■第二十三話 魔王軍の石鹸が売れすぎて、王都の貴族が風呂から出てこなくなった
会議室の窓から、復興中の城下町が見えた。
石鹸一つで変わるのは風呂場だけではなく、そこで働く人の一日だった。
「社長。魔界の薬草石鹸を王国で試験販売すると香りと洗浄力が評判にという報告が入っております」
吉岡が書類を差し出した。
俺は石鹸の販売報告を開き、貴族の入浴時間が記録されていることに目を疑った。
「……ゴブリン研究員ミミが関わっているのか?」
「はい。販売部だけでなく、浴場の管理人からも苦情が届いております」
勇者時代なら、敵を見つけて剣を抜けば先へ進めた。
いま目の前にある赤字は、剣を振っても一銅貨も減らない。
「エリナを呼んでくれ。事情を聞こう」
王都の浴場では、石鹸の匂いを確かめるためだけに入場料を払う客が現れた。
一方、掃除係の女性は荒れた手を隠していた。
「人気商品なら、私たちにも使わせてください」その言葉に、俺は販促用の在庫を見直した。
貴族の風呂を飾るより、働く人の手を守るほうが先だ。
店主は渋ったが、試供品の配布先に浴場の従業員を加えた。
王都の公衆浴場へ入った途端、俺は足を滑らせた。
「うわっ!」
エリナが襟をつかみ、転倒を防ぐ。
床には白い泡が積もり、排水溝まで塞がっていた。
「社長、これが新商品の成果です」
「成果っていうより事故だろ!」
浴場の女将が桶を抱えて走ってきた。
「朝から貴族のお客様が出てこないんです。三時間、四時間、ずっと泡を立てて……」
奥の湯船から声がした。
「追加の石鹸を! 香りが消えてきたぞ!」
「香りが消えたなら上がれ!」
俺が叫ぶと、湯気の向こうで貴族が驚いたように顔を上げた。
「勇者殿、風呂場で剣を抜くのかね」
「抜かねえよ!」
聖剣が鞘の中でぼそりと言った。
『泡なら斬れますが』
「頼むから黙っててくれ」
研究員ミミが小さな瓶を持って駆け込んだ。
薬草石鹸を開発したゴブリンで、手には成分表がある。
「石鹸自体の洗浄力は規格内です。でも使いすぎると泡が排水を塞ぎます」
「使いすぎって、どれくらい?」
「一人一回、親指の先ほどです」
女将は湯船の横を指した。
そこには空になった石鹸箱が十個並んでいた。
「貴族様は『高いほど効く』と思って、箱ごと溶かしてしまうんです」
「うちの石鹸、そんなに高くないだろ」
「王都の貴族には、安いものを大量に使う贅沢もあるんですよ」とエリナ。
女将は一枚の紙を差し出した。
入浴待ちの名簿だ。
最初の名前は国王の叔父、次が侯爵夫人、その下には町の洗濯女や工事現場の職人たちが続いている。
「先に来た人から入れるはずなんです。でも貴族様に『出てください』とは言いにくくて」
「身分で風呂の順番が変わるのか」
「変えたくないから困ってるんです」
俺は湯船の前に立ち、手を叩いた。
「本日より、入浴は一回三十分まで!」
貴族たちが一斉に抗議した。
「香りを楽しむ時間が足りん!」
「湯船の中で会議をしているのだ!」
「会議室でやれ!」
エリナが腕を組んだ。
「社長、その決め方では女将の仕事が増えるだけです。誰が時間を測るんですか」
「……吉岡?」
「私は一人です」と吉岡。
「じゃあ、砂時計を置こう」
「砂時計を裏返されたら?」
「うっ」
ミミが浴場の柱を見上げた。
「魔石で時刻を知らせる鐘を作れます。お湯の温度も測れます」
女将は首を振った。
「鐘だけでは駄目です。お客様を怒らせずに交代をお願いする人も必要です」
その言葉で俺は気づいた。
仕組みを作っても、働く人を置き去りにすれば続かない。
貴族が風呂から出てこない一方、工房では石鹸を運ぶ者の手が荒れていた。
俺は人気商品の裏側を見落としていた。
翌日、女将と従業員たちを交え、入浴の案内を作り直した。
三十分を目安にしつつ、体調の悪い人や介助が必要な人には別の時間を用意する。
浴槽の清掃時間を固定し、泡が多い日は排水を優先する。
「これなら、私たちも休憩できます」
従業員の一人が言った。
ミミは石鹸を一回分ずつ包む試作品を作った。
香りは変えず、泡の量だけを調整する。
貴族向けの高級箱には、なぜか金色の文字で『一回一包』と大きく書かれた。
「高級感が足りない」と貴族。
「中身を十個使っても偉くなれませんよ」と俺。
「勇者殿は風情が分からん」
「風情より排水溝だ!」
貴族が風呂から出てこない間、共同浴場の湯が足りなくなった。
俺は高級石鹸の宣伝を止め、湯の利用時間を分ける提案をした。
「石鹸で世界を救って、湯切れで怒られるのか」と聖剣が笑った。
試験運用の日、最初に時間を守らなかったのは国王の叔父だった。
女将が困って俺を見る。
「特別扱いしたら、次から誰も守らないな」
俺が声をかけると、叔父は湯船から片手を出した。
「あと十分だけ」
「さっきも同じこと言った!」
エリナが新しい料金表を差し出した。
長時間の貸切を希望する場合は、別室を事前予約する仕組みだ。
料金には追加の清掃と従業員の人件費も含まれる。
「金で解決するのか」と俺。
「ほかのお客様の時間を奪わないための選択肢です」
叔父は渋々予約表に名前を書いた。
ようやく湯船が空き、待っていた洗濯女が肩まで湯につかる。
「生き返るねえ」
その一言に、女将の顔がほころんだ。
ミミは売上の数字を嬉しそうに見せた。
王都の石鹸は予想の三倍売れている。
「すごいじゃないか!」
「でも苦情も三倍です」とエリナ。
ミミはしょんぼりした。
「私、泡立ちが良ければ喜んでもらえると思っていました」
「喜んでる人もいる。でも使い方まで含めて商品なんだな」
俺たちは説明書を絵入りにし、字の読めない客にも伝わるようにした。
浴場には適量の見本を置き、店員には無理に追加購入を勧めないよう伝えた。
数日後、浴場の排水は正常に戻った。
入浴待ちの列も短くなり、女将は従業員の休日を一日増やせたという。
「石鹸が売れたおかげで、休みが増えました」とミミ。
「石鹸の使いすぎを止めたおかげだろ」と俺。
「両方です」とエリナ。
石鹸を買えない家があると知ったのは、王都の風呂屋でだった。
「石鹸だけあっても、水を汲む時間がない」
その言葉に、俺は販売数の報告書を閉じた。
衛生を広めるには、商品だけでなく使える環境が要る。
帰り際、貴族の一人が声をかけてきた。
「勇者殿、今度は泡の出ない石鹸を作ってくれ」
「それ、石鹸として売れるのか?」
ミミは目を輝かせた。
「研究してみます!」
俺は慌てて止めた。
「頼むから、先に女将に相談してくれ!」
浴場の外には、次の客がもう並んでいた。
今度は、ちゃんと順番が回ってくる。
後日、王都から新しい注文が届いた。
差出人は、あの国王の叔父だ。
内容は石鹸百箱ではなく『浴場の時計を三台』。
俺は何度も読み直した。
「貴族が時間を守る気になったのか?」
エリナは笑いをこらえた。
「自分の別荘にも同じ仕組みを導入したいそうです」
「意外と素直だな」
「ただし、時計が鳴ったら家来に知らせてほしいという特注があります」
「自分で出ろ!」
ミミは砂時計と魔石の鐘を組み合わせた装置を作り、浴場の女将に使い勝手を確認してもらった。
音が大きすぎれば赤ん坊が泣く。
小さすぎれば湯気の中で聞こえない。
試作を三度やり直して、ようやく丁度よい音になった。
「石鹸屋が時計を作ることになるとは」と俺。
「困りごとを解決していたら、そうなっただけです」とミミ。
吉岡は新事業の申請書を持ってきたが、俺はゆっくり首を振った。
「まずは浴場でちゃんと動くか確かめよう。売るのはそのあとだ」
新しい商売を始める前に、今いる客の声を聞く。
それだけのことが、魔王軍ではまだ珍しかった。
翌週、王都からもう一通、注文書が届いた。
今度は貴族ではなく浴場の掃除係たちの連名だった。
【時計は一台で足ります。
代わりに、手荒れを防ぐ石鹸を定期便にしてください】
ミミは注文書を読んで、試作品の配合表を書き直した。
「一番長く風呂場にいる人の声を、最初に聞けばよかったですね」
俺は頷いた。
時計を売るより先に、誰の時間を守る商売なのかを忘れないようにしよう。




