■第六十六話 元魔王が敵対的買収を宣言したので、魔界中が花火を上げた
魔界の空に、赤と紫の花火が上がった。
戦勝記念日でもない。
魔王ホールディングスの屋上で、元魔王ゼルガディスが敵対的買収を宣言したのだ。
「株主の皆さん。今度こそ魔王軍を取り戻す!」
歓声の中に混じって、花火職人が俺の袖を引いた。
「社長、代金は誰に請求すれば?」
「主催者じゃないのか?」
「元魔王様は『魔界の未来への投資』だと。ですが契約書には個人名しかありません」
俺は屋上へ駆け上がった。
ゼルガディスは笑っていたが、足元には封の切られた借用証書が散っている。
「借金して花火を上げたのか?」
「人心をつかむには景気が必要だ」
「景気じゃなくて煙だろ!」
エリナは借用証書を拾い、会社の債務と個人の債務を区分した。
吉岡は職人たちに支払い予定を確認する。
祝祭のあとに未払いを残せば、最初に困るのは現場だ。
ゼルガディスは声を落とした。
「拍手を聞いたとき、皆が私を待っていたと思った」
「拍手と票は違う。票と信頼も違う」
俺は職人たちの前で、会社は個人の借金を肩代わりしないと説明した。
同時に、発注を受けた職人が泣き寝入りしないよう、契約の相手と支払い期限を公開するよう求めた。
夜空に最後の花火が開いた。
勝者が決まるのは、まだ先だった。
花火を見上げる子どもたちは、買収という言葉の意味を知らない。
「魔王様が帰ってくるなら、また戦争?」と一人が聞いた。
ゼルガディスは壇上で口を開き、用意された勇ましい宣言を丸めた。
「取り戻すのは城ではない。失った信用だ」
拍手は少し減った。
俺はその変化を見逃さなかった。
買収の成否より、元魔王が自分の言葉で何を約束するか。
今夜の花火は、その試験の始まりだった。
ゼルガディスは買収の宣言書を握りしめていた。
「取り返したいのは玉座ではない」と小さく言う。
「わしが壊した場所を、他人の都合で売らせたくない」
俺は宣言書を取り上げなかった。
ただ、買った後に誰を守るのか書け、と余白を指した。
翌朝、花火の灰が降り積もった広場で、元魔王の公開買付説明会が開かれた。
「一株につき金貨十五枚!」
ゼルガディスの声に、魔族たちがどよめく。
前日の終値は十一枚。
生活費に困る株主には魅力的な数字だった。
エリナは俺の耳元で言った。
「価格が高いこと自体は悪ではありません。問題は、買付けに必要な資金を誰が出しているかです」
「俺が大声で反対したら?」
「株主の自由を奪ったと言われます」
「社長って、反対するのも難しいな!」
列の中に、かつて週休二日を要求したオーク隊長がいた。
手には従業員持株会の証書。
「売るのか?」
「娘の学校の入学金が必要なんです。会社を信じています。でも、娘を待たせることはできない」
俺は証書を奪わなかった。
買付けを阻止したいからといって、社員の財布を人質にするわけにはいかない。
「その事情は、誰にも責められない」
そこへ吉岡が封筒を持って駆けてきた。
元魔王側が配った買付説明書の末尾に、小さな条項がある。
【買付け成立後、主要資産の売却を検討】
「主要資産って、何だ?」
エリナが付属資料を開く。
港の荷揚げ設備、義肢工房、王国向けの医薬品倉庫。
「これを売ったら、会社の仕事が消えるぞ」
ゼルガディスを呼び止めた。
「お前、本当にこの条項を読んだのか」
「買収には資金が要る。不要な資産を処分するだけだ」
「義肢工房は不要じゃない。戦争で腕を失った兵士が働く場所だ」
ゼルガディスの目が揺れた。
「わしが兵を守らないとでも?」
「守りたいなら、まず誰が働いているか見ろ」
俺は工房の義手を一本、壇上に置いた。
木と魔石を組み合わせた、まだ未完成の試作品だ。
「これを作った職人は、元はお前の軍の兵士だった。片腕を失って、今は誰かの腕を作っている」
広場は静まり返った。
ゼルガディスは説明書を読み直し、買付けを一時停止すると宣言した。
「なぜ停止するんだ!」と投資家が怒鳴る。
「読まずに出した条件で、部下を二度失うわけにはいかぬ」
拍手が起きた。
昨日の花火より、ずっと小さな拍手だった。
エリナは冷静に釘を刺した。
「停止は撤回ではありません。資金提供者の開示と、売却対象の再審査が必要です」
「分かっておる」とゼルガディス。
「なら、花火職人への支払いも先に済ませろ」
「……それも分かっておる」
吉岡が小声で言った。
「元魔王様、昨日から『分かっておる』の回数が増えました」
「理解した回数も増えてるといいな」
夕方、オーク隊長が娘の入学通知を見せに来た。
会社の教育貸付制度を使い、株はまだ売らずに済んだという。
「売りたければ、いつでも自分で決めていい」と俺は言葉を選んだ。
隊長は笑った。
「それを社長が言うから、もう少し持っていたくなるんです」
夕方、花火職人の親方が魔王ホールディングスへ来た。
手には未払いの請求書がある。
「元魔王様。職人たちは明日の材料を買えません」
ゼルガディスは玉座の代わりに置いた豪華な椅子から立ち上がった。
「金貨は財務担当に任せておる」
「担当者は昨日から姿が見えません」
俺は隣で腕を組んだ。
「逃げたのか?」
エリナが首を振った。
「資金繰りの説明ができず、会議室に閉じこもっています」
ゼルガディスは会議室の扉を開けた。
若いインプが帳簿を抱えて震えていた。
「なぜ報告しなかった」
「魔王様は、失敗を報告した部下を地下牢に入れると聞いて……」
元魔王の顔が曇った。
否定できない過去があった。
「今は地下牢に入れぬ。……少なくとも、報告が遅れたくらいでは」
「くらいでは、って何だ!」と俺。
ゼルガディスは咳払いした。
「二度と入れぬ」
インプはようやく帳簿を開いた。
花火代は金貨八百枚。
用意できたのは三百枚だった。
「残りはどうする」と俺。
元魔王は自分の鎧を見た。
黒曜石と金で作られた、戦場で何百年も着続けた鎧だ。
「これは私物だ。売れば足りるか」
親方は首を振った。
「鎧はいりません。契約通り払ってほしいだけです」
「では、これを担保に銀行から借りる。借りるのは会社ではなく、わし個人だ」
エリナが契約書を確認し、返済期限と利息を記入した。
翌朝、職人たちに全額が支払われた。
ゼルガディスは初めて、領収書に自分の名を小さく書いた。
「世界征服より難しいな」と元魔王。
「世界征服の方が迷惑だよ」
「勇者よ。わしはまだ買収を諦めておらぬ」
「知ってる。だから次は、借金のない花火にしてくれ」
「花火は必要か?」
「そこから考えろ!」
彼は不満そうに唸ったが、職人の領収書だけは大切に折り畳んだ。




