■第三十一話 魔界に初めて観光客が来たら、魔王城が宿泊施設になった
「社長、玉座に人間が寝ています」
朝一番の吉岡の報告で、俺は飲みかけの茶を吹き出した。
「どういうことだ!」
「文字どおりです。毛布を持ち込み、たいへん気持ちよさそうに」
「玉座は寝台じゃない!」
『座り心地も悪そうですしね』
腰の聖剣が余計な感想を述べる。
魔王城の観光事業が始まって三日。
見学券が予想の四倍売れたと聞いて喜んだ俺は、どうやら早まったらしい。
正門の前には長蛇の列ができていた。
人間の商人、親子連れ、旅の吟遊詩人。
かつてなら魔王軍の兵士が追い返した相手ばかりだ。
観光担当のリリスが駆け寄ってくる。
「社長! 入場券を買った方々が、なぜか宿泊予約だと思い込んでいます!」
「券には何と書いた?」
リリスは赤い紙を差し出した。
『魔王城を一日まるごと満喫! 忘れられない夜をあなたに』
「夜って書いてある!」
「夕方の夜景を意味したつもりでした!」
「客が布団を持ってくるのも当然だろ!」
そこへ人間の老人が口を挟んだ。
「わしは孫に、魔王の城で一泊したと自慢したくてな」
隣の孫は木剣を振り回している。
「魔王様のベッド、どこ?」
「玉座だと思って寝ている人がいるが、違うぞ」
孫は真剣な顔でうなずいた。
「じゃあ、魔王様は立って寝てたの?」
「そういうことでもない!」
夜、城の使用区画を点検していると、古い兵舎の前でリリスが立ち止まった。
「ここを宿にすれば、すぐに百人泊められます」
「窓がないぞ」
「魔族は暗いほうが落ち着くので」
「人間の客はどうする?」
「……朝が来たことを鐘で知らせます」
「監禁施設みたいな宿を作るな!」
古参衛兵が扉を開けると、壁にはかつての兵士たちが刻んだ名前が残っていた。
戦地へ出る前、無事に戻れたら続きを書こうと約束したものだという。
「全部塗りつぶして新装したほうが見栄えはいいでしょう」
リリスの言葉に、衛兵は何も答えなかった。
俺は壁に指を触れた。
「ここは宿にしない。名前を残して、見学する人に説明しよう」
「収益が減りますよ」
「収益のために忘れていいものと、忘れちゃいけないものがある」
衛兵が背筋を伸ばした。
「では、私が案内します。戻れなかった者の話も」
「頼む。つらいときは交代してくれ」
廊下の先では、掃除係のゴブリンたちが床を磨いていた。
「人間の客は靴の泥を落としてくれるんですかね」
「案内板を作ろう。『泥を落としてお入りください』って」
「『剣も置いてお入りください』も必要です」
「俺が一番注意されそうだな」
聖剣が抗議した。
『私だけ預かり所に置かれるのは嫌です』
「客の武器は全部預かる。社長だけ特別扱いはしない」
「俺が社長なのに!?」
『規則は平等で何よりです』
そんなことを言いながら、俺は自分の剣を最初に預けた。
預かり札には『勇者ジーク様』ではなく、ただ『一番』と書かれていた。
平和な城では、それで十分だった。
リリスは急いで見学者を案内しようとした。
ところが廊下の途中で列が止まった。
「この先は旧処刑場です」
案内板を読んだ母親が、子供の目を手で覆う。
「そんな場所を観光させるの?」
俺は返事に詰まった。
城を開放すれば平和の証になると思った。
だが、ここには戦争の記憶が染みついている。
「案内板を外しましょうか」
リリスが小声で尋ねた。
「いや。隠すのは違う」
俺は扉の前に立った。
「見学するかどうかを選べるようにする。説明も必要だ。昔ここで何があったのか」
「子供には難しいのでは?」
「だったら、子供に分かる言葉を探そう」
そこへ城の古参衛兵が近づいてきた。
「勇者殿。私はこの場所の番を百年務めました。話す役目なら引き受けます」
衛兵の手は震えていた。
「無理をする必要はない」
「いいえ。何もなかった顔で土産を売るほうが、私にはつらい」
俺は深く頭を下げた。
「見学と宿泊は違います」と吉岡が言った。
俺はうなずいた。
観光客の期待を裏切らないためにも、営業開始日を曖昧にしてはいけない。
昼前、今度は厨房で騒ぎが起きた。
「宿泊客がいるなら朝食が必要です!」
料理長ボルドが巨大な鍋を抱えて叫ぶ。
「正式な宿泊客はまだいない!」
「しかし腹をすかせた子供はいます!」
「それはそうだが!」
エリナが算盤を弾いた。
「無料で百人に食事を出せば赤字です。ですが、食堂を臨時営業すれば食材費は回収できます」
「客にいくら請求する?」
「通常の食事代です。『魔王の晩餐』などと名前をつけて三倍にする案は却下しました」
リリスが露骨に肩を落とした。
「三倍なら宣伝費が……」
「値札の前に良心を置け!」
聖剣が鞘の中で笑った。
『勇者が値付けの魔物と戦っていますね』
「魔物はお前のほうだ!」
食堂にはやがて湯気が立ち、魔族の給仕が人間の子供にパンを渡した。
受け取った子供は一瞬だけ身を引いたが、すぐに「ありがとう」と言った。
給仕は驚いて、耳の先まで赤くなった。
午後、エリナと俺は事業計画を作り直した。
「見学と宿泊を別契約にする。宿泊は客室と避難経路が整うまで受け付けない」
「警備員は?」
「元兵士を採用する。ただし、客を敵だと思わない訓練が必要だ」
「城の修繕費は?」
「入場料から積み立てる。歴史展示の案内人には別に手当を払おう」
エリナは俺を見た。
「昔の魔王城なら、入った人間は全員捕虜でした」
「今は全員、お客様だ」
「では、お客様が玉座で眠った場合は?」
「丁重に起こす!」
吉岡が手を挙げた。
「ちなみに、寝ていた方は現在、起きています」
「よかった」
「『枕が硬いので返金してほしい』と」
「そもそも宿泊代を払ってないだろ!」
魔王城の客室には、かつて勇者を閉じ込めた罠が残っていた。
観光客の子どもが床板を踏みかけ、俺は慌てて止めた。
「名所だから残す」では済まない。
吉岡は罠の位置を記録し、見学できる場所と封鎖する場所を分けた。
玉座で眠っていた旅人は、起こされると顔を赤くした。
「見学券で夜までいられると思ったんだ」
リリスは広告の文言を消し、見学終了時刻を大きく書き直した。
俺は受付に、帰りの馬車の時刻と近隣の宿を掲示させた。
客を追い出すだけでは、城を開いた意味がない。
宿泊営業の準備では、夜間巡回の鎧の音まで問題になった。
「この音で眠れるか?」と俺が尋ねると、オークの警備員は鎧を脱いでみせた。
だが警備を弱めるわけにはいかない。
吉岡は巡回経路を客室予定区画から離し、非常時の呼び鈴を設置した。
まだ客は泊めない。
準備が整うまでは、それが約束だ。
宿泊施設の設計図が届いた夜、リリスが一室だけ空白にした。
「ここは?」
「昔、捕虜を閉じ込めていた部屋です。きれいに飾れば売れるでしょう。でも、それでいいのか迷っています」
俺はしばらく考えた。
「売り物にする前に、何があった部屋なのか記録しよう。誰かの怖かった場所を、勝手に『楽しい思い出』にはできない」
リリスは部屋の名前を『展示準備室』と書き直した。
夕暮れ、正門であの老人と孫に会った。
「泊まれなくてすまなかった」
老人は首を振る。
「昔、ここへ来た人間は帰れなかった。今日は孫と帰れる。それだけで十分だ」
俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。
孫が手を振る。
「次は泊まれる?」
「安全な部屋ができたらな」
「じゃあ、魔王様のお布団はふかふかにしてね!」
「魔王はもう住んでない!」
「でも、昔は住んでいたんでしょう?」
「ああ。だからこそ、あの部屋を誰に貸していいか、ちゃんと考えるよ」
笑い声が門の外へ遠ざかっていく。
リリスが新しい看板を掲げた。
『魔王城見学。
宿泊は準備中。
過去を知り、明日を考える場所』
「宣伝文句としては地味ですね」
「地味でいい。嘘がない」
俺は灯りのともった城を見上げた。
敵を待つ城が、帰り道を教える城になる。
その変化には、剣を振るうよりずっと時間がかかりそうだった。




