■第六十一話 港を買い占めた灰冠財団が、船一隻に通行料を百枚要求した
港ノルドに着いたとき、桟橋に並んだ船の帆は一枚も上がっていなかった。
潮風だけが倉庫の戸を鳴らし、荷車の馬は積み荷を下ろせず鼻を鳴らしている。
「一隻につき通行料百枚だって?」
俺が港の掲示板を読むと、荷役夫が吐き捨てた。
「百枚あれば俺たちの給金を何日払えると思ってるんです。船長は港に入れない。漁師は魚を腐らせる。財団だけが紙切れ一枚で儲けている」
掲示の下には灰冠財団の印章があった。
港の倉庫を買い集めた財団は、航路まで自分のものだと言い張っている。
「航路に門でもあるのか?」
「ありません。だから怖いんです。支払わない船の荷は、どの倉庫も受け取らない契約にされている」
吉岡は帳簿をめくった。
「倉庫使用契約と入港権を抱き合わせています。船を止めているのは海ではなく書類です」
エリナは荷役夫の家族が待つ炊き出し場を見た。
「ここで値下げを約束する前に、誰が何を所有しているのか確認しましょう。誤った約束は、この人たちを二度苦しめます」
俺は桟橋の端に立った。
沖合には、荷を積んだまま動けない船が三隻。
船員が手を振っている。
「よし。最初に船長と倉庫の人間を同じ場所に集める。百枚を払うかどうかは、そのあとだ」
「社長、財団の使者も来ています」と吉岡。
「ちょうどいい。値札を貼った本人の前で話そう」
桟橋の端で、漁師の老人が魚籠を開けた。
朝に揚げた魚は、もう目が白く濁っている。
「百枚払えば通れる。だが、払う金を作るために売る魚が腐る」
俺は通行料の掲示を写し取り、港の所有権と荷役の利用契約を別々に調べるよう吉岡に頼んだ。
港を所有することと、そこで働く人間の一日まで所有することは違う。
老人は籠を閉じず、俺たちの返事を待っていた。
港で待つ荷車の列は、地図の上では一本の線にすぎなかった。
だが実際には、薬を運ぶ者も、家族への手紙を届ける者もいる。
俺は港の契約書に、緊急物資の通行を止めない条項があるか確かめた。
「通行料を徴収する根拠は、これです」
財団の使者が広げたのは、倉庫組合の共同管理契約だった。
契約書の末尾には、港の施設を利用する船に対し「維持協力金」を請求できるとある。
「百枚という数字はどこから出た?」
「施設の維持費です」
「去年の維持費は?」
使者は答えない。
吉岡が横から別の帳簿を差し出した。
「去年の桟橋修繕費は銀貨二千四百枚。入港した船は三百隻です。一隻八枚で足ります」
「警備費も必要だ」
「警備員は何人だ?」
「十二人です」
「今朝、俺が数えたのは二人だったぞ」
使者の眉が動いた。
そこへ、船長のベルトが濡れた帽子を握りしめて入ってきた。
「俺の船には薬草が積んである。荷を下ろせなければ、北の診療所は明後日から薬が切れる」
荷役夫の親方マーレンが腕を組む。
「だが倉庫を勝手に使えば、組合が財団に違約金を払う。俺たちを正義の味方に仕立てて、借金だけ残す気か?」
「それはしない」
俺は机の上に地図を広げた。
古い石造りの荷揚げ場が、倉庫群から少し離れたところにある。
「ここは?」
「昔の漁師の共同桟橋です。今は使われていません」
「所有者は?」
「漁師組合。財団ではありません。ただし潮が引くと船底がつかえます」
リオという若い測量士が、地図に指を置いた。
「満潮の二時間だけなら、小型船が横付けできます。薬草は小舟に積み替えれば」
「小舟は何隻必要だ?」
「六隻です。でも積み替え中に雨が降れば商品が傷みます」
「雨除けの布は俺たちが出す」と荷役夫の一人が言った。
親方は唇を噛んだ。
「俺の組合員に、財団との契約を破らせるつもりか」
「違う。共同桟橋は別の所有者だ。そこで仕事をする人には、別の契約と賃金を用意する。無理に参加させない」
俺は財団の使者へ向き直った。
「こちらは薬を運ぶ。そちらが止めたいなら、どの権利で止めるのか書面で示してくれ」
「訴訟になりますよ」
「だったら裁判所で話そう。病人を待たせる理由にはならない」
使者は紙をたたんだが、帰ろうとはしなかった。
「共同桟橋の修繕費を誰が払うのです?」
「利用した船から実費を取る。使途は公開する。君の会社にも同じ条件で使わせる」
「敵にもですか」
「港は敵を作る場所じゃない。荷物を下ろす場所だろ」
満潮まで一時間。
漁師たちは小舟を引き出し、荷役夫たちは濡れた板に砂を撒いた。
俺も薬草の箱を運んだが、三箱目で腰が悲鳴を上げた。
「勇者様、剣より箱の方が重いんですか」
「剣は勝手に文句を言うけど、箱は言わないからな」
聖剣が鞘の中で怒鳴った。
『聞こえているぞ!』
最初の小舟が岸へ戻ると、診療所の使いが駆け寄った。
箱を抱えて何度も頭を下げる。
親方はその様子を見て、組合員に言った。
「明日も満潮を使う。今日の仕事代は必ず帳簿に残せ」
「百枚の通行料は?」
「払わない。ただし桟橋の修理代は払う。俺たちの仕事場だからな」
夕方、エリナが二枚の掲示を港に貼った。
一枚は実際にかかった費用、もう一枚は財団との係争点だ。
「これで解決ですか?」と吉岡。
「まだだ。大きな船は共同桟橋に入れない」
俺は沖に残る船影を見た。
財団が押さえたのは倉庫だけではない。
港の仕事を止めれば、食料も薬も人質になる。
「次は、あの契約を分ける。倉庫を借りることと、海を通ることは別だって、皆が分かる形にするんだ」
親方が苦笑した。
「剣で切れないものを切る気ですか」
「切れるかどうかは、明日試す」
翌朝、財団は港の門に新しい札を掛けた。
『共同桟橋を利用した船の貨物は、当財団の倉庫で取り扱わない』。
「仕返しが早いな」と俺が言うと、マーレンは苦笑した。
「向こうは書類を書くのが仕事ですから。こっちは箱を運ぶのが仕事だ」
だが、倉庫を使えなければ、雨の日の荷は行き場を失う。
漁師組合の会館を一時保管所に借りる案を出すと、組合長は首を振った。
「魚の競りをする場所がなくなる」
「なら半分だけ」
「半分だと、魚の臭いが薬草に移る」
俺は返す言葉を探した。
正しい目的でも、現場を知らなければ迷惑を増やすだけだ。
そこへベルト船長が、船の帆布を広げた。
「うちの甲板に仮設の屋根を作ろう。船を浮かべたまま荷を仕分ければ、会館を塞がずに済む」
「揺れるぞ」
「それが船ってもんだ」
吉岡は作業手順を書き出した。
滑り止めの板、荷の重さの上限、悪天候時の中止基準。
俺が「根性で運べば」と口を挟むと、三人から同時に睨まれた。
「社長、根性は安全装備ではありません」
その日の夕方、財団の使者がもう一度現れた。
掲示された実費表を見て、彼は長く黙っていた。
「うちの倉庫も、利用料を公開した方がいいのでしょうか」
「俺に聞くな。利用する人に聞いてくれ」
「それが一番怖いんです」
「だったら、そこから始めよう」
港の問題は終わっていない。
それでも、止まっていた船が一隻動いた。
その小さな変化を、誰も勝利と呼ばなかった。
皆、明日の荷を数えるのに忙しかったからだ。




