■第四十九話 王国最大の商会長が、勇者に最後の契約書を差し出した
「これが最後の提案です」
王国最大の商会長グレゴールは、分厚い契約書を机に置いた。
最後と言われると、つい身構える。
かつて俺はこの男と価格競争をし、取引停止を食らい、国境の門で薬を通すために協力した。
今日は王都の小さな会議室で向かい合っている。
「共同検査所の運営権を、我が商会に独占させていただきたい」
「独占?」
エリナが契約書を開く。
「手数料の決定権、検査官の任命権、倉庫の利用権……全部ですね」
「責任を一社に集めた方が早い」
「その一社が値上げしたら?」
グレゴールは答えなかった。
俺は窓の外を見た。
通りには魔界から届いた石鹸を売る露店と、王国の小麦を積んだ荷車が並んでいる。
あの荷車の一台一台に、働く人間がいる。
「契約書を斬るつもりなら、剣は置いてきてください」
エリナが先回りした。
「俺がいつ斬った!」
『前回は封筒を斬ろうとなさいました』
鞘の聖剣まで余計なことを言う。
「独占は認められません」
俺が言うと、グレゴールの眉が動いた。
「理由を聞きましょう」
「昨日の国境で、あなたは病院に薬を届けるために動いてくれた。そのことは感謝しています。でも、誰か一人が門の鍵を持つ仕組みは作りたくない」
「信用できないと?」
「信用してるからこそ、会社が変わっても続く制度にしたいんです」
グレゴールは椅子に深く座った。
「君は商売が下手だな。競争相手を減らす機会を捨てるとは」
「昔、戦争相手を減らすために剣を振ってたんです。結果、敵は増えました」
「勇者らしくない答えだ」
「社長らしい答えだと思ってください」
そのとき扉が開いた。
小柄なパン屋の女主人ベラが、粉のついた前掛けのまま入ってきた。
「お呼びだと聞いて来ましたが、何ですか」
グレゴールが顔をしかめる。
「なぜ町のパン屋がここに?」
「小規模事業者の代表です」
エリナが答えた。
「検査所の手数料が上がったとき、最初に困る人です」
ベラは机の契約書を見た。
「また大商会だけが通れる門を作るんですか」
「効率の問題だ」
「効率なら、うちの店は先月、仕入れを三回も止められました。小麦が届く日が読めなくて、パン生地を捨てたんです」
「それは国境閉鎖のせいだ」
「閉鎖を決めた人も、通す順番を決めた人も、私には同じ門の向こうです」
グレゴールが黙る。
俺は思った。
帳簿では見えない損失が、ここにある。
エリナは白紙を取り出した。
「代案を出します。検査所は共同組合方式。王国商会、魔界の運送会社、小規模商人、それぞれから理事を出す。手数料は公開し、値上げには複数の賛成が必要です」
「遅い。そんな会議をしている間に荷が腐る」
グレゴールの指摘は正しかった。
「緊急時は現場責任者が優先通行を判断できます。ただし、後で記録を監査します」
「責任者は誰だ」
「最初の三か月は、あなたの商会から人を出してほしい」
グレゴールが顔を上げた。
「独占は認めず、面倒な責任だけ押し付けるのか」
「経験があるからです。あなたは昨日、兵士と交渉して荷を通した。俺たちより現場を知っている」
「おだてても安くはならんぞ」
「報酬は適正に払います」
「適正という言葉ほど曖昧なものはない」
「なら、エリナに計算してもらいましょう」
エリナはすでに計算を始めていた。
「検査官の給与、設備維持費、監査費用。三か月の試算はこちらです」
グレゴールが紙を受け取り、目を細める。
「利益率が低い」
「公共性の高い仕事ですから」
「商人に慈善を求めるのか」
「いいえ。確実に続く仕事を頼んでいます」
グレゴールはしばらく無言で数字を追った。
午後、試験的な検査が行われた。
契約書の最後の頁には、解約時の責任が細かく並んでいた。
俺は署名欄を見つめ、すぐにはペンを取らなかった。
最初の荷は、王国の農家が魔界へ送る小麦袋だった。
次が魔界の工房から届いた医療器具。
検査官は一つ目の袋を開け、書類と重さを比べた。
「重量が合わない」
農家の青年が青ざめる。
「そんなはずは……」
ベラが袋の底を指差した。
「湿気を吸ってる。朝から雨だったでしょう」
グレゴールは袋の口をつまみ、匂いを嗅いだ。
「水濡れだ。密封が甘い。検査で止めるべきだが、違反ではない」
「どうする?」
俺が聞くと、グレゴールは青年に言った。
「倉庫の乾燥室を使え。費用は帳簿に載せる。次からは二重袋にしろ」
青年が何度も頭を下げる。
次の医療器具は、書類の品名が一文字違っていた。
「これは止めます」
検査官が宣言する。
エリナが確認した。
「同じ規格の別名ですね。製造元の証明書を照合しましょう」
グレゴールは腕を組んだ。
「甘くするな。だが、間違いを直す手段は用意しろ」
初日の検査は予定より二時間長引いた。
それでも、荷は一台も没収されなかった。
契約書の最後の頁には、検査に失敗した商品の損害を誰が負担するかが書かれていなかった。
「ここを空白にしたまま署名はできません」とエリナ。
グレゴールは眉をひそめた。
「交渉を最初からやり直す気か」
俺は国境で足止めされた薬箱を思い出した。
「また誰かが困るくらいなら、今日一日遅らせよう」
沈黙の後、グレゴールは自分の筆で責任分担の条項を書き足した。
「商人としては痛いが、約束としては正しい」
商会長が差し出した契約書には、利益配分が細かく書かれていた。
だが被害を受けた村の名前は一つもない。
「ここに救済の項目を入れてくれ」
商会長は眉をひそめた。
「交渉が長引くぞ」
「それでも必要だ」
「いいんですか」
「独占できる門は、いつか別の誰かに奪われる。今日の仕組みなら、私が退いても商売は続く」
ベラが腕を組む。
「その代わり、うちみたいな小さい店の話も聞いてくださいよ」
「毎回聞かされるのは困る」
「毎回困らせないでください」
グレゴールは初めて声を出して笑った。
契約書の最後に、共同検査所の試験運営について署名が並んだ。
グレゴール、ベラ、魔界側の運送組合代表、そして俺。
「戦争が終わったら、商売も終わると思っていました」
グレゴールがぽつりと言った。
「敵に売らないことで儲けていた時代は、確かにありましたから」
「これからは、売って儲けてください」
「簡単に言うな」
「難しい方が、商人の腕の見せどころでしょう」
彼は署名した紙を差し出した。
「最後の契約書だ。少なくとも、戦争を理由にした契約はな」
俺は握手した。
剣で勝ったときより、ずっと手が重かった。
その夜、エリナが新しい決算見込みを見せた。
「交易が続けば、今年の営業利益は目標に届く可能性があります」
「じゃあ次は、数字で戦争を終わらせる番か」
『やはり私の出番はありませんね』
聖剣が寂しそうに鳴った。
「お前は平和の証拠として、しばらく休んでろ」
食卓には、昨日まで敵だった村から届いたパンが置かれた。
ボルドは黙って切り分け、皆に同じ大きさで配った。
ベラは荷車に積んだパンを一つ俺に差し出した。
「契約書は食べられないけど、これなら食べられる」
俺は受け取りかけ、後ろの荷運び人に渡した。
「最初の一つは、道を開けた人に」
ベラは鼻を鳴らして笑った。
商会長の提示した数字は魅力的だった。
だが契約の末尾には、仕入れ先を一社に限定する条項がある。
俺が指摘すると、彼は初めて笑みを消した。
「値段だけ見ていると思ったか」
俺は首を振った。
「その先で困る村の顔まで見る」
最後の契約書には、取引停止時の補償条項があった。
商会長はそこだけを指で隠したが、エリナは見逃さなかった。
「相手を負かす契約より、次も取引できる契約を」
俺たちは違約金を減らす代わりに、供給量の公開を条件にした。
夕暮れ、会議室に戻ったグレゴールは、自分の契約書を破らずに畳んだ。
「独占条項は撤回します」
「では、契約の名称も変えましょう」
エリナが赤いインクで表題を書き直した。
【共同通行検査所・試験運営契約】
その文字を見て、ベラがようやく前掛けの粉を払った。
「明日、パンを運べるのね」
「試験運営の条件を満たせばな」とエリナ。
俺は頷いた。
勝ったのは商会でも魔王軍でもない。
道を使う人が、自分の商売を続けられる可能性だった。
「じゃあ最初の荷車は、俺が見届ける」
聖剣が鞘の中で鳴った。
『護衛ですか』
「いや、荷下ろしだ」




