■第四十一話 王国の国王が魔王城に視察に来たら、社員食堂から帰らなくなった
「国王陛下が行方不明です!」
吉岡が駆け込んできた。
「誘拐か?」
「いいえ。社員食堂の二番テーブルです」
「……何だって?」
人間王国の国王アルフォンスが魔王城を視察する日だった。
工場の見学を終えた陛下は、警護隊を振り切って昼食を取り、そのまま椅子から動かなくなったという。
食堂へ走ると、王冠を脇に置いた国王が、山盛りの煮込みを前に笑っていた。
「勇者ジーク! この料理を作った者を呼べ!」
「毒でも入っていましたか?」
「おかわりを頼みたい」
厨房のボルドが胸を張った。
「牛すじと根菜を朝から煮た。肉は安い部位だが、時間をかければ旨くなる」
「宮廷では肉の産地と皿の値段ばかり聞かされる。ここの料理は温かい」
王国の護衛隊長は顔面蒼白だった。
「陛下! 午後には大臣との会議が!」
「ここで開けばよかろう」
「国家機密が煮込みの隣に置けますか!」
「煮込みは機密より大切だ」
「陛下ぁ!」
俺は頭を抱えた。
元魔王ゼルガディスが隣でうなずいている。
「分かるぞ。余も玉座より食堂の椅子が好きだ」
「お前は毎日いるだろう!」
ところが騒動は笑い話で終わらなかった。
午後の仕込みに入った食堂で、警護兵が出入り口を塞いだのだ。
「食事の列が止まっています」
配膳係の元兵士が小声で言う。
「陛下を急かすわけにはいきません。でも、夜勤組は時間がないんです」
長い列の最後には、工場の作業着を着た小柄なゴブリンがいた。
彼の皿はまだ空だった。
俺は国王に向き直った。
「陛下。ここは王宮ではありません。十二万人が働く会社の食堂です」
「承知している」
「でしたら、まず列を空けてください」
護衛隊長が息をのむ。
国王は俺の顔をじっと見て、それから立ち上がった。
「そうか。私が邪魔をしていたのだな」
「はい。料理は逃げませんが、休憩時間は逃げます」
国王は王冠を持ち、食堂の隅へ移動した。
護衛たちも慌てて道を開ける。
「すまなかった。並んでいた者たちよ、先に食べてくれ」
作業員たちは互いに顔を見合わせた。
誰も国王に礼を言わせた経験などない。
そのとき、ボルドが鍋を叩いた。
「冷めるぞ! 王様でも社員でも、飯は熱いうちだ!」
食堂に笑いが広がった。
俺は国王に当番表を差し出した。
「料理人の休憩を削れば、明日の煮込みは作れません」国王は署名する手を止めた。
「王宮の厨房も調べよう。料理人の休みを、視察報告に書き加えてくれ」
その日の夕方、アルフォンスは視察報告書に署名する前に、厨房を見せてほしいと言った。
「特別な食材は使っていないのだな」
「はい。売れ残りの野菜も使います。ただし、傷んだものは使いません」とボルド。
「王宮の食費は、ここの何倍もかかっている」
「王宮の料理人が悪いわけじゃない。献立を決める人間が、食べる人間の顔を見ていないんです」
国王は黙り込んだ。
厨房の奥には、洗い場を担当する人間の女性と、食器を運ぶオークがいた。
かつて戦場で敵同士だった二人が、皿の欠けを確かめながら仕事をしている。
「戦争が終わったと言うのは簡単だ」
アルフォンスがつぶやいた。
「だが、同じ鍋から食べられるようになるまでには時間がかかるのだな」
俺は答えず、目の前の書類をもう一度見た。
「それでも、昼飯は毎日あります。仲良くなる機会も毎日ある」
「勇者らしくない言葉だ」
「最近はよく言われます」
陛下はもう一度食堂を見渡した。
「王国にも、こういう食堂を作れるだろうか」
「作れます。でも王様が毎日居座ったら、また列が止まりますよ」
「ならば私も列に並ぼう」
「本当に?」
「王が並んではいけない法律はない」
ゼルガディスが手を挙げた。
「では余も次から並ぶ」
「お前は先週から割り込んでるだろ!」
「元魔王特別枠だ」
「そんな枠は廃止だ!」
エリナが即座に帳簿を開いた。
「廃止済みです。三か月前から」
「聞いておらんぞ!」
「通知しました。読んでいないだけです」
元魔王が静かに肩を落とす横で、国王は声を上げて笑った。
国王が席を立つ前に、俺は厨房の裏へ案内した。
豪華な食堂の表側とは違い、そこには洗い終えた鍋が山積みになっている。
「陛下。これが今日の献立を作った場所です」
「ずいぶん狭いな」
「城の食堂だから広いと思ったでしょう。増築の予算がまだ通っていません」
ボルドは大鍋の焦げをこすりながら、国王を見上げた。
「厨房を広げるなら、先に水場を直してくれ。冬場は水を運ぶだけで腰を痛める」
「余の宮廷なら、厨房長が大臣に申し立てる」
「申し立てても、大臣は鍋を持たないでしょう」
国王は返事をしなかった。
護衛隊長も口をつぐんだ。
そこへ配膳係の少女が戻ってきた。
腕に包帯を巻いている。
「怪我か?」
「皿を落としたときに少し。休めば治ります」
「休んでいい」と俺が言うと、少女はためらった。
「でも、今日のお客さんは多いから……」
国王は自分の皿を見た。
おかわりを三度頼んだ本人である。
「余が仕事を増やしたのか」
「ええ。大変な上客です」とボルド。
護衛隊長が剣の柄に手をかけた。
「陛下に無礼な!」
「剣を抜くなら、まず芋の皮をむいてくれ」とボルド。
護衛隊長は本当に皮むき用の小刀を渡され、途方に暮れた。
国王は声を上げて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「宮廷の食堂でも、同じことが起きているのだろうな」
「たぶんな。偉い人ほど、料理が皿に乗るまでの時間を知らない」と俺。
国王は配膳係に頭を下げた。
「今日の余の食事は、そなたたちの働きでできていた。礼を言う」
少女は驚いて包帯の手を背中に隠した。
「そ、それなら次は予約をしてください。人数が分かれば準備できます」
「国王に予約を要求するとは!」
「食堂では全員、お客さんです」とボルド。
「よい。次は予約する。護衛も含めて人数を知らせよう」
俺はその約束を吉岡に書き取らせた。
国王の言葉は立派でも、忘れられれば現場はまた振り回される。
「書類にするのか?」と国王。
「ええ。うちの会社では、偉い人の思いつきほど記録に残します」
「勇者というのは恐ろしい職業だな」
「今は社長です。もっと恐ろしいですよ」
王国の護衛隊長は厨房の水運びを見て眉をひそめた。
「王国の補給隊なら運搬用の台車があります。ただし軍用品です」
俺は吉岡を呼んだ。
「民間向けに貸し出す仕組みを検討できるか?」
隊長は驚いた顔で国王を見た。
アルフォンスはうなずく。
「武器ではなく台車を国境の向こうへ送るのなら、議論する価値がある」
初めての共同事業が、食堂の水桶から始まるかもしれなかった。
食堂の隅で、王国の護衛兵が皿を前に立ち尽くしていた。
「毒見役が先です」と言う彼に、ボルドは自分の椀から同じ鍋の煮込みをすくった。
「俺は毎日食ってる。疑うなら厨房を見てくれ」
兵士は鍋のそばに立ち、魔族の調理人が人間の子ども用に香辛料を減らしているのを見た。
「陛下に出す前に、俺にも一杯ください」
食べ終えた兵士は、ようやく槍を壁に立てかけた。
厨房の隅で、若い料理人が国王の残した食器を持ったまま立っていた。
「王様が食べた皿でも、洗うのは俺たちですね」
俺は袖をまくった。
「なら、今日は社長も洗う」
国王の視察で変わるべきなのは、偉い人の感想だけじゃない。
国王が食堂の献立を褒める横で、厨房の見習いが震えていた。
王国軍に村を焼かれた過去があるという。
俺は彼女に接客を強いなかった。
「陛下。食堂が同じでも、昨日までのことが消えるわけじゃありません」
アルフォンスは椀を置いた。
「名前を聞いてもよいか」
見習いは首を横に振った。
国王はそれ以上尋ねず、護衛隊長に命じた。
「被害を受けた村の記録を持ってこい。賠償の窓口を作る。彼女が話したくなったときに、話せる場所を」
「約束だけなら、誰でもできます」と俺。
「ならば、次に来るときは進捗を持参しよう」
見習いはまだ国王を見なかった。
それでも、震える手で次の皿を洗い始めた。
王宮に戻った国王は、翌週、本当に共同食堂の試験計画を送ってきた。
ただし費用は王国が持ち、魔王軍は調理技術を教えるだけだという。
「陛下が全部払うのか?」
「国民の税金です。だからこそ予算を公開すると書いてあります」とエリナ。
俺は返信に一行加えた。
『料理人の休みを先に決めてください』。
国王から返ってきた返事は短かった。
『承知した。
私の昼休みも確保したい』。
帰国の時間になっても、アルフォンスは名残惜しそうだった。
「ボルド。今日の煮込みの作り方を教えてくれ」
「教えるのはいいが、宮廷で作れるとは限らんぞ」
「なぜだ?」
「この鍋は大勢で食うための味だ。一人だけの皿に移したら、何かが足りなくなる」
国王はその意味を考え、ゆっくりとうなずいた。
「ならば王宮の料理人と、城下の食堂の者を一緒に呼ぼう」
「その前に、働く者の休憩時間を守ってください」と俺。
「分かった。約束しよう」
国王の馬車が門を出る。
ようやく静かになった食堂で、吉岡が書類を差し出した。
「社長。国王陛下から、正式な外交文書です」
「もうか?」
そこには一行だけ書かれていた。
『次回視察の際は、煮込みを大盛りでお願いしたい』
「外交文書を注文票にするな!」
その下に、小さな追伸があった。
『なお、王国の工場にも共同食堂を設け、運搬設備を共同研究する計画を検討する』
俺は笑いながら、追伸の方に丸をつけた。
剣で勝ち取った平和は、いつか剣で奪われるかもしれない。
でも、同じ食卓を囲んだ記憶は、案外しぶとく残るものだ。




