■第七十五話 魔界最大の金鉱脈が、地図の上では二つ存在した
北方金鉱の入口には、同じ番号を刻んだ二本の境界杭が立っていた。
一本は坑道の右に、もう一本は谷を挟んだ左に。
どちらにも『第一鉱区』とある。
「地図を二枚重ねたら金が二倍になるのか?」
俺が聞くと、鉱山長ガンドルは苦い顔をした。
「地図の上だけならな。地面の下の金は一つだ」
二つの商会が同じ鉱区の採掘権を買い、それぞれ別の鉱夫を雇っていた。
坑道の中で両隊が鉢合わせし、つるはしを構えたまま仕事が止まっている。
「怪我人は?」
「まだいない。だが、昨日は支柱を一本折った。次は人が下敷きになる」
エリナは二枚の権利証を並べた。
売主の署名は同じなのに、発行日が三日違う。
「先に買った方が勝ち、で済まないのか」と俺。
「先の契約が有効なら後の買主は詐欺の被害者です。後の買主も働く人を雇っている。権利だけ決めて帰れば、賃金の支払いが止まります」
ガンドルが坑道から土だらけの帽子を持ってきた。
「これは右の隊の親方のだ。左の隊には、あいつの弟がいる。兄弟で金を掘っていたのに、今は敵同士だ」
俺は境界杭の一本を抜こうとして、思いとどまった。
力任せに境界を消せば、後でどちらが何をしたか分からなくなる。
「両隊とも地上に上げてくれ。危険な坑道は一時停止。賃金は会社が立て替える。ただし契約の売主に請求するため、全員の勤務記録を残す」
「財源は?」とエリナ。
「買収対策費を削る。戦う前に坑道が崩れたら、株の値段も何もない」
ガンドルは二本の杭を見比べた。
「勇者が剣を抜かずに、杭を残したのは初めて見た」
「俺も、杭がこんなに怖いとは知らなかったよ」
鉱夫たちを坑道から出すと、怒鳴り声が谷に反響した。
「先に雇われたのは俺たちだ!」
「こっちは正式な契約書がある!」
兄のバルクと弟のネリは、別々の商会の腕章をつけていた。
「兄貴はいつも自分が正しいと思ってる!」
「お前こそ、詐欺師の口車に乗って!」
「二人とも、つるはしを置け」とガンドルが叫んだ。
俺が近づくと、バルクが手の甲を見せた。
新しい傷が何本も走っている。
「先週から支柱を直してたんです。仕事を止めたら、妻と子どもが食えない」
弟のネリも黙らなかった。
「俺たちの親方は前金を払った。返してもらえなきゃ、来月の給料が出ない」
どちらか一方を悪者にすれば、話は早い。
だが、それでは別の家族が飢える。
エリナは契約書を地面に広げた。
「二枚とも、鉱区番号は同じです。ただし、権利の種類が違います。こちらは地表の使用権、こちらは地下の採掘権です」
「なら両方有効なのか?」
「その可能性はあります。でも、地表使用権の契約書には『地下採掘を含む』と追記されています」
「誰が書いた?」
「追記部分だけ、インクが新しい」
吉岡が小瓶を取り出した。
「記録保存用の薬液でございます。古いインクと新しいインクは、反応する色が異なります」
「そんな便利なもの、最初から使えよ」
「社長の食堂領収書にも使ったところ、先月の日付を昨日に直した痕跡が」
「今は鉱山の話をしよう!」
薬液を垂らすと、追記部分だけ青く浮かび上がった。
ネリの顔色が変わった。
「じゃあ、俺たちの契約は偽物なのか?」
「全部が偽物とは限らない」とエリナ。
「本来の契約に、誰かが都合のいい文言を足したのかもしれません」
ガンドルが二枚の地図を並べた。
「初代魔王の時代、ここは谷を境に別の鉱区だった。地震で川が移ってから、古い境界線だけが残ったんだ」
「地震で川が移ることはあるのか?」
「この山では珍しくない。問題は、役所の地図が古いままだったことだ」
俺は昨日ガルディオンから受け取った図面を取り出した。
山の稜線と古い川筋が、今の地図とは明らかに違っている。
「境界杭が二本ある理由はこれか」
「しかし、杭を置いたのは最近です」とガンドル。
「木材が新しい」
「古い混乱を利用して、誰かが二度売った」
エリナは首を振った。
「まだ断定できません。まず登記簿と代金の流れを調べます」
そこへ、坑道の見張りが駆け込んだ。
「奥の通気孔から熱い風が出ています! 昨日まではなかった!」
ガンドルが顔をしかめた。
「旧魔導炉の近くだ。誰かが奥の扉を開けたのかもしれん」
「全員避難だ」
「でも、道具が中に!」とバルク。
「道具は後で買える。人は買い直せない」
ネリが兄の腕をつかんだ。
「兄貴、行こう」
バルクは一瞬だけためらい、弟と一緒に走った。
坑道の外で人数を数えると、一人足りなかった。
夜勤の測量士が、奥で地図を描いていたという。
俺は聖剣を抜こうとしたが、ガンドルに止められた。
「剣で壁を斬れば、天井が崩れる!」
「じゃあ、どうする!」
「換気路を使う。狭いが、人ひとりなら通れる」
小柄なネリが手を上げた。
「俺が行く。道は知ってる」
「危険だ」とバルク。
「だから一人じゃ行かない。兄貴、ロープを持っててくれ」
兄弟は顔を見合わせた。
さっきまで敵同士だった二人が、同じ結び目を確かめる。
俺とガンドルは地上からロープを固定し、ネリが換気路に入った。
しばらくして、暗がりから声がした。
「見つけた! 足をくじいてるけど、生きてる!」
引き上げた測量士は、煤だらけの手で一枚の図面を握っていた。
「奥の扉……誰かが封印を外した。警告灯が点く前に、変な音がしたんだ」
「封印を外した者を見たか?」
「顔は見てない。ただ、灰色の外套だった」
灰冠財団と同じ色だ。
偶然かもしれない。
だが、偶然で片づけるには危険すぎた。
エリナは臨時の給与支払書を両隊へ渡した。
「停止期間中の最低賃金は会社が立て替えます。後で契約責任を整理します。誰かが先に権利を主張したからといって、今夜の食事まで奪う理由にはなりません」
バルクが弟の肩を叩いた。
「……さっきは悪かった」
「俺も。給料が出るなら、喧嘩は明日にする」
「明日もするなよ!」と俺。
二人は初めて笑った。
日が暮れるころ、吉岡が報告書を持ってきた。
「鉱区の重複登記は仮差し止めとなりました。ただし、坑道内の魔導炉については別の緊急案件です」
「分かってる。明日の朝、技師を集める」
「朝でよろしいのですか」
「今夜は全員を避難させて、封鎖と監視を続ける。無理に開けて爆発させたら元も子もない」
ガンドルが古い地図を畳んだ。
「勇者殿。金は掘れば増えると思っていたが、権利の紙だけが増える時代になったんだな」
「紙が増えるのはいい。せめて、人が減らないようにしたい」
遠くの山腹で、赤い警告灯が一度だけ瞬いた。
明日の問題は、もう山の中で待っていた。
金鉱脈の図面を重ねると、二本の線が同じ場所を通っていた。
エリナはすぐに利益計算を始めず、先に測量の基準点を確かめた。
「二つ見つかったのか、同じものを二度数えたのか。それで会社の未来が変わります」




