■第百十七話 元勇者が村に帰ったら、魔王を怖がらない子供が増えていた
俺が故郷の村へ向かったのは、討伐の旅に出て以来、初めてのことだった。
五年間の旅を終えてからも魔王軍の社長として働き続け、帰郷する機会を逃していた。
村へ来るまでの道も、旅に出た頃より広くなっていた。
昔は雨が降れば車輪が泥にはまり、商人は山賊を恐れて日暮れ前に引き返した。
今は街道沿いに共同倉庫があり、魔族の運送会社が荷物を届けている。
村の入口には見覚えのある石橋があり、その横には見覚えのない看板が立っていた。
『魔王軍株式会社製 自動灌漑装置導入地区』
「俺の故郷まで取引先になってる!」
道端の子どもが灌漑装置を指さした。
「これ、魔王が作ったの?」
「魔王一人じゃない。たくさんの人が働いて作ったんだ」
子どもはうなずき、畑へ駆けていった。
恐怖の象徴だった名前が、便利な道具の名前になっていた。
畑では小型の魔導機械が水路を開閉し、農夫が昼休みを迎える準備をしていた。
昔は干ばつのたびに井戸を奪い合っていた村だ。
「ジークじゃないか!」
幼なじみの農夫が駆け寄ってきた。
「勇者様が帰ってきた!」
「もう勇者の仕事はしてないよ」
「じゃあ、何してるんだ?」
「……失業中」
相手は一瞬黙り、それから腹を抱えて笑った。
「魔王を追い出した男が失業か!」
「笑うな!」
幼なじみは畑の端で水量の記録をつけていた。
装置は便利だが、上流と下流で使う水の量を決めないと争いになるという。
「機械を入れたら全部解決じゃないんだな」
「当たり前だ。水は機械の持ち物じゃない。村のみんなのものだ」
俺はしばらく黙って、その意味を考えた。
魔王軍で学んだことが、故郷でも同じように役立っていた。
村の食堂では、魔王食堂から技術提供を受けた料理人が、人間向けに辛さを調整したカレーを出していた。
「ドラゴンの火は吹かないよな?」
「今は吹かない。安全基準ができたから」
昔の失敗を、村の料理人まで知っていた。
食堂でカレーを食べ終えるころ、昔の友人たちが次々に席へ集まった。
誰かは農夫、誰かは教師、誰かは魔族の工場で働いている。
俺が魔王城で書類に追われていた話をすると、全員が腹を抱えて笑った。
「世界を救った勇者の敵が、申請書だったとはな」
「申請書は剣で斬れないんだよ!」
一人が真顔になった。
「でも、魔王軍の工場で働くのを嫌がる奴もいる。親を戦争で亡くしたからな」
「……そうだろうな」
「無理に仲良くしろとは言えない」
「言わなくていい。働くかどうかも、付き合うかどうかも、本人が選べる方がいい」
食堂を出た昼過ぎ、村の学校に招かれた。
子供たちが俺を取り囲む。
「魔王って強かった?」
「強かったよ」
「どのくらい?」
「すごく強かった」
「じゃあ、どうやって倒したの?」
「剣じゃなくて、株を買ったんだ」
「……剣じゃないの?」
「剣じゃない」
「つまんない!」
子どもたちは一斉に声を上げた。
そのとき、後ろの席にいた少女が手を挙げた。
「でも、お父さんが言ってた。魔王軍が農機具を作るようになってから、うちの畑が広くなったって」
別の少年も言った。
「うちの兄ちゃん、魔族の工場で働いてるよ」
子どもたちが落ち着くと、先生が俺に古い教科書を見せた。
『魔族は人間を襲う』と断定する文章があり、その横には子供たちが書いた訂正が貼ってある。
『襲った魔族もいる。
助けてくれた魔族もいる』
「教科書を書き換えるのか?」
「歴史は消しません。だけど、子供が自分で確かめられるようにします」
俺はその言葉を胸に刻んだ。
亡くなった母の墓へ向かう前、村長が一枚の古い手紙を渡した。
旅立った日に、母が書いて預けていたという。
母は「帰ってきた本人に渡してほしい」と村長に頼んでいた。
戦いの最中に行方を知らせれば、俺が無理に戻ろうとするかもしれないと案じていたらしい。
『帰ってきたら、強かった話より、無事だった話を聞かせておくれ』
俺はその場で読み終えられなかった。
魔王を倒せば褒められると思っていた。
だが、帰りを待つ人にとって一番大切だったのは、勝利ではなく生還だった。
夕暮れ、墓の前で俺は手紙をもう一度開いた。
「ただいま。遅くなった」
風が草を揺らした。
返事はなかった。
それでも、言えてよかった。
同じ墓地には、旅の途中で亡くなった仲間の墓もある。
遺骨を故郷へ運べなかったため、村の人々が遺品を納めた慰霊墓を建ててくれていた。
母の墓に手を合わせたあと、仲間の墓にも花を供え、長い間話せなかったことを話した。
「魔王を倒したよ。いや、正確には社長を辞めさせた。それから俺が社長になって……信じられないだろ?」
風が吹いた。
「みんなが生きていたら、きっと笑っただろうな」
帰り道、幼なじみが俺に小さな畑を見せた。
「空いてるぞ。失業中なら手伝え」
「社長の次は農夫か」
「嫌か?」
「いや。悪くない」
俺は初めて、明日の予定を自分で決められる気がした。
村の水路を見ていると、エリナの言葉を思い出した。
「次の判断を、誰か一人の肩に背負わせないでください」
俺がいなくても、村の人々は水を分け合う方法を話し合っている。
あのとき退任を決めた意味が、ようやく実感できた。
墓地から戻る道で、鐘楼に新しい避難経路図が貼られているのを見た。
昔は魔族の襲撃を知らせた鐘が、今は火事や洪水にも備えている。
「今日は避難訓練で鳴らしたけど、何も起きずに鳴らない日が一番いい日だよ」と子どもが笑った。
俺は鐘の綱を握らず、下の畑へ目を向けた。
水路のそばで、人間と魔族の職人が同じ図面を広げていた。
俺は笑った。
「それなら、俺がやったことは無駄じゃなかったな」
その夜、村の子どもたちが宿へ戻る俺に手を振ってくれた。
「また来てね、元社長!」
「元勇者って呼んでくれ!」
魔王を怖がる人が、少しずつ減っていく世界。
そんな当たり前の景色が、俺には何より眩しかった。
翌朝、帰り支度を済ませた俺は鐘楼の下で村の少年に会った。
昨日見た避難経路図の隣には、訓練の日程が貼り出されていた。
「勇者さん、あの鐘、鳴らしてみたい?」
「昔は、鳴るたびに誰かが逃げたんだ」
少年は驚いて鐘を見上げた。
「今は火事や洪水を知らせる鐘だよ。昔と違って、逃げるための道もみんなで決めてあるんだ」
村長が近づき、古い見張り台を修理する計画を見せてくれた。
戦争の記憶を消すためではない。
洪水を早く知らせるためだ。
「昔のことを忘れたわけじゃないんだな」
「忘れないから、使い方を変えたんです」
俺は村を出る前、鐘の綱を一度だけ握った。
鳴らさずに離す。
何も起こらない朝が続くことを、初めて願えるようになった。




