■第六十二話 水門を閉じられた魔界で、勇者が水の値段を決めた
水門の上に立つと、川の上流と下流で景色が別の国のように違った。
上流の水は青く満ち、下流の田畑はひび割れている。
「昨日、苗を全部抜いた農家もいます」
技師のリオが乾いた泥を拾った。
「門を閉じたのは私の手です。命令書には署名がありました。ですが、誰のための命令なのか書いてありません」
俺は門の鉄鎖を見上げた。
剣で切るのは簡単だ。
だが水を一度に流せば、下流の橋が壊れ、川沿いの家まで流される。
「開ければ解決、とはいかないんだな」
「開度を誤れば洪水です」とリオ。
エリナは二通の契約を見比べた。
「水門の設備は財団が所有しています。でも水利権は昔から両岸の村の共有です。設備の持ち主が水の持ち主とは限りません」
「水に値段を付けた奴は、田んぼで働いたことがあるのか?」
吉岡は首を横に振った。
「請求先の名簿に農家の名前はありません。取引相手は王都の投資組合です」
村の子供が空の水桶を抱えて近づいた。
「お兄ちゃん、明日は水が来る?」
俺は答えに詰まった。
約束できないことを、子供の前で約束したくなかった。
「明日までに、どこまで開けられるか調べる。まず飲み水を運ぶ」
リオは初めて顔を上げた。
「水門を少しずつ開けるなら、私が責任を持って計算します」
技師リオは水門の操作盤に手を伸ばし、途中で止めた。
「開ければ下流は助かります。でも上流の堤防がもたない」
俺は二つの村の代表を呼び、貯水量と畑の面積を同じ紙に書かせた。
水に値札を付ければ争いは収まると思っていた。
だが数字の横に、乳児のいる家と種をまいたばかりの畑が書き足される。
これは価格の問題だけではない。
誰を先に助けるかという、逃げられない判断だった。
水門の操作室には、古い水位記録が積まれていた。
リオは一冊を開き、震える指で数字をなぞった。
「門を全開にすると、下流の橋脚に流木が引っかかります。三年前の洪水で、橋の基礎が傷んだままです」
「橋を守れば畑が枯れる。畑を守れば橋が流れる、か」
「だから閉めろと命じられました。でも飲み水まで止める必要はありません」
俺は外へ出た。
村の広場には二つの集団が向かい合っている。
上流の製粉業者と、下流の農家だった。
「門を開けたら水車が止まる!」と製粉業者。
「こっちは苗が死ぬ!」と農家。
「順番に話してくれ。水は喧嘩しても増えない」
農家の老婆が、泥のついた苗を一本差し出した。
「これを植え直せるのは今日までだよ。明日じゃ根がつかない」
製粉業者は唇を噛んだ。
「俺の工場も止まれば、パン屋が粉を買えなくなる」
どちらも嘘をついていない。
だからこそ、剣を抜く相手がいなかった。
エリナが地面に四角い区画を描いた。
「水車用の流量、飲用、農業用、川そのものを保つための最低流量。この四つを分けて考えます」
「水を四つに切るのか?」
「社長の剣より細かい仕事です」
リオは水位表を読み上げた。
「夜明け前に門を三分だけ開ければ、下流の取水路へ必要量を送れます。ただし橋の下に詰まった流木を先に除かないと危険です」
「なら、流木を取ろう」
「水中での作業は命懸けです」
俺が川へ飛び込もうとすると、聖剣が鞘の中で抗議した。
『待て。
お前が水に入る前に、綱を結べ! 勇者の死因が作業手順違反では格好がつかん!』
吉岡が慣れた手つきで腰に命綱を結んだ。
「社長、今回は聖剣の意見が正しいです」
川の水は思った以上に冷たかった。
流木は一本ではなく、何本も橋脚に絡んでいた。
俺が剣で枝を落とし、岸の作業員が綱で引く。
三本目を引き上げたところで、上流の製粉業者が川に入ってきた。
「自分の水車だけ守ってる場合じゃなさそうだ」
農家の若者も続いた。
作業が終わるころ、空は薄紫に変わっていた。
リオが操作盤の前に立つ。
「最初の開度、五分の一。水位を見ながら十秒ずつ調整します」
俺は彼女の横に立った。
「責任を一人で背負うな。記録係は吉岡、避難の合図は俺が受け持つ」
鉄鎖が軋み、水が白く泡立った。
下流の子供たちが歓声を上げかけたが、リオは手を上げて制した。
「まだです。橋の水位が安定するまで待って」
十分後、最初の水が取水路に入った。
老婆は苗を抱えたまま、地面に膝をついた。
「間に合った……」
だが、製粉業者が不安そうに尋ねた。
「明日も同じだけ流すのか?」
「同じではない」とリオ。
「雨量と貯水量を見て毎朝決めます」
エリナは全員が見える掲示板に、測定値と配水の順番を書いた。
「水の使用料は設備の維持費として計算します。水そのものを財団が売ることは認めません。異議がある人は、ここに理由を書いてください」
製粉業者はしばらく考え、筆を取った。
『水車が止まる時間は前日に知らせてほしい』
老婆もその下に書いた。
『飲み水は最優先にしてほしい』
「ほら、交渉になった」と俺は言葉を選んだ。
リオは初めて小さく笑った。
「剣を使うより、時間がかかりますね」
「でも明日も使える仕組みになる」
帰り際、吉岡が財団の新しい通知を持ってきた。
水門の管理料を払わなければ、操作技師の契約を解除するという。
リオは通知を読み、顔を上げた。
「私の契約なら、私が争います。水を止めた手で、今度は開けたんですから」
昼過ぎ、下流の橋を管理する老人が訪ねてきた。
「水を流してくれたのはありがたい。だが橋が壊れたら、村の子供は学校へ通えなくなる」
リオは記録表を見せた。
「橋脚の振動は許容値内です。ですが雨が降れば条件が変わります」
「許容値ってのは、壊れないという意味かね」
「絶対ではありません」
老人は顔をしかめた。
俺も同じ顔をしていたと思う。
「だったら、壊れたときに誰が直すかまで決めよう」と俺は言った。
エリナは維持費の分担案を作った。
上流の製粉業者、下流の農家、通行する荷車の組合。
使う人が少しずつ負担し、支出は毎月公開する。
「また金を取るのか!」と農家が声を上げた。
「水の値段じゃない。橋を直すための費用だ」と俺。
「区別がつかん」
「区別できるように帳簿を分けるんだ」
製粉業者が手を挙げた。
「うちは粉の運搬に橋を使う。修理費の一部を払う。ただし、水門を閉める時間は守ってほしい」
老婆は苗を見下ろしてから言った。
「雨が降るまでは、飲み水だけは切らさないでおくれ」
全員が満足する約束は作れなかった。
けれど、全員が確認できる約束なら作れた。
リオは操作室の鍵を腰に戻した。
「今までは命令書に従うだけでした。これからは、数字の意味を説明しなければなりませんね」
「嫌か?」
「怖いです。でも、閉じた門の向こうに人がいると知った以上、知らないふりはできません」
夕暮れ、取水路の水面に空が映った。
朝は空だった桶を子供が満たし、重そうに抱えて帰っていく。
俺は手を貸そうとしたが、子供は笑って首を振った。
「自分で運べるよ。明日も水が来るなら」
その言葉を守るための仕事が、ようやく始まった。




