■第三十二話 幽霊社員が出勤簿に名前を書けず、給与が三百年止まっていた
「社長、三百年分の未払い給与が見つかりました」
エリナの声は落ち着いていた。
落ち着いていなかったのは俺だ。
「三百年!? 誰に!?」
「総務部のノエルさんです」
「三百年も生きているのか?」
「亡くなっています」
「じゃあ、どうして給料が!」
「出勤していますので」
その説明で納得できる人間がいるなら、ぜひ紹介してほしい。
地下の記録庫へ向かうと、扉がひとりでに開いた。
『いらっしゃいませ』
声はするのに、姿が見えない。
「ノエルさん?」
『はい。
勤務中です』
棚の間から薄青い女性が現れた。
身体の向こうに書類の背表紙が透けて見える。
「驚かせて申し訳ありません」
「いや、驚いてない」
『嘘をつくと脈が速くなるんですね』
聖剣まで口を挟む。
「お前は脈を測るな!」
ノエルは三百年前から帳簿の保管を担当しているという。
戦争のたびに書類を運び、火災のときには貴重な台帳を守った。
ところが出勤簿には一度も署名できなかった。
「指が紙を通り抜けるんです」
試しにペンを渡すと、床へ落ちた。
吉岡が素早く拾い、もう一度渡した。
また落ちた。
「吉岡、実験は一回で十分だ」
「規程では再現性の確認が必要でして」
「幽霊にまで規程を押しつけるな!」
ノエルの勤務を調べるうちに、奇妙な事実が見つかった。
戦時中に紛失したとされる兵糧台帳が、彼女の棚には一冊も欠けず残っていたのだ。
「どうして隠していた?」
「隠していません。提出すると燃やされるので、写しを作って保管しました」
台帳には、不正な徴発で飢えた村の名前まで記されていた。
「これが公になれば、困る人がいるな」
エリナが顔を曇らせる。
「だから捨てますか?」
ノエルがまっすぐ俺を見た。
「いや。調査して、必要な人に伝える」
「私が勝手に保存したことも、処分の対象になりますか?」
「まず事実を確かめる。記録を守った人を、都合が悪いから罰する気はない」
ノエルは少しだけ輪郭を濃くした。
吉岡が目を細める。
「今、姿がはっきりしましたね」
「気持ちが強いと、少しだけ実体が戻るんです」
「じゃあ、ペンも握れるのか?」
ノエルは慎重に手を伸ばした。
一瞬だけペンが浮いた。
次の瞬間、机をすり抜けて床へ落ちる。
「惜しい!」
「……やっぱり無理でした」
「無理に握らなくていい。署名の方法はほかにある」
エリナが魔力印の試作品を持ってきた。
「触れなくても、近くにいるだけで反応する仕組みです。ただし、本人以外が代わりに登録できないか検証します」
「検証なら手伝います」
「今度は勤務時間として記録しますからね」
ノエルは驚いたように笑った。
「生まれて初めて、残業代の話をされました」
「三百年働いて『初めて』は重すぎる!」
ノエルの笑い声が記録庫に響いた。
紙に残らない声でも、ここにいた証拠にはなる。
俺はそのことを忘れないと決めた。
未払いの理由は単純で、ひどかった。
旧魔王軍の給与規程には『署名のない者は欠勤』とあった。
幽霊用の例外はない。
「前の上司には相談したんです」
ノエルは静かに言った。
「そうしたら、『存在している証拠を出せ』と」
「目の前にいるのに?」
「『透けているから不十分』だそうです」
俺は額を押さえた。
「三百年も働き続けたのは、どうしてだ?」
ノエルは古い台帳を開いた。
「ここには、帰ってこなかった人たちの名前があります。誰かが捨てたら、本当にいなくなってしまう気がして」
ページには人間と魔族の名前が並んでいた。
敵味方を分ける印は、もう薄れて読めない。
俺は急に軽口を言えなくなった。
出勤簿の空欄を見て、俺は誰もいない席に椅子を引いた。
姿が見えないことと、働いていなかったことは違う。
会計室でエリナが問題を整理した。
「三百年分を今の賃金で単純計算すれば、会社が傾きます」
「払わない理由にはならないだろ」
「もちろんです。ただ、昔の契約、勤務時間、貨幣価値を確認する必要があります」
吉岡が古文書を持ってきた。
「当時の基本給は月に銅貨八枚。なお、夜勤手当はありません」
「三百年間、夜勤もしていたのか?」
「幽霊なので夜は得意です」
ノエルが遠慮がちに答えた。
「得意と無給は別問題だ!」
聖剣が感心したように鳴る。
『勇者が給与明細に怒る日が来るとは』
「俺だって予想してなかった!」
まずは現存する台帳と他の職員の証言を照合し、勤務を認定することにした。
魔力印を刻む板を試したが、ノエルが触れると板ごと凍った。
「これは使えませんね」
エリナが震えながら言う。
「寒いんですか?」
「指先の感覚がなくなりました」
「すみません!」
ノエルが謝ると、室温がさらに下がった。
「謝るたびに寒くなるのか!?」
解決の糸口は、古参の門番が持ってきた一冊の記録だった。
「ノエル殿は毎朝、鐘が三つ鳴ると台帳を運んでいました。私はそれを百年見ています」
「百年分の証言か」
「はい。残り二百年は私の父と祖父が見ました」
吉岡が三代分の勤務日誌を調べる。
「日付と作業内容が一致します」
エリナは頷いた。
「本人の署名だけを唯一の証拠にする必要はありません。複数の記録で確認できます」
ノエルが目を見開いた。
「私、働いていたことになるんですか?」
「なる。いや、最初から働いていたんだ」
俺は言い直した。
「会社が認めなかっただけだ」
未払い賃金は調査で確定した分から支払い、残額は監査を受けながら分割して清算することになった。
ノエルには新しい勤務契約と、休暇を取る権利も用意した。
「休暇……ですか?」
「三百年働いたんだ。少しは休め」
「でも、記録庫は?」
「後任を育てる。引き継ぎも仕事だ」
ノエルは黙り込んだ。
やがて、かすかな声で尋ねる。
「私がいなくても、ここは大丈夫なんですね」
「ああ。だから安心して帰っていい」
「帰る場所、もうないんです」
俺は息をのんだ。
エリナがそっと言った。
「それなら、これから探しましょう。社員寮にも空きがあります」
「幽霊が住める部屋なんて」
「隣室の人に相談します。壁をすり抜けないという条件付きで」
「努力します」
「努力でどうにかなるのか?」
「気合いで」
「幽霊も気合いなのか!」
ノエルは新しい社員寮の見取り図をじっと眺めた。
「壁をすり抜けてしまったら、隣の人が怖がりませんか」
吉岡は首をひねり、「では最初の一週間は空き部屋の多い棟にしましょう」と提案した。
エリナは入居の希望を本人に確かめ、夜勤を続けるかどうかも改めて選べるようにした。
三百年ぶりに、ノエルは自分の予定を自分で決めた。
エリナは支払記録に注記を加えた。
「三百年分を一括で認めるのではなく、勤務の実態と時効に当たる期間を調べます」
ノエルは首を横に振らなかった。
「私がいたことを、まず調べてくれるんですね」
金額より先に、名前が帳簿へ戻った。
幽霊社員の給与口座は三百年前に閉じられていた。
吉岡が新しい口座を作ろうとすると、窓口で「本人確認の顔写真を」と求められる。
「透けて写りません」
エリナは本人の声と勤務記録を照合する代替手続きを提案し、銀行は試験運用を認めた。
「幽霊が銀行口座を持つのは初めてです」と吉岡。
「最初の預金者を怖がらせるなよ」と俺は言った。
その日の夕方、新しい出勤簿にノエルの名前が記された。
本人が魔力で文字を浮かべ、吉岡が立会人として確認した。
『ノエル。
出勤』
たったそれだけの文字を、彼女は何度も見つめた。
「私の名前が、消えません」
「消させないよ」
俺はそう答えた。
翌朝、ノエルは初めて有給休暇を申請した。
理由欄にはこう書かれていた。
『三百年ぶりに、朝寝坊をしてみたい』
吉岡は厳かに判を押した。
「承認いたします」
そして俺に向き直る。
「社長。幽霊社員用の寝具購入申請が届きました」
「幽霊って寝具が必要なのか?」
『寝心地は気分の問題です』
聖剣が答える。
「お前まで寝具を欲しがるなよ!」




