■第六十五話 魔王軍の決算が黒字なのに、現金がなくなった
魔王城の経理室で、エリナは黒字の決算書を机に置き、その横へ空の金庫を開いて見せた。
「利益は出ています。でも明日の給料を払う現金がありません。帳簿上の売上は増えても、支払期限が来るまで金貨は一枚も入ってこないんです」
「黒字なのに金がないって、どういう手品だ?」
「手品ならまだよかったです。売った商品の代金が入っていないんです」
吉岡が未回収の請求書を積み上げた。
王都の病院への薬品代、国境港の修繕費、農村へ届けた肥料代。
どれも人を助けるために始めた仕事だった。
「払えない相手から取り立てるのか?」
「それをすれば、取引先が倒れます。ですが払わなければ、うちの社員が困ります」
エリナは夜勤手当の支払日を赤で囲った。
廊下では清掃班の足音がする。
社員は会社が黒字だと聞いて安心している。
「俺の給料を止めれば?」
「足りません。社長一人の美談では埋まらない額です」
「なら、何を売る?」
「売れる資産と、売ってはいけない資産を分けます。救急車と食料庫は残す。使っていない戦時倉庫は貸し出せます」
俺は決算書を見た。
数字が並んでいるのに、そこには病院の患者も、港の船員も、夜勤の清掃員も映っている気がした。
「社員に隠さず説明しよう」
「混乱するかもしれません」
「隠して給料日に裏切る方が、ずっと悪い」
エリナは頷いた。
「では、現金の出入りを一日単位で公開します」
エリナは三枚の紙を並べた。
売上、入金予定、そして明日の給与。
「利益があっても、売掛金は金庫に入りません」
吉岡が支払いを延期できる取引先を挙げると、エリナは首を振った。
「小さな工房から先に遅らせたら、あちらの給料が消えます」
俺は自分の役員報酬を最初に止めるよう伝えた。
それだけで穴は埋まらない。
それでも誰の生活を後回しにするか、決算書の外で決める覚悟が必要だった。
エリナは金庫の前に三本の線を引いた。
赤は明日必要な現金、青は今週入る見込み、黒は帳簿上の利益。
「黒がどれだけ太くても、赤の線は埋まりません」
「俺の聖剣を売れば?」
『勝手に資産計上するな』
腰の剣が喋った。
吉岡は即座に議事録へ「聖剣の売却は本人不同意」と記した。
「剣の人権まで会計処理するな!」
笑いが起きかけたが、エリナの顔は厳しい。
「給与支払額は金貨一万二千枚。手元現金は七千枚。明日までに五千枚必要です」
俺は王都病院の請求書を取った。
「ここから回収できないのか」
「病院は疫病病棟の増床で現金がありません。取り立てれば薬を止めます」
「なら別の場所だ」
吉岡が戦時倉庫の一覧を開いた。
北側の旧兵器庫には、使われていない投石機が三十台ある。
「売るか?」
「金属としては価値がありますが、買い手が今日中に現れるとは限りません」
「今日中に借りる相手なら?」
俺は港の技師ルッカへ使い魔便を飛ばした。
返事は一時間後。
『投石機の車輪と滑車なら、港の荷揚げ機に転用できる。
ただし安全検査が必要』
「いくら払える?」
『前金で三千枚。
残りは来月』
足りない二千枚。
エリナは銀行頭取バルガスを呼んだ。
「借金は増やしたくない」と俺。
「無担保で借りればそうなります。ですが港の前金契約と確定した売掛金を裏付けに、短期のつなぎ融資を組めます」
バルガスは契約書を読んで鼻を鳴らした。
「勇者。金利は払うのか」
「払う。払えない条件なら借りない」
「前の魔王は『利息など我が炎で焼く』と言ったぞ」
「帳簿は燃やすなよ。前にもやっただろ」
バルガスは笑い、二千枚の融資を認めた。
ただし、毎週の現金残高を銀行と従業員代表に報告する条件付きだ。
夜更け、清掃班の代表が部屋へ入ってきた。
「明日、給料は出るんでしょうか」
「出る」と答えかけて、俺はエリナを見た。
「今、契約が二つ成立しました。現金が着金したのを確認したら、明朝一番に報告します」
代表は静かにうなずいた。
「嘘の安心より、その方が助かります」
翌朝、港から前金が届き、銀行の送金印が押された。
金庫に金貨が戻る音を聞いて、俺は初めて肩の力を抜いた。
しかし、エリナは新しい表を見せた。
「来月も同じことをするつもりですか?」
「絶対に嫌だ」
「では、請求の締め日を揃え、前金契約を増やし、支払期限の交渉を続けます」
「派手さがないな」
「経営とは、派手な危機を毎月起こさない仕事です」
廊下では清掃員が給料袋を受け取っていた。
小さな袋を胸に抱き、笑っている。
黒字の紙より、あの笑顔の方がよほど会社の成績に見えた。
給料日が終わるころ、エリナが封筒を一つ持ってきた。
中身は港の作業員からの手紙だった。
『荷揚げ機ができたら、船から落ちる人が減ります。
前金は惜しくありません。
ただし納期を守ってください』
「売ったのは古い投石機の部品だと思ってた」と俺。
「向こうが買ったのは、安全に働ける未来です」とエリナ。
その言葉を聞いたガンドルが、工房から顔を出した。
「おい社長、部品の改造には職人が要る。給料はちゃんと出るんだろうな」
「今日の分は出た。来月の分も作る」
「作るって、金貨を鍛造するつもりか?」
「それができたら銀行はいらないだろ!」
ガンドルは笑って、作業台に戻った。
俺はエリナと翌月の予定表を広げた。
売掛金の回収日はばらばら、給料日は一日。
危機が起きる理由は、図にすると驚くほど単純だった。
「病院の支払いは分割にできないか」
「できます。ただし薬の供給契約も長期にします。相手が無理なく払い続けられる形です」
「農家の肥料代は?」
「収穫期に合わせます。その代わり、種まき前の前金は求めません」
「港は?」
「納品検査のあと残金を受け取ります。遅れたら私たちの責任です」
俺は赤い線を見つめた。
明日の危機を越えても、線は来月も再来月も続く。
「勇者って、最後の敵を倒したら終わりだと思ってた」
「会社に最後の月はありません。続けるなら、毎月の約束を守るんです」
夜、金庫を閉める前に吉岡が報告した。
「本日の給与遅延、ゼロ件。苦情、二十三件」
「苦情は何だ?」
「支給袋の紐が短い、給料日なのに食堂のプリンが売り切れ、社長の説明が長い、などでございます」
「最後のは改善できる!」
「残り二十二件もお願いします」
俺は机に突っ伏した。
剣の向こうにいた敵より、仕事はずっと多い。
だが、その夜は少しだけ眠れた。
誰かの給料袋が空にならなかったからだ。
エリナは金庫に一枚の紙を貼った。
【次の給料日まで、あと三十日】
「もう次の敵がいるのか」
「毎月現れます。倒しても復活します」
「魔王より厄介だな」
俺は来月の入金予定表に、最初の赤い丸をつけた。




