■第二十九話 魔王軍の病院に人間の患者が来た日、古い敵意がよみがえった
「人間は診ない」
魔界中央病院の玄関で、誰かがそう言った。
俺が到着したとき、廊下には血の匂いが残っていた。
国境の崩れた橋から運ばれてきたのは、八歳の人間の少女だった。
右腕を骨折し、熱も高い。
母親は泥だらけの靴で娘の手を握りしめていた。
「先生、お願いします」
母親の声はかすれていた。
魔族医師セレナが担架を押そうとすると、元兵士の警備員が通路を塞いだ。
「俺の弟は、人間の矢で死んだ。ここは魔族の病院だ」
誰もすぐには答えられなかった。
俺は剣の柄から手を離した。
「道を開けてくれ」
「勇者、お前だって魔族を斬っただろう」
「……斬った」
「なら、俺の気持ちが分かるはずだ」
分かる、と言い切るのは嘘になる。
俺は勝った側の勇者で、目の前の男は弟を失った兄だった。
「怒る権利はある。だが、この子を死なせる権利はない」
警備員の拳が震えた。
セレナはその横を通り、担架を手術室へ運んだ。
「診察は私が引き受けます。警備員さん、後で話しましょう」
セレナは母親に少女の名前を尋ねた。
「リオナです」と母親が答える。
セレナはその名を復唱し、処置室の札に書いた。
ラグは札を見たまま動かなかった。
人間という呼び名で押し返した相手が、名前を持った一人の子どもになったのだ。
彼女の声は落ち着いていたが、指先は白くなっていた。
診察室でセレナは傷を調べた。
骨折した腕は腫れ、発熱の原因は傷口からの感染が疑われる。
処置には薬と清潔な器具が必要だった。
「治せるのか」
「治すために、まず検査します。焦って決めつけるのが一番危険です」
「費用は?」
母親が震える声で尋ねた。
「国境の救急支援基金から一部を出せます」
エリナが答える。
「足りない分は、患者の支払い能力を確認してから考えます。今は治療を優先してください」
俺は彼女を見た。
「いつの間に基金を?」
「前の戦争で負傷者が出たとき、使い道の決まらなかった寄付金です。ようやく正しい使い道が見つかりました」
吉岡が記録をつける。
「社長、国籍を記載する欄がありません」
「作らなくていい」
「では患者番号で管理します」
「それで十分だ」
病院の外では、別の騒ぎが起きていた。
『人間を治す薬があるなら、魔族の患者に回せ』
待合室にいた老人が叫んだ。
腕に古い戦傷がある。
「俺たちは何年も待たされたんだぞ」
「順番を飛ばしたわけじゃありません」
セレナの助手が説明する。
「救急患者を先に診る決まりです」
「人間でもか!」
俺は老人の隣に座った。
「俺が勇者だったころ、仲間が倒れた。助けてくれたのは、敵だと思っていた魔族の薬師だった」
「綺麗事を言うな」
「そうだ。綺麗事だ。だけど、その薬がなければ俺はここにいない」
老人は目をそらした。
「わしの息子は戻らん」
「戻らない」
「それでも治せと言うのか」
「治せる命は、治したい」
長い沈黙のあと、老人は杖を引き寄せた。
「……わしの診察も忘れるなよ」
「もちろんだ」
夕方、少女の熱が少し下がった。
母親は何度も礼を言ったが、セレナは首を振った。
「まだ油断できません。今夜は病院にいてください」
警備員が廊下の端に立っていた。
「先生。俺は……」
「謝罪は後でいいです。今夜は見張りをお願いできますか」
「人間の子を?」
「この病院にいる患者を、です」
男は唇を噛んだ。
「……分かった」
少女の母親が握りしめていたのは金貨ではなく、診察券だった。
俺は支払いの話を後回しにし、医師に処置の優先順位を確認した。
翌朝、病院の会議室で新しい規則を作った。
救急の受け入れは種族ではなく症状の緊急度で判断する。
費用の説明は治療を妨げない時点で行う。
職員への脅迫や暴力には対応するが、戦争で家族を失った人々の相談窓口も設ける。
「相談窓口まで病院がやるのか」
吉岡が尋ねた。
「医師に全部背負わせるわけじゃない。地域の支援員と分担する」
エリナは予算表を広げた。
「継続するなら、国境の自治体にも負担を求めます。善意だけでは続きません」
「交渉は俺が行く」
「社長が毎回行くのも続きません」
「……確かに」
「だから制度にするんです」
俺は思わず笑ってしまった。
最近、エリナの正論には剣より切れ味がある。
治療が続く間、俺は病院の裏庭で警備員と話した。
病院の廊下で、人間の少女と魔族の少年が同じ薬を待っていた。
看護師は二枚の受付票を握ったまま動けない。
「先に来たほうから診る。それでいい」と俺が言うと、少女の父親が怒鳴った。
「うちの子を魔族と同じ列に並べるのか」
エリナは診療記録を示した。
重症度は少年のほうが高い。
「列ではなく、命の危険で順番を決めます」
医師が少年を処置室へ運ぶ間、俺は父親の前に立った。
剣を抜かずに憎しみを受け止めるほうが、ずっと怖かった。
処置を終えた医師が戻ると、父親は黙って少女の手を握り直した。
男の名はラグ。
弟は国境の小競り合いで命を落としたという。
「弟は薬師になりたがっていた。人間にも魔族にも効く薬を作るんだと」
「そうだったのか」
「俺は笑ったよ。敵を治してどうするってな」
ラグは地面の小石を蹴った。
「今日、あの子を見て、弟が言っていたことを思い出した。思い出した自分が腹立たしい」
俺は何も言えなかった。
「許したわけじゃない。人間も、戦争を始めた連中も」
「許さなくていい」
「それでも門は開けろと?」
「救急車が来たときだけは、頼む」
ラグは深く息を吐いた。
「……仕事の決まりなら守る」
少女の母親は、病院の食堂で初めて温かい食事を取った。
「魔族の料理は怖いものだと思っていました」
配膳係のオークが笑う。
「こっちも人間は角を抜こうとするって聞いてたよ」
「角は抜けませんよね?」
「抜けたら困るよ!」
二人は笑った。
笑ったあと、母親は静かに泣いた。
俺はその場を離れた。
勇者が何か立派なことを言うより、今は食事が冷めない方が大事だった。
その夜、俺は病院の窓に灯る明かりを見上げた。
戦場では、敵の陣営に灯りがあれば攻撃の目印にした。
今はあの明かりの下で、人間と魔族が同じ薬を待っている。
剣を持つ手は軽くなったのに、胸の奥には重いものが残った。
これを忘れずにいることが、俺の仕事なのかもしれない。
セレナは翌日の診察予定表をめくった。
「今度は魔族の少年が来ます。橋の向こうの村で怪我をしたそうです」
「人間の病院から?」
「ええ。紹介状もあります」昨日まで閉じていた道を、今日は患者が行き来していた。
三日後、少女は自分で歩いて診察室を出た。
腕にはまだ包帯が巻かれている。
「おじさん」
警備員が振り返る。
「昨日、夜に怖い夢を見たとき、扉の外にいてくれたでしょ」
「……仕事だからな」
「ありがとう」
男は何か言おうとして、結局うなずいただけだった。
少女と母親が門を出るとき、老人も待合室から手を振った。
「次は怪我せず来いよ!」
「次は遊びに来る!」
病院は観光地じゃない、と言いかけて俺は口をつぐんだ。
遊びに来られるくらい、国境が穏やかになるなら、それも悪くない。
その日の診療記録には、ただ一行、こう残された。
『患者、回復傾向。
次回診察を予約』
そこに種族の名前はなかった。
その記録を読んで、俺は少しだけ安心した。
診療記録の欄外には、少女が描いた小さな花があった。
警備員はそれを見て、誰にも聞こえない声で「また来いよ」と言った。
俺は笑わなかった。
あの男が門を開けたことは、どんな演説より確かな変化だった。




