■第七十六話 魔導炉が暴走したので、勇者が株主総会を中止した
北方金鉱から届いた最初の知らせは、紙ではなかった。
赤く焼けた冷却管が、社長室の床に転がされたのだ。
「熱っ!」
俺は思わず飛び退いた。
「社長、触らないでください。まだ魔力が残っています」
エリナが革手袋で管を押さえる。
金属の内側には、何度も溶接した跡があった。
「交換申請は?」
「三年前から五回。全部却下です」
吉岡の声が低い。
「理由は?」
「設備更新費が、買収防衛のための積立金に振り替えられました」
俺は管を見た。
会社を守る金で、会社で働く者の命を危険にさらしていた。
「炉は止められるか」
「停止弁は炉心の近くです。近づけば命の保証はありません」
「じゃあ、俺が行く」
聖剣が鞘の中で鳴った。
『ようやく勇者らしい出番ですか』
「お前は冷却弁を斬るなよ。余計に漏れる」
『勇者に装備されて以来、初めて剣でないことを要求されました』
そのとき吉岡が、予定表を差し出した。
「本日は臨時株主総会です。灰冠財団の買収提案に対する議決権の確定が議題です」
「延期だ」
「議長が延期すれば、買収側は職務放棄だと訴えるでしょう」
「訴状はあとで読める。焼けた鉱夫は戻らない」
俺は署名した。
たった二文字、延期。
その下に、百人以上の生活がぶら下がっている。
冷却管を運んできた坑夫の袖には、焦げた穴が空いていた。
「総会を中止すれば、買収側が逃げ切る」と役員が言った。
俺は坑夫の手を見た。
指先が震えている。
「議決より先に炉を止める。責任は社長の俺が取る」
エリナは緊急支出の帳簿を開き、避難先の食費まで計上した。
経営判断の正しさは、議場の拍手ではなく、坑道から全員が戻れるかで決まる。
鉱山の坑道は、入った瞬間から息苦しかった。
壁の結晶が赤く脈打ち、地面の下から心臓のような音がする。
「避難は?」
「坑内に十七人。負傷者の搬送で取り残されています」
現場責任者のドワーフ、ガラムが地図を広げた。
「冷却水を流せば炉は落ち着く。だが水門を開くと、下流の鉱夫住宅に熱水が流れます」
「住宅は何戸だ」
「八十六。いま避難の鐘を鳴らしています」
俺は坑道の入り口で、幼い娘を抱えた女とすれ違った。
「夫がまだ中にいるんです」
その目は、俺の肩の聖剣に向いた。
「勇者なら、助けられますよね」
「助けに行く。でも、絶対とは言えない」
女は唇を噛み、それでも道を開けてくれた。
昔の俺なら、必ず救うと叫んだだろう。
今は約束の重さを知っている。
エリナが水門の図面を広げた。
「下流の排水路を先に開ければ、住宅への流入を減らせます。ただし、排水路の鍵は鉱山の債権者が保管しています」
「また灰冠か!」
「鍵を渡す条件として、鉱山の経営権を要求しています」
俺は手を伸ばしたが、エリナが先に紙を破いた。
「これは契約書ではありません。人質を取った脅迫です」
「経理担当が書類を破っていいのか?」
「控えは取ってあります。証拠保全です」
さすがだ。
俺が感心している間に、吉岡は鉱夫たちへ呼びかけた。
「旧排水路の位置を知る方はいませんか」
白髪の鉱夫が手を挙げる。
「二十年前に埋めた道がある。地図には載っていない」
「なぜ埋めた?」
「魔王軍の秘密通路に転用するためだ。戦争が終わっても、そのままだった」
俺は地面を蹴った。
「そこを掘ろう。炉心には俺が入る」
「社長が倒れたら株主総会はどうするんです?」
「吉岡、いま一番聞きたくない質問だ!」
坑道の奥で、十七人は壊れた昇降機を支えていた。
一人が腕を焼かれ、別の一人が足を挟まれている。
「魔王軍株式会社の社長だ!」
俺が名乗ると、鉱夫が怒鳴った。
「名刺なんかいらねえ! 手を貸せ!」
「そのとおりだ!」
俺は剣を抜いた。
聖剣が嬉しそうに光る。
『切断する対象は?』
「昇降機の鎖。ただし落とすな、支えろ」
『注文の多い社長ですね!』
刃に魔力を通し、切れかけた鎖を補強する。
戦場で敵の鎧を断ってきた力を、今日は重さを受け止めるために使った。
ガラムたちが負傷者を運び出したとき、炉心の圧力計が限界を示した。
「あと三分だ!」
旧排水路から、ついに冷たい水の音が響く。
だが水が足りない。
俺は聖剣を炉心の脇へ突き立てた。
『何をするつもりです』
「魔力を吸えるんだろ。熱を引き受けてくれ」
『私は伝説の武器であって、冷蔵庫ではありません!』
「今日だけだ!」
『勇者の今日だけほど信用できない言葉はありません!』
白い光が坑道を満たした。
剣身が悲鳴のように震える。
やがて圧力計の針が落ちた。
俺は膝をついた。
背後で、誰かが笑い、誰かが泣いた。
夕方、魔王城の総会場には、灰冠財団の代理人が待っていた。
「社長の独断による延期は、株主への背信行為です」
俺は煤だらけの上着で壇上に立った。
「そうかもしれない。だが、設備更新の申請を握り潰した議事録もここにある」
エリナが五枚の書類を掲げる。
「積立金の流用は歴代経営陣の決裁です。現経営陣の責任も調べます。都合のいい部分だけを隠しません」
株主たちがざわついた。
「会社を守ると言って、働く人を犠牲にした。その間違いは俺たちにもある」
俺は頭を下げた。
「総会は明日やり直す。逃げない。ただ、今日救えた十七人を、数字の外に置かないでほしい」
会場の後方で、一人の株主が立った。
「私は灰冠に票を入れるつもりだった。だが、あんたが本当に現場にいたのなら、話を聞き直したい」
賛成の拍手は少なかった。
それでよかった。
拍手より、翌朝の安全点検の方が大切だ。
避難所に着くと、鉱夫の娘が俺の袖をつかんだ。
「お父さん、助かったの?」
「十七人全員、地上に出た」
少女は安心しかけて、俺の後ろを見た。
「でも、お父さんの仕事はなくなるの?」
答えに詰まった。
炉を止めれば鉱山は操業停止だ。
危険なまま動かすわけにはいかないが、明日の賃金まで止めていい理由にはならない。
俺はエリナを呼んだ。
「復旧までの給与を確保できるか」
「買収防衛積立金を取り崩せば二か月は。ただし、議決権争いの最中に支出を変えるなら、臨時決議と明細の公開が必要です」
「公開しよう。株主には俺から説明する」
ガラムが首を横に振った。
「金だけでは駄目です。古い配管を換えても、点検を現場任せにしたら同じ事故が起きる」
「じゃあ誰が止める権限を持つ?」
「危険を見つけた鉱夫全員です。責任者の許可を待っていたら間に合わない」
吉岡は手帳を開いた。
「操業停止の申告者に不利益を与えない条項も入れましょう。口約束では次の責任者に消されます」
返事の代わりに、俺は書類を机へ戻した。
勇者が一度だけ炉を止めても、次の事故までは守れない。
炉を止められる会社にしなければ意味がなかった。
翌朝、避難所の掲示板に三枚の紙を貼った。
負傷者の治療費、休業中の賃金、設備更新の予定表。
少女の父親は包帯を巻いた手で、最後の一枚を指さした。
「この点検日、俺たちも立ち会っていいのか」
「むしろ来てくれ。俺には管の傷が分からない」
「社長のくせに?」
「社長だからこそ、分からないことを隠したらまずい」
鉱夫は初めて笑った。
夜、医務室で聖剣を水桶につけると、じゅっと湯気が立った。
『次からは剣らしい仕事を希望します』
「次はちゃんと休ませる」
『議事録に残してください』
吉岡が戸口から答えた。
「すでに記録済みでございます」
俺は笑った。
会社の命運を決める総会は、一日遅れた。
それでも、明日投票できる人間が十七人増えたのだ。




