■第三十六話 王国最大の商会が、魔王軍に値下げ戦争を仕掛けてきた
王都の農具店から、値札が消えた。
正確には、昨日まで銅貨八十枚だった魔界製の鋤の隣に、銅貨三十枚の鋤が並んだのだ。
「……半額以下?」
俺が札を二度見すると、店主はため息をついた。
「王国最大のグレゴール商会ですよ。今週だけ、原価割れで売るそうです」
「今週だけなら、放っておけばいいんじゃないか?」
「来週も、その次の週も『今週だけ』になるんです」
なるほど。
商売の世界では一週間が無限に続くらしい。
隣でエリナが鋤を持ち上げた。
「刃は薄いですね。三日使ったら曲がりそうです」
「なら品質で勝負だ」
「農民が三日後まで買わずに待ってくれれば、ですが」
店の奥には、魔界製の鋤が山積みになっていた。
工場では完成品が出荷できず、職人たちの給与が危うい。
俺は聖剣を見た。
『価格表を斬っても値段は戻りませんよ』
「まだ何も言ってない!」
『顔が値札を斬る顔です』
値下げ競争で最初に店を閉めたのは、どちらの商会でもない小さな農具店だった。
店主は「安い品が悪いとは言わない」と笑ったが、棚には修理を待つ鍬が並んでいた。
「修理待ちの客はどうする?」
「隣町まで歩いてもらうしかない」
俺はその鍬の持ち主の名前を控えた。
値札にない費用が、もう村人にのしかかっていた。
グレゴール商会の本店は、魔王城の玉座より立派だった。
受付で勇者の名を告げると、商会長グレゴールが笑顔で現れた。
「これはこれは、魔王軍株式会社の社長殿。商談ですかな?」
「鋤の値段について聞きたい」
「自由競争ですよ。安い方が民のためでしょう」
「ずっと銅貨三十枚で売れるのか?」
「もちろん。当面は」
「当面が終わったら?」
笑顔が少し薄くなった。
「市場というものは変化します」
「つまり、うちが潰れたら値上げするつもりか」
「証拠のない発言は困りますな」
グレゴールは契約書を広げた。
小売店に対し、魔界製品を一品でも置けば仕入れ値を上げる、という条件が小さな文字で書かれていた。
「これは自由競争か?」
「商会にも取引先を選ぶ自由があります」
俺は黙って契約書を返した。
ここで怒鳴れば、勇者が商人を脅したという話にされる。
それだけは相手の思うつぼだった。
城に戻ると、エリナは帳簿を開いて待っていた。
「こちらも銅貨三十枚に下げたら?」
「一か月で工場の運転資金が尽きます」
「じゃあ鋤を無料で配るのは?」
「社長の給与からお願いします」
「……別案を考えよう」
吉岡が静かに紙を差し出した。
「修理依頼の一覧です。三年前に売った鋤を、いまだに直して使っている農家が多いようです」
俺は目を留めた。
「新しい鋤を売るだけが仕事じゃないのか」
「それと、替え刃の供給ですね」とエリナ。
「価格では勝てない。でも十年間の費用なら勝てるかもしれない」
ただし問題がある。
十年の得を説明しても、今日の銅貨が足りない農家は買えない。
そこで工場長ガンドルが、机を叩いた。
「分割払いにする! ただし踏み倒しは許さん!」
「いきなり怒るなよ」
「職人の手間を軽く見られるのが嫌なんだ」
「じゃあ修理費込みの契約にしよう。故障したら俺たちの責任で直す」
ガンドルは難しい顔で考え、やがて頷いた。
「壊れにくい物を作るほど、俺たちも得をするわけか」
値下げの数字は紙の上では軽い。
しかし職人の工賃を削れば、次の注文を作る手が消える。
翌週、農業組合の試験畑に、二種類の鋤を持ち込んだ。
片方は安売りの鋤、もう片方は魔界製。
試験の条件と費用は、王国側の農業組合に決めてもらった。
「勇者の宣伝に使われるのは御免だ」と組合長。
「俺も広告の顔になるのはもう懲りた」
吉岡が小声で「以前の広告騒動ですね」と言った。
やめてくれ、あの顔写真のことは忘れたい。
最初の一時間、安い鋤はよく働いた。
二時間目、石混じりの畑で刃が曲がった。
魔界製も柄が緩んだが、ガンドルが交換部品を取り出し、その場で直した。
「今のは故障に数えないのか?」
組合長が尋ねた。
「数えてください。直せることと、壊れないことは違います」
俺が答えると、ガンドルは不満そうに唇を尖らせた。
それでも記録係には正確な時刻を伝えた。
試験が終わるころ、見物の農民が口々に質問を始めた。
「収穫前だけ借りられるか?」
「替え刃は隣村でも買えるか?」
「現金がなくても、収穫後に払えるか?」
俺は即答しなかった。
できない約束をしても、畑は耕せない。
エリナが条件を書き込み、農業組合が保証人になる仕組みを提案した。
翌日、工場の休憩室で職人たちと昼飯を食べた。
若い職人は「値下げしてでも売れと言われたら、残業代がなくなる」と笑った。
年配の職人は笑わなかった。
「戦争の注文が止まったとき、工房は一度閉まった。二度とごめんだ」
俺は修理受付票を見せた。
「十年前の鋤を直してほしいと頼む農家がいる。新しい品を安く売るだけが商売じゃない」
老人は黙って茶碗を差し出した。
「社長、話はおかわりを注いでからだ」
「俺、給仕に転職したのか?」
試験結果をまとめた夜、農業組合の組合長が工場を訪れた。
「十年保証はありがたい。だが遠い村の農家は、修理のたびに三日も歩けない」
ガンドルが地図を広げる。
「巡回修理班を出す。替え刃も持たせる。ただし出張費は必要だ」
「組合で修理依頼をまとめれば、荷車一台で回れます」とエリナ。
俺は二人の顔を見た。
安く売るだけではなく、使い続けられる仕組みを作る。
値札には書けない価値が、ようやく形になった。
値札を下げた商人の店先で、職人が静かに道具を片づけていた。
俺は勝者の売上だけを見ていたことに気づく。
エリナは品質を比較できる表示と、修理代を含めた見積書を提案した。
「安さ以外にも、選ぶ理由が必要です」
結果は意外だった。
魔界製の新規販売は以前ほど戻らない。
しかし修理契約と部品の注文が増え、工場の仕事は途切れなくなった。
「安売りに勝った、でいいのか?」
俺が聞くと、エリナは首を横に振った。
「競争にはまだ決着がついていません。ただ、給与を削らずに続ける道ができました」
その夜、グレゴールから手紙が届いた。
『貴社の保証制度は不公正だ。
当商会も十年保証を開始する』
「真似されたぞ!」
俺は叫んだ。
エリナは涼しい顔で茶を飲んだ。
「それで農民が得をするなら、悪い話ではありません」
翌朝、吉岡が追加の報告を持ってきた。
「グレゴール商会から修理工の求人が出ています。ガンドルさんの弟子を高給で引き抜こうとしているようです」
「今度は人材争奪戦か!」
「給与を上げる理由ができましたね」とエリナ。
だがガンドルは求人票を畳まなかった。
「腕のいい弟子を引き留めるのに、金だけじゃ足りん。うちで新しい仕事を任せられるのか?」
俺は巡回修理班の責任者を弟子たちから公募することにした。
修理の記録も工場へ戻し、設計の改良に反映する。
「客の畑を見た職人が、次の鋤を作る。そういう会社なら残りたいか?」
ガンドルは少し考えてから、求人票の裏に研修計画を書き、俺に突き出した。
「腕を磨いた分だけ、ちゃんと給料を上げろよ」
「分かった。役割と技術に見合う昇給の基準も作ろう」
翌朝、王都の店頭には『十年使うための修理代』の札が残った。
値段だけでなく、職人の腕にも値がつき始めていた。




