■第四話 魔界年金基金の理事長は、千年間ずっと老後を心配していた
そこは魔王城よりも恐ろしい場所だった。
巨大な建物。
無数の書類。
そして、廊下には骸骨の職員たちが並んでいた。
「……ここ、本当に魔界か?」
俺が呟くと、エリナが答えた。
「魔界最大の機関投資家です」
「……機関投資家?」
「大量の資金を運用する組織のことです」
「なるほど」
俺たちは最上階の理事長室へ案内された。
そこにいたのは、漆黒のローブをまとったリッチだった。
「よく来たな、勇者ジーク」
「……あんたが理事長か」
「いかにも」
リッチはゆっくり立ち上がった。
「我が名はボーン・グランデ。千二百年間、魔界年金基金を運用してきた者だ」
「千二百年!?」
「うむ」
「……年金、いつ受け取るんだ?」
「それが問題なのだ」
リッチは深いため息をついた。
「我々アンデッドには、寿命による給付終了がない」
「知ってる」
「したがって、年金の受給期間が無限なのだ」
「…………」
「現役時代の掛金と会社の拠出金を積み立てている。だが、退役後の定額給付を無期限に約束したせいで、運用益だけでは給付が追いつかん」
「……それ、制度が破綻してないか?」
「三百年前から、支給開始の条件と積立金の見直しを先送りしておる」
「長すぎるだろ!」
リッチは机を叩いた。
「だからこそ、安定した運用益が必要なのだ!」
俺はエリナを見た。
エリナは冷静に資料を取り出した。
「現在、魔王軍株式会社は軍事事業に依存しています」
「うむ」
「ですが、戦争は利益が不安定です」
「確かに」
「そこで、勇者ジークが経営権を取得した場合、軍事事業を段階的に縮小し、物流、農業、魔石発電、医療事業へ転換します」
リッチの眼窩に青い炎が灯った。
「……魔石発電?」
「はい。魔界には膨大な魔石資源があります」
エリナは説明を続けた。
「現在は軍事利用が中心ですが、民間向けに供給すれば安定収益が期待できます」
「……なるほど」
リッチは腕を組んだ。
「つまり、戦争をしなくても利益を得られると?」
「そのとおりです」
「しかし、勇者よ」
リッチは俺を見た。
「お前は魔王を倒すために来たのではないのか?」
「ああ」
「それなのに、魔王軍を儲けさせるのか?」
俺は答えた。
「魔王軍が戦争をしなくても儲かるなら、人間を襲う必要がなくなる」
沈黙。
リッチはしばらく俺を見つめていた。
そして……
「……面白い」
ゆっくり笑った。
「勇者が魔王軍の経営改革を提案するとはな」
エリナが尋ねた。
「では、株主総会でご協力いただけますか?」
「条件がある」
「何でしょう?」
「アンデッドの年金制度を改革してほしい」
「……年金制度?」
「うむ」
リッチは真剣な顔で言った。
「退役した者にも、安心できる暮らしが必要なのだ」
俺は我慢できずに叫んだ。
「だから、お前らいつ老後になるんだよ!」
リッチは静かに答えた。
「……それを千年間考えておる」
「まだ答えが出てないのか!」
理事長は改革案に関心を示したが、議決権を委ねるかどうかは、具体的な約束を確認してから決めるという。
魔王の持株比率は四十パーセント。
年金基金の二十パーセントを味方につけても、まだ足りない。
ただ、基金が抱える問題は、あの冗談よりずっと深刻だった。
年金基金の窓口で、若いスケルトンが番号札を握り潰していた。
「父はまだ働けます。でも退役したら、もう役に立たないと言われた」
理事長は給付額の表を指したが、俺はその手を止めた。
「金額の前に、本人の希望を聞いてくれ」
エリナは、退役者の希望を聞くための欄を台帳に設けるよう提案した。
永遠に生きる者に必要なのは、永遠に待たせる制度ではなかった。
「基金の金は理事長のものではありません」とエリナが釘を刺す。
ボーンは黙って加入者名簿を閉じた。
支持の条件を確認した後、俺たちは地下の保管庫へ案内された。
扉の前には、骨の指に結婚指輪をはめた老兵がいた。
「理事長。あの件は、まだ決まらないのですか」
「これは株主総会で誰を支持するかとは別の話だ。加入者のために、基金自身の権限でできることは今から始めよう」
ボーン・グランデはそう告げ、先ほどエリナが提案した欄を、基金が管理する年金台帳の隣に作らせた。
『次にやりたい仕事』。
千年も数字を記してきた帳簿に、初めて本人の希望が載った。
老兵は震える骨の指で「鍛冶」と書いた。
俺はその文字を見て、年金の利回りだけでは測れない利益があると知った。
廊下の掲示板には、退職した兵士の再就職先が手書きで貼られていた。
鍛冶屋、運送業、学校の用務員。
骸骨の老兵が一枚の紙を指さす。
「働きたいのに、面接で年齢を聞かれるんです。千二百歳と答えると、皆さん黙ってしまう」
俺は返す言葉を失った。
年金を支払うだけでは、老後の不安は消えない。
エリナは採用担当者向けの説明会を提案し、理事長は数字ではなく掲示板の前で頷いた。
さらに、年金台帳の受給資格を、退役者、再就職者、遺族、給付停止対象に分ける改革案を示した。
「不死者だから支給しない、でも働かせる。それでは制度が矛盾します」
俺は頷いた。
三百年前の規則を笑うのは簡単だ。
今ここで働く一人の明日を決めるのは、ずっと難しい。
理事長は議決権委任状の案を示し、条件として「新経営陣の発足から一年以内に、年金・再就職支援の改革案を提出すること」を書き込んだ。
正式な署名は、現場の課題を確かめてからだという。
永遠に生きるリッチが期限を切ったことに、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
理事長室の壁には、年金受給者の名簿が掛かっていた。
死亡欄が空白のままの者が多い。
「長命だから安心とは限らん」と理事長が言う。
「百年先に家賃が払えるか、毎晩考える者もおる」
俺は初めて、魔族の長い人生を羨ましいと思わなかった。
エリナは運用利回りの表の隣に、再就職支援の費用を一行加えた。
理事長はその一行を何度も見返した。
ボーン・グランデの青い眼火が揺れた。
「勇者殿にも聞いてもらおう。彼は四百年前、戦場で右腕を失った。死霊術で復帰したが、補償の判定が終わらん」
「四百年も?」
「審査官が百年ごとに交代して、引き継ぎ書が行方不明になるのだ」
「不死者なのに役所仕事で寿命を削られてる!」
老兵は笑わなかった。
指輪をそっと撫でる。
「妻は人間でした。もういません。金が欲しいわけではない。妻が残した診療費の借りを、墓の前で返したいのです」
俺は返す言葉を失った。
年金という数字の向こうには、こんな長い時間が積み重なっていた。
エリナは先ほどの改革案を開き、老兵の事情に当てはめた。
「働ける方と働けない方では、必要な支援が違います。この方には補償審査と再就職支援を並行して進めましょう」
「区別するのは差別ではないか」と理事長。
「状態の違う人に同じ給付を約束して、全員に払えなくなるほうが不公平です」
俺は老兵に聞いた。
「今、何が一番困る?」
「腕がなくて荷運びの仕事ができないことです。年金より先に、片腕でも働ける場所があれば」
理事長は椅子から立ち上がった。
「我々の投資先に義肢工房がある。だが軍需の注文しか受けておらん」
「そこを民間向けに変えよう。会社の仕事にもつながる」
エリナは首を振る。
「ただし、軍需の契約を一度に切れば工房の職人が失業します。切り替えには時間が必要です」
「……改革って、剣で敵を倒すより面倒だな」
「剣なら倒れた人の数を数えれば済みます。制度は、残る人の暮らしまで数えなければなりません」
その言葉を聞いた理事長は、古い年金台帳を開いた。
百年前に亡くなった加入者の欄に、いまだ給付が続いている印があった。
「この記録も直さねばなるまい」
「受け取っている人は?」
「口座の名義は、とうに閉鎖された墓地だ」
「墓地に送金してたのかよ!」
帳簿の数字が急に、誰にも届かない手紙の束に見えた。
「管理人が毎年、律儀に領収書を出すのでな」
エリナが額を押さえた。
「まず現物確認からですね」
理事長は初めて声を上げて笑った。
だが老兵の指輪を見たとき、その笑みを引っ込めた。
「勇者よ。そこまで約束するなら、基金の票は貸そう。ただし約束を忘れるな。わしらは死なぬが、待てるという意味ではない」
「分かった。まず百日以内に未処理案件を洗い出し、四百年前から止まっているこの件を優先して再審査にかける。すべての案件を百日で解決できるとは約束しないが、進捗は公開する」
理事長は委任状に署名した。
俺が差し出した手を、冷たい骨の指が握った。
剣を交えるより、ずっと重い握手だった。
地下金庫を出る前、老兵が言った。
「わしは支給日よりも、次の仕事の日を知りたい」
俺はエリナに頼んで義肢工房の住所を控えた。
理事長は『紹介状など千年ぶりだ』と笑いながら、自分の名で封をした。
約束はまだ実現していない。
だが初めて、帳簿の一行が一人の明日に変わる瞬間を見た。
次の交渉先は、十五パーセントの株式を持つ魔族従業員持株会だ。
だが、魔王軍の従業員たちは、魔王の経営に大きな不満を抱えていた。
その理由を、俺は次の交渉で思い知ることになる。




