■第五十六話 公開買付けの値段が高すぎて、味方の株主まで揺れ始めた
翌朝、魔界証券取引所の鐘が三度鳴った。
【黒曜投資組合、魔王軍株式会社株式を市場価格の一・七倍に買付価格を引き上げ】
【買付予定数量、発行済み株式の二十五パーセント】
「一・七倍!?」
俺は新聞を裏返した。
裏面も同じ見出しだった。
「新聞まで二倍にするな!」
「社長、まず落ち着いてください」
エリナは買付書類を机に広げた。
「高値で買う理由は議決権です。二十五パーセントを取得すれば、既存株主との連携次第で経営方針に大きく影響します」
「じゃあ俺たちも二倍で買えば?」
「資金はどこから出すんですか」
「……聖剣を質に入れる」
『断固反対します!』
「お前、金になるのか?」
『伝説の価値は無限です!』
「現金は?」
『ありません!』
「使えない伝説だな!」
持株会の会合は、いつもの食堂では収まらなかった。
オークのグラムが立ち上がる。
「社長。俺は会社を信じてる。でも、この値段なら家の屋根を直せる」
別のゴブリンが声を張った。
「娘の学校の入学金が払えるんです!」
「私も売りたい。夫の治療費が必要なの」
俺は壇上で口を閉じた。
彼らの前で『売るな』と言うのは簡単だ。
だが、それは会社のために家族を後回しにしろと言うのと同じだった。
「売るなとは言わない」
会場がざわついた。
「ただ、買った後に何が起きるかは調べる。みんなが判断できるように」
「社長が止めてくれると思ったのに!」
「止めたい。でも、俺がみんなの財布を取り上げる権利はない」
エリナが黒板に二本の線を引いた。
「売却して得られるお金は確定額です。一方、保有を続けた場合の価値は変動します。どちらにも危険があります」
「じゃあ正解は?」
「正解を他人に決めさせないことです」
エリナは売却期限と決済日を黒板に記した。
「今日決める必要はありません。書類を持ち帰り、家族と話してください」
グラムは屋根の修繕見積もりを握り直した。
「分かった。値段だけじゃなく、いつ金が入るかも見る」
エリナは緊急取締役会を開いた。
「対抗買付けを行うには資金が足りません。借金を増やせば、医療事業と物流事業に影響します」
ガンドルが拳を机に置いた。
「工場の賃金を削って株を買うなら、俺は反対だ」
「俺もだ」と答えた。
「じゃあ何もしないのか?」
吉岡が手を挙げる。
「買付者へ追加質問状を提出し、回答を全株主へ公開できます。また、独立した立場の専門家に条件を評価してもらうことも可能です」
「専門家って誰だ?」
「かつて魔王様の無謀な買い物を止めた会計監査人です」
「そんな英雄がいるのか!」
「三名おりましたが、二名は胃痛で退職しました」
「残り一名を大事にしろ!」
会議は正午前まで続いた。
最終的に、会社は買付条件の評価書を公開し、事業の現状と将来計画を説明することにした。
買付けに応じる社員を不利益に扱わないことも、改めて確認した。
「社員の忠誠心を試すな」と俺は言葉を選んだ。
「試されているのは、俺たちの経営だ」
午後、株主相談窓口に一人のゴブリン女性がやってきた。
「父の薬代が必要です。株を売れば今日お金になりますか」
エリナは申込書を指した。
「買付けの成立と決済まで時間がかかります。今日の現金にはなりません」
「そんな……」
俺は医療部門の相談窓口を案内した。
株を売るかどうかに関係なく、治療費の支払いを相談できる制度がある。
「売るなと言わないんですか」
「言わない。でも条件を知らずに売ってほしくもない」
女性が帰ると、吉岡に頼んで説明書を直した。
値段だけでなく、支払日と取消条件も大きく書く。
株主が判断するための時間まで、誰かに買い叩かせたくなかった。
相談窓口の閉まるころ、グラムが妻と並んで来た。
手には修繕見積書と買付申込書がある。
「半分だけ応募します。残りは持っておく」
「俺に遠慮してないか?」
「違います。屋根を直す金は必要だ。でも、工場で働く息子の将来まで今日売りたくはない」
妻が口を挟んだ。
「私は全部売ろうと言ったんです。雨の日に鍋を並べるのは、もう嫌ですから」
「そりゃそうだ」
「でも、修理屋さんが支払日を待ってくれると分かって、二人で考え直しました。買付けが成立しなかったときのことも」
エリナは申込書の期限を指で確かめた。
「この決断はお二人のものです。会社は応募した人にも、残した人にも同じ説明を続けます」
「社長、俺たちの株で会社が傾いたら……」
「それを株主一人に背負わせるな。経営するのは俺たちの仕事だ」
グラムは肩の力を抜いた。
妻は書類を畳み、修繕見積書を上に重ねた。
その後、吉岡が持株会の集計を持ってきた。
応募を決めた者、保有を続ける者、まだ迷う者。
人数はどれも無視できない。
「社長、これでは味方が割れてしまいます」
「違う。みんな自分の暮らしを守ろうとしてるんだ」
「では、買収にどう対抗します?」
「相手が何を買うつもりか、答えさせる。病院も学校の馬車も『非中核事業』の一言で消せるのかってな」
俺は質問状に署名した。
買付けを妨害するためではない。
選ぶための情報を、全員に渡すためだ。
グラム夫妻の選択は、会社への賛否ではなかった。
修繕費を確保し、残した株で息子の働く工場を見守る。
その二つを同時に選んだのだ。
俺は応募数を数える手を止め、株主向けの説明文から「会社を信じる者」という言葉を消した。
信じるかどうかで、暮らしの事情を裁きたくなかった。
夕刻、黒曜投資組合から買付条件の回答書が届いた。
【経営効率の最大化】
【非中核事業の整理】
【人的資源の最適配置】
「それで、病院は残るのか?」
エリナは回答書を裏返した。
「具体的な事業計画はありません。買付け後に判断するとだけ書かれています」
「だったら、その回答も全株主に公開しよう」
「黒曜側が嫌がりますよ」と吉岡。
「事実を並べるだけだ。売る人にも、残す人にも同じ情報が必要だろ」
エリナは公開資料の末尾に、回答が得られなかった項目を赤字で記した。
病院の運営、学校の送迎、鉱山の安全検査。
空欄は、相手がまだ約束していないことの証拠だった。
「それじゃ、売る人だって何を選ぶか分からない」
吉岡が送金記録の写しを広げた。
「もう一つあります。北方鉱山の関連会社から、黒曜への資金移動が疑われています。ただし取引の目的は未確認です」
「鉱山は閉鎖されていたはずだろ?」
「帳簿上は休業中です。現金の出入りを確かめる必要があります」
俺は調査担当に原本の保全を頼んだ。
証拠のない告発で株主を混乱させるわけにはいかない。
そのとき、扉の隙間から元魔王ゼルガディスが顔を出した。
「勇者。仲介人というのは、契約を結んだ後でも正体を隠せるものなのか?」
「……何の話だ?」
「いや、一般論だ」
エリナの目が細くなった。
「ゼルガディス様。どなたと、どのような契約を?」
「我は何も隠しておらぬ。ただ、少し……書類が長かった」
「何枚ですか」
「三冊だ」
「枚数を聞いてるんだよ!」
ゼルガディスは答えず、外套の奥に黒い封筒を押し込んだ。
聖剣が震える。
『社長、あれは斬ってよい封筒ですか?』
「斬るな。まず中身を見せてもらう」
だが元魔王は、返事をする前に姿を消した。
俺は消えた元魔王の背中を見送り、封筒の色だけを覚えておいた。
黒曜の買付書類と同じ、光を吸うような黒だった。




