株を買う約束と、議決権を得ることは同じではありません」
俺は一方の勝利を先に認めるよう求められたが、拒んだ。
間違った数を公表すれば、今度こそ社員の生活が投機の道具になる。
数え直しの時間を稼ぐため、俺は両陣営の代表を同じ机につかせた。
サヴィンが帳簿を机に並べた。
「同じ株式番号が、異なる二つの名義で報告されています。紙の原簿には一人、魔導記録には別の一人です」
「偽造か?」
「断定できません。過去の担保設定が解除されないまま、譲渡だけ記録された可能性もあります」
灰冠の代理人クラウスが口を挟んだ。
「当方の取得は適法だ。疑義があるなら現経営陣の記録管理に問題がある」
エリナは否定しなかった。
「管理責任は当社にもあります。ただし、あなた方が同じ株式を二度数えた事実は別です」
「証明できるのか」
「これからします」
彼女は取引所の封印箱を指さした。
「まず原本を動かさないこと。次に買付けの決済を一時停止すること。そして、どちらの陣営にも関係のない監査人を選ぶこと」
クラウスの顔が曇る。
「決済停止は投資家に損害を与える」
「誤った株を売り渡す方が、もっと大きな損害です」
その日の午後、取引所の前に人が集まった。
灰冠に株を売った者は金を受け取れないと怒り、会社を支持する社員株主は自分の一票が消えるのではと怯えた。
小さなゴブリンの女性が、俺の袖を引いた。
「父の葬儀代が必要で、株を売ったんです。決済が延びたら間に合いません」
俺は言葉に詰まった。
勝ち負けの話をしていたが、彼女には期限がある。
「エリナ、売却代金の仮払いはできないか」
「会社の金で買収の対価を立て替えるのは危険です。株主への利益供与と見られます」
「じゃあ、どうする」
「取引所に保全された買付け資金から、確定した取引だけを先行決済する。名義が争われていない分です」
サヴィンが頷いた。
「制度上は可能だ。ただし双方の同意がいる」
俺はクラウスを見た。
「勝敗は争っていい。葬儀代まで争うな」
クラウスは長い沈黙の後、署名した。
「慈善ではない。こちらの信用にも関わる」
「理由は何でもいい。助かる人がいる」
調査は夜まで続いた。
最初の重複は、二十年前の戦時債務にたどり着いた。
当時の魔王軍は兵糧を調達するため、社員に配る予定の株を担保に差し入れていた。
戦後、担保権は帳簿上では消えたが、魔導台帳の封印は残っていた。
「その封印を使えば、株の所有者を二人に見せかけられる」
エリナが言う。
「誰が解除手続きを止めた?」
吉岡が古い稟議書を開いた。
「ゼルガディス前魔王の時代です。ただし、署名したのは当時の財務官。本人は既に亡くなっています」
「亡くなった人のせいにすれば、話は簡単だな」
「簡単ですが、真実とは限りません」
エリナの言葉に、俺は頷いた。
翌朝、サヴィンは双方の代表を呼び、重複株を議決権の確定から除くと宣言した。
「疑義のある株式は、権利者が確定するまで数えません」
「それでは過半数に届かない!」
クラウスが机を叩く。
「現経営陣も同じです」
エリナが静かに答えた。
残る有効票を集計すると、どちらの側にも過半数がなかった。
「引き分けか」
俺が呟くと、サヴィンは首を振った。
「いいえ。未確定分を除いた議案の賛否が、あと一票で決まります」
「その一票は誰のものだ」
「社員食堂の料理長、オーク・ボルド氏です」
俺は思わず天井を仰いだ。
「会社の命運が昼飯に握られた!」
『勇者よ、食事を軽んじるなかれ』
聖剣が妙に厳粛な声を出した。
「お前、昨日は炉の熱で溶けかけてたくせに!」
監査が始まると、サヴィンは取引所の扉を封鎖した。
「双方の代理人を二名ずつ残し、原簿の閲覧順を記録します。誰がいつ紙に触れたか、後で争わせないためです」
クラウスは不満そうだったが、退出しなかった。
最初の束には、百年前の戦争債権を担保にした株式が含まれていた。
債権者の署名は読める。
ところが返済欄だけが空白だ。
「返済されていないのか?」
俺が尋ねると、エリナは首を振った。
「返済の記録は別の台帳にあります。問題は、担保解除を株主名簿に反映していないことです」
「誰が忘れた?」
「旧魔王軍の財務局。いまの会社が引き継いだ部署です」
クラウスが笑った。
「つまり勇者殿の会社の失態だ」
「そうだな。隠さない」
俺が答えると、クラウスの笑みが消えた。
そのとき、年老いた記録係のコボルトが手を挙げた。
「私が押印した書類です。当時は戦争中で、避難者の債券を急いで現金化する必要がありました。解除の通知を出した翌日、役所が焼けたんです」
「責めるために呼んだんじゃない」
俺は椅子を勧めた。
「当時の通知の控えは?」
「私の家にあります。捨てると、あの人たちが金を受け取った証拠まで消えると思って」
一時間後、持ち込まれた箱から焦げた通知書が出てきた。
灰冠の取得分だけでなく、俺たちの保有分にも同じ不備が見つかった。
「両方の票が減るぞ」
聖剣がささやく。
『勝つために調べたのに、勝ち目を減らすとは』
「それでも、正しい数の方がいい」
エリナは通知書を封印袋に入れた。
「今日の数字は確定できません。でも、誰の票が宙に浮いているかは確定できました」
夕方、クラウスが俺を呼び止めた。
「料理長を説得するつもりか」
「話は聞く。でも、買うつもりはない」
「きれいごとだ。経営権は一票で決まる」
「だからこそ、値札をつけたくない」
クラウスは鼻で笑った。
「お前はまだ、戦争を知らない」
「知ってるよ。だから、別の終わらせ方を探してる」
取引所を出ると、食堂の煙突から夕飯の煙が上がっていた。
どちらが勝つかを決めるのは、明日の投票だ。
だが今日、確かなことが一つあった。
数字の裏に隠れた古い戦争は、まだ終わっていなかった。




