■第七十三話 魔王の翼に値段を付けた鑑定士が、なぜか泣き始めた
魔界鑑定協会の廊下で、ゼルガディスが翼を広げようとして天井の照明を壊した。
「我の翼の価値を測るというなら、十分な広さを用意せぬか!」
「まず修理代を払ってください」とエリナ。
「まだ一銅貨も査定されておらぬのに!」
机の向こうで、ドワーフの鑑定士ヘルムが静かに涙をぬぐった。
「すまん。翼を見ると、昔のことを思い出してな」
俺は剣の柄から手を離した。
鑑定士が泣く理由は、査定不能の難しさではなかった。
「戦のとき、わしの村を焼いた影があった。空を覆う、あの翼だ」
ゼルガディスの顔から怒りが消えた。
「……我が軍の飛竜隊か」
「どの部隊かは知らん。だが、翼に値段をつけろと言われると、村の家の値段を思い出す。家も、畑も、人の命も、あのころは全部、紙に数字で書かれた」
鑑定依頼書には『身体の一部を担保とする』と記されていた。
昨日判明した保証契約の担保不足を埋めるため、買収側が持ち込んだ案らしい。
「翼は切り離して売れるものじゃないだろ」と俺。
「魔力を封じて担保にする方法はある」とヘルム。
「だが、それを認めれば次は角や腕だ。借金のたびに誰かの身体を数えることになる」
エリナが依頼書に赤い線を引いた。
「会社の借金を、本人の身体に転嫁する条項は認めません。鑑定対象を変えます」
「何に?」
「ゼルガディス本人ではなく、契約に書かれた事業資産です」
ヘルムは震える手で鑑定印を置いた。
「わしはもう、誰かの痛みに値段をつけたくない」
「じゃあ、別のものを数えてくれ」と俺は言った。
「奪われたものを返すために必要な額だ」
ゼルガディスは翼を畳み、深く頭を下げた。
照明の破片が、床で小さく鳴った。
ヘルムは鑑定台から、三冊の古い台帳を取り出した。
一冊は軍の備品、一冊は戦災の補償、最後の一冊は失われた家屋の記録だった。
「わしが若いころ、これを書かされた。村が燃えた日、上官は家の値段を記せと言った。わしは家族の名前を書こうとして叱られた」
「その帳面を、今まで持っていたのか」と俺。
「捨てられなかった。数字にしてしまえば、誰も覚えておらんと思ったからな」
ゼルガディスは自分の翼を見た。
戦場ではそれを誇りと呼んだ。
今は鑑定室の灯りを遮る、巨大な影でしかない。
「我は、村を焼けと命じた覚えはない」
ヘルムの指が止まった。
「命じた覚えがないなら、村は戻るのか」
「……戻らぬ」
「ならば、覚えていないことも罪の一部だ」
誰も言い返さなかった。
エリナが三冊目を開いた。
家屋の記録には、修復済みを示す赤印がいくつも押されている。
「待ってください。ここに不自然な点があります。焼失した家が、焼失した翌月に『修復済み』になっています」
「早すぎるのか?」
「資材の輸送記録がありません。人夫の賃金も支払われていない。つまり帳簿の上でしか修理していないんです」
ヘルムは眉を寄せた。
「そんなはずは……わしが確かに印を押した」
「誰の指示で?」
「戦後復興局の長官だ。『印がなければ次の村への予算が出ない』と」
印を押した者を責めるだけでは、何も解決しない。
俺は帳簿の端に残る細い筆跡を見た。
『未確認。
現地確認を要す』
小さな文字だった。
ヘルム自身の字だという。
「お前、嘘だと知っていたんだな」
「知らんかった。ただ、怖かった。だから一言だけ残した」
「その一言で、今から調べ直せる」
ヘルムは首を横に振った。
「生き残りはもう少ない。調べ直しても、帰らぬ者は帰らぬ」
「それでも、まだ暮らしている人の屋根は直せる」
ゼルガディスが静かに翼を広げた。
今度は照明にぶつけないよう、端を折り畳んで。
「我が翼を担保にする話は取り消す。しかし、何も差し出さぬとは言わぬ」
「何をするつもりだ?」
「翼を使う。建材を運ぶ。橋のない谷にも、屋根板を届けられる」
「元魔王が運送業か」
「笑うなら笑え。戦のために飛んだ翼だ。今度は別のものを運ぶ」
ヘルムは目を伏せた。
「それで許せと言うのか」
「許しを請う資格があるとも思わぬ。働いた分だけ、記録してくれ」
エリナは復旧対象の村を台帳に照らし、最初の三村を選んだ。
被害が大きい順ではない。
冬までに屋根を直さなければ、今いる住民が危険になる順だ。
「補償の再審査は独立した委員会に任せます。元魔王が運ぶからといって、軍の責任が消えるわけではありません」
「もちろんだ」と俺。
「金の支払いも別に進める」
その日の夕方、最初の資材が積み上がった。
ゼルガディスは長い板を背負い、狭い門を通ろうとして横向きに挟まった。
「動けぬ!」
「翼を畳めって言っただろ!」
「畳んでおる! 板が長いのだ!」
吉岡が記録用紙をめくる。
「初回配送、出発前に門の修繕費が発生しました」
「運送業、赤字スタートかよ!」
笑い声の中で、ヘルムだけは笑わなかった。
彼は荷札に村の名前を書き、最後にこう付け加えた。
『到着後、本人が確認すること』
「今度は、見もしないで印を押さない」
俺は相手の顔を見て、返事を急がなかった。
夜、最初の荷が無事に届いたと伝令が来た。
村の老婆は荷を受け取ったが、ゼルガディスの顔を見て扉を閉めたという。
「当然だ」と元魔王は言った。
「明日も運ぶ」
聖剣がぽつりと呟いた。
『翼を売らずに済んで、よかったですね』
「違う」と俺は答えた。
「売れないものを、ようやく使い直せるようになったんだ」
翌朝、復旧対象となった村から短い返事が届いた。
『材木は受け取った。
だが、運んできた者の名を村の広場で呼ばないでほしい』
ゼルガディスは紙を二度読み、うなずいた。
「名を呼ばれずとも、荷は運べる」
「怒らないのか?」と俺。
「怒る資格があると思うか。村人にとって、我の名は家族を失った日の音だ」
ヘルムが小さな釘袋を差し出した。
「材木だけでは屋根は直らん。これも持っていけ」
「代金は?」
「請求書を切る。無償にすれば、職人の仕事まで無かったことになるからな」
エリナが請求書を受け取った。
「正しい支払いは、正しい記録から始まります」
俺は空欄だらけの古い台帳を見つめた。
過去は消せない。
でも、今日運んだ釘一本からなら、書き直せることもある。
ヘルムの鑑定書には、翼の価格欄だけが空白のままだった。
代わりに、運送可能重量と、最初の配送先が記されていた。
鑑定人は翼の値段を書きかけて筆を止めた。
「これは売り物としての評価です。本人にとっての価値とは別です」
ゼルガディスは初めて見積書を受け取り、数字を伏せた。
「わしが決めることを、まだ残してくれるのだな」




