■第六十九話 勇者の父親が、魔王軍の取引先だったと判明した
リベル村の共同倉庫に、父の筆跡が残っていた。
幼い頃に見た帳面と同じ、右肩上がりの文字だった。
【麦百袋、北の陣地へ】
宛先は魔王軍。
「父さんが、敵に麦を売った?」
村長は黙っていたが、やがて倉庫の裏扉を開けた。
そこには戦争当時の避難者名簿が保管されていた。
「売ったんじゃない。代金を取った形にして、飢えた兵士へ渡したんだ。無償で渡せば反逆者として村ごと処罰された」
「じゃあ、父さんは……」
「敵も味方も、食べなければ死ぬと言っていた」
俺は帳面を閉じた。
父の選択を美談にするのも、裏切りと決めつけるのも簡単だ。
でも、その選択のせいで村が危険にさらされたことも事実だった。
村長は一枚の請求書を差し出した。
未払いの麦代が、まだ残っている。
「父さんは取り立てなかったのか」
「戦争が終わったら、みんなで食卓を囲む方が先だと言ってな」
俺は請求書を持ち帰った。
帳簿から消すためではない。
父が何を守ろうとしたのか、ちゃんと記録するために。
共同倉庫の壁には、父が背丈を測ってくれた傷が残っていた。
そのすぐ下に、魔王軍宛ての納品記録がある。
村長は言った。
「敵へ売った麦で、村の子が冬を越した」
俺は父を許すか責めるか、すぐには決められなかった。
戦場で聞いた正義と、腹を空かせた家族の正義は同じ形をしていない。
父の帳面を閉じずに持ち帰り、エリナと一緒に取引の全体を確かめることにした。
村の元会計係ノアは、父の出荷伝票を見た途端に表情を曇らせた。
「その名前を、村の広場で口にしないでください」
「どうしてだ。父さんは飢えた兵士を助けたんだろ?」
「その麦を奪われたと思っている人もいるからです」
ノアが開いた別の帳面には、村の備蓄が急減した日の記録があった。
魔王軍に渡した百袋と同じ日に、村の配給が半分に減っている。
「父さんが村の食糧を勝手に渡したのか?」
「そこが、まだ分からないんです」
「だったら確かめる」
「勇者様が確かめれば、みんな本当のことを言うと?」
俺は返事に詰まった。
村にとって俺は、幼なじみのジークである前に、魔王軍株式会社の社長だった。
ノアは俺を共同倉庫の裏へ案内した。
床板の一枚だけ、釘の色が違う。
「昔、ここに帳簿を隠した者がいます」
「父さんか?」
「あなたのお母さんです」
板の下から出てきたのは、麦の代金を記した台帳ではなく、配給所の献立表だった。
【北陣地へ百袋】の下に、小さく【村の病人用、三十袋確保】とある。
「何だ、これ」
「兵士に渡した百袋のうち、三十袋を村へ戻す契約だったんです。魔王軍の軍医が、敵味方を問わず病人を診る条件で」
「そんな契約、誰が認めた?」
「誰も。だから秘密にしたんです」
聖剣が鞘の中で低く鳴った。
『戦場で病人を運ぶ兵を、私は見たことがあります。
斬るべき敵だと教えられていました』
「お前も知らなかったのか」
『勇者も剣も、戦場の端までは見えませんから』
午後、俺たちは村の広場で証言を集めた。
最初に立ったのは、父を裏切り者と呼んできた粉屋の息子だった。
「うちの祖父は、配給が減って死んだ。お前の親父が敵に麦をやったせいだ!」
「そうかもしれない」と俺は言葉を選んだ。
「違うって言わないのか?」
「違う証拠がない。父さんのことは信じたいけど、祖父さんが飢えたのも事実だ」
男の拳が震えた。
「勇者なら、正しい方を決めろよ!」
「俺一人に決めさせないでくれ」
広場がざわついた。
「逃げるのか?」
「逆だ。俺が決めたら、父さんを守るために嘘をついたと思われる。村の人と、村の外の調査役に証拠を見てもらう」
そこへエリナが、軍医の勤務記録を持って現れた。
「配給を受けた病人の名前が、こちらに残っています」
「生きてるのか?」
「当時の本人は難しいでしょう。でも、治療記録には、後に生まれた子供の名前まで記載されています」
粉屋の息子は紙に目を落とした。
そこには、彼の祖母の名前があった。
「……祖母ちゃん?」
「治療された側でもあり、麦を失った側でもあるんです」とエリナ。
男は何も言わなくなった。
俺も、勝ったような気分にはなれなかった。
日が傾く頃、村長が父の手紙を持ってきた。
『この麦で救える命があるなら渡す。
だが村の者が飢えたなら、責任は私が負う』
短い文章だった。
署名の下には、支払われていない麦代の記載がある。
「父さん、立派なことを書いてるけど、責任を負う前に死んじまったじゃないか」
声に出すと、胸の奥が熱くなった。
「だから息子が払うのか?」とノア。
「それも違う。俺が社長の金を勝手に使ったら、父さんと同じことを繰り返す」
俺はエリナを見た。
「村の備蓄を回復する仕事を、公開入札にしてくれ。父さんの未払い代金は、証拠を審査した上で会社の負債として扱う」
「村への寄付ではなく、事業として?」
「今後の飢饉に備える倉庫を作る。村の人にも管理を任せる。昔の借りを、未来の食事につなげたい」
ノアは腕を組んだ。
「父親の名誉回復は?」
「証拠がそろったら、みんなが判断してくれ。俺が社長命令で決めることじゃない」
その晩、俺は共同倉庫に一人残った。
幼い頃、父が麦袋を肩に担いでいた背中を思い出す。
あの頃は、強い人だと思っていた。
本当は、間違えることを怖がりながら、それでも袋を運んでいたのかもしれない。
聖剣が静かに尋ねた。
『後悔していますか。
魔王軍の社長になったことを』
「してる日もある。でも、社長じゃなきゃこの帳面を開けなかった」
『では、勇者としては?』
「父さんに、もっと話を聞けばよかった」
それだけは、どんな会議でも取り返せない。
倉庫を出ようとすると、吉岡から伝令が届いた。
「社長、父上の手紙の封蝋に、灰冠財団の古い印が確認されました」
「父さんまで買収屋と関係が?」
「断定はできません。印の由来を調査中です」
俺は手紙を灯りにかざした。
紙の繊維に、後から押しつけたような跡がある。
「この印、父さんが押したものじゃないかもしれない」
『では、誰が?』
「分からない。だから、分かるまで父さんを英雄にも悪人にもしない」
翌朝、村の掲示板には新しい張り紙が出た。
【調査中。
証言を募る。
異議申立て可】
その下に、誰かが小さく書き足していた。
【麦は、食べればなくなる。
記録は、残してくれ】
俺はその文字を、しばらく見つめていた。
帰り道、粉屋の息子が俺を呼び止めた。
「祖父が死んだのは変わらない。だから、お前の親父を許したわけじゃない」
「分かってる」
「でも、祖母を助けた軍医の名前は知りたい。うちの家族の話だから」
「調べて伝える」
「社長命令で消すなよ」
「消さない。たとえ俺が嫌われる結果でも」
男はようやく拳をほどいた。
村の出口でエリナが待っていた。
彼女は契約書を一枚差し出す。
「備蓄倉庫の建設費、概算が出ました」
「高いな」
「過去の損失を一度に埋める費用ではありません。次に誰かが飢えないための費用です」
俺は署名欄を見つめた。
父の筆跡に似ないよう、いつもより丁寧に自分の名前を書いた。




