■第三十八話 魔界のパンが王都で大人気になり、小麦の奪い合いが始まった
王都のパン屋の前に、長い行列ができていた。
パンの香りが広がる街で、原料の麦を誰が手にできるかが問題になっていた。
「最後尾はこちらです! 一人二個まで!」
店主のベラが叫ぶ。
窯からは甘い匂いが流れ、子供たちが背伸びをしていた。
「大繁盛じゃないか」
俺が声をかけると、ベラは粉だらけの手で俺の胸ぐらをつかんだ。
「社長! 繁盛してるのは今日までです!」
「なぜ俺の服をつかむ」
「小麦が来ないんですよ!」
王都の行列は長い。
だが、行列に並べない村の食卓まで見えているわけではない。
俺はベラと一緒に、小麦がどこから来るのか調べることにした。
裏口には空の粉袋が積まれていた。
昨日まで銀貨一枚だった小麦が、今日は三枚。
商人が王都の倉庫を押さえ、競り値を吊り上げているらしい。
「なら、魔界から運べば……」
「魔界の畑も、もう予約済みです」と吉岡。
「誰が?」
「当社の製パン部門です」
「犯人、身内か!」
魔王軍株式会社が始めた柔らかいパンは、固い黒パンに慣れた王都で大当たりした。
売上を伸ばそうと製パン部門が先物契約を結び、同じ会社の食堂が小麦を買えなくなったという。
「売上を伸ばすために社員を飢えさせる会社って何だよ!」
「会計上は別部門です」
「胃袋に部門はない!」
市場へ行くと、さらにひどい光景が待っていた。
パン屋の前で、母親が銅貨を数えている。
「昨日の値段なら、二つ買えたのに」
隣の子供が「一つでいいよ」と笑った。
腹の鳴る音だけが、笑顔を裏切っていた。
俺は王都商会の倉庫を訪ねた。
管理人は分厚い契約書を机に置く。
「買い占めではありません。先に契約しただけです」
「法律には違反していない、と」
「ええ。あなた方が教えてくれた商売の作法ですよ」
言い返せなかった。
魔王軍が市場に入ったことで、力のある者ほど先に押さえる仕組みを作ってしまったのだ。
「倉庫を開けろ」と命じれば簡単だ。
俺は勇者で、剣を抜けば扉も鍵も壊せる。
だが、それでは昨日までの魔王軍と変わらない。
「売ってくれ。今の相場で」
「相場はまだ上がります」
「それなら、明日からパンが売れなくなるぞ」
管理人の目が動いた。
「子供が買えないパンを、誰が毎日買うんだ?」
俺たちは緊急会議を開いた。
エリナが黒板に数字を書く。
「高値で買えば、会社の赤字は膨らみます。価格を抑えれば、製パン部門は損をします」
「どっちも困るな」
「はい。だから、損をする順番を決めてください」
厳しい言葉だった。
ボルド料理長が腕を組んだ。
「小麦だけが粉じゃねえ。芋を蒸して練れば、パンの量は増やせる」
「味は?」
「食ってから文句を言え」
焼き上がった試作品は、形が少し不格好だった。
俺が一口食べる。
「……うまい」
「当たり前だ。俺が焼いた」
「その自信、半分くれ」
ベラは試作品を握りつぶしかけた。
「これを『魔界の柔らかいパン』として売るのは嫌です。私が作った味じゃない」
「じゃあ、別の商品にしよう」
「名前は?」
「助け合いパン」
「社長、売れません」
即答だった。
「じゃあ『もっちり芋パン』」
「それなら売れます」
商売の世界は残酷だ。
製パン部門には、予約済み小麦の一部を学校給食と病院に回させた。
市場価格で買い戻し、損失は本社が負担する。
農家には次の収穫までの前払いを提案した。
ただし、他のパン屋にも同じ条件で売ることを契約に入れた。
「うちだけが得する仕組みをやめるんですね」と吉岡。
「うちだけが生き残っても、街が空腹なら客はいなくなる」
パンの値段を上げれば、列の最後にいる子供が買えなくなる。
俺は小麦の配分表に、販売価格も並べて記録させた。
翌朝、倉庫の前に商人たちが集まった。
「本当に小さな店にも卸すのか?」
「同じ単価で、注文量に上限を設ける」
「大口客のほうが儲かるだろう」
「そうだな。だが、小さな店が全部消えたら、街からパンの匂いが消える」
小麦を買い占めた商人は「市場価格だ」と胸を張った。
ボルドはパンを一つ割り、子どもに半分渡した。
「値段は市場が決めても、食べる順番まで決めさせるな」
俺たちは学校給食分の小麦を先に確保する契約を結んだ。
配給ではない。
無償でもない。
誰もが仕入れられるよう、取引条件を変えるだけだ。
それでも反発はあった。
「契約違反だ!」と製パン部門の責任者。
「違約金は払う」とエリナ。
「そんな金、どこに?」
「役員賞与の予算です」
「俺の賞与!?」
「社長も役員です」
ベラが初めて笑った。
夕方、店先に二種類のパンが並んだ。
いつもの柔らかいパンと、新しい芋パン。
小麦の入荷量が少ないので、どちらも一人二個まで。
朝の母親が子供を連れて戻ってきた。
「今日は二つ買えるね」
子供は一つを母親に渡した。
「半分こしよう」
「これで解決ですか」と吉岡。
「まだだ。来月も小麦が足りなければ、また同じことになる」
俺は農家への発注書を見た。
畑を増やすにも、収穫には季節がいる。
剣で早めることはできない。
「明日から、穀物の在庫を毎週公開する。足りなくなる前に皆で知るんだ」
「秘密の商売が減りますね」
「秘密にして空腹を増やすよりいい」
店の奥からベラが呼んだ。
「社長、試食代を払ってください!」
「会社の仕事だろ!」
「二個食べましたよね?」
俺は財布を開いた。
戦争より、パン屋の勘定のほうが逃げ道がなかった。
倉庫の前で、二人の商人は同じ小麦袋を取り合っていた。
俺は袋を奪い返さず、納入先の村と必要量を先に書き出した。
帳簿に名前が並ぶと、取り合っていたのが余剰分ではなく、冬を越すための食料だと分かった。
帰り際、ベラが店の帳簿を見せた。
今日の利益は昨日より少ない。
それでも売れ残りはゼロだった。
「私は売上の記録より、誰が買いに来たかを覚えていたいんです」
「商人としては珍しいな」
「パン屋ですから。お腹の減った顔を見るのが仕事です」
その言葉を聞いて、俺は発注書に『価格だけでなく、買えなかった人数も報告』と書き足した。
吉岡が呆れたように笑う。
「測るのが難しい数字ですよ」
「だから、忘れないようにするんだ」
市場の配分表を貼り出した翌朝、店主たちが数字を指さして質問を始めた。
「うちの店の分が少ない理由は?」
俺は売上高だけでなく、常連の人数と前日の在庫を確認して説明した。
納得しない者もいたが、誰でも異議を申し立てられるようにした。
翌日の市場では、もう一つ問題が見つかった。
芋を売っていた農家が、急な注文に戸惑っていたのだ。
「小麦が足りないから芋を買う。来月小麦が戻ったら、芋は要らないって言うんだろ?」
「……そうなるかもしれない」
「それじゃ、畑を増やせねえよ」
俺はベラを呼び、芋パンを臨時商品で終わらせず、一定量を季節ごとに買い取る契約を相談した。
「味を気に入ったお客さんもいます。売り続けましょう」
ベラの言葉に農家の表情が緩む。
「でも、不作のときまで同じ量を約束したら、農家が困る」とエリナ。
「最低量と上限を決めて、天候不良のときは話し合う。それならどうだ」
吉岡が契約書を書き始めた。
その横でボルドが新しいパンを差し出す。
「今度は豆を混ぜた。食ってみろ」
「今日は何個試食させる気だ!」
「料理人の実験台になるのも社長の仕事だろ」
夕方、俺は三個目のパンを食べながら、農家の署名を見届けた。
市場の値段は明日も変わる。
でも、明日の約束を一つ増やすことはできた。
エリナは数字を読み上げず、帳簿を当事者へ渡した。
「間違いがあれば、あなた自身の言葉で直してください」




