■第百十六話 新社長エリナが最初に廃止したのは、魔王の玉座だった
エリナが社長に就任して数日後、最初の改革案を掲示した。
『魔王の玉座を撤去し、博物館へ寄贈する』
「何してるんだ!」
「不要資産の処分案です。博物館が展示後の維持管理費を負担する条件で受け入れを検討しています。寄贈契約と施設管理部による搬出費用の承認が済むまでは動かしません」とエリナ。
二百年前に造られて以来、歴代の魔王や俺が座り、誰も座り心地がいいと言わなかった玉座。
維持費は毎年莫大。
溶岩式の床暖房まで付いている。
「社長室は普通の机と椅子で十分です」
「俺もずっとそう思ってた!」
「施設管理部からは維持費の報告も出ていました。それでも、なぜ廃止しなかったんですか?」
「魔王らしさがなくなる気がして……」
「その発想が、もう魔王です」
痛いところを突かれた。
撤去の決定までには、ひと騒動あった。
三者が反対していた。
施設管理部は搬出費を心配し、広報部は観光名所を失うと嘆き、元魔王は『威厳がなくなる』と抗議した。
エリナは三者を会議室に集め、まず費用を確認した。
「玉座の溶岩加熱に、毎月どれだけ魔力を使っていますか」
「小さな村が一か月に使う魔力と、ほぼ同じ量です」と施設管理部。
「誰も座っていないのに?」と俺。
「座っていなくても威厳は保温が必要なのだ!」と元魔王。
「威厳を温めるな!」
数日後、博物館からの受け入れ承諾書と施設管理部の搬出費用承認がそろった。
博物館への搬出当日。
社長室と廊下の境に張り出すように据えられていた巨大な玉座が台車に載せられると、元魔王はその脚にしがみついた。
「せめて記念に一度、座らせてくれ!」
「昨日も同じお願いをされて、お断りしましたでしょう」とエリナ。
「最後だと思うと惜しくなるのだ!」
作業員たちが困り果てたところで、配達員の若者が言った。
「その椅子を動かせば、廊下が広くなります。荷車を二台通せるようになりますよ」
ゼルガディスは廊下を見た。
病院へ向かう魔石の箱が、狭い通路で順番を待っている。
「……二台か」
「はい。雨の日の荷下ろしも早くなります」
元魔王はゆっくり手を離した。
「ならば運べ。威厳より、急ぐ荷物がある」
俺は耳を疑った。
「お前、今、まともなことを言ったな」
「元魔王を何だと思っておる!」
「威厳を保温する男だろ」
「それは忘れろ!」
搬出後の床には古いひび割れが見つかった。
ガンドルが補修計画を出し、エリナは費用と工期を掲示した。
玉座の撤去に反対した者たちも、展示の準備にはそれぞれの立場から協力した。
残った問題を誰が直すか決めることが、改革の本当の仕事だった。
搬出を終えると、広報部は博物館の展示計画を持ってきた。
玉座の横に『魔王軍株式会社の失敗と改革』という年表を置く。
戦争の栄光だけでなく、過重労働や損害隠しも説明する。
「わしの黒歴史を展示するのか」と元魔王。
「史料です」とエリナ。
「黒歴史を史料と呼ぶな!」
搬出から数週間後、展示設備と立入防止柵の準備が整い、玉座は博物館で公開された。
入館料の一部が戦争被害補償基金に回されることになった。
来館者が座れるのは記念撮影用の複製玉座だけで、本物は触れることのできない展示品だ。
元魔王は立入防止柵をまたごうとして、さっそく係員に注意された。
「わしは本物の魔王だぞ!」
「展示品にはお手を触れないでください」
「わし自身が展示品なのか!?」
博物館が公開されたころ、城では玉座の張り出しがなくなった廊下を荷車が二台すれ違えるようになっていた。
エリナは、場所を空けただけでは終わらせなかった。
社長一人に判断が集中していた仕事も見直した。
役員の決裁権限を分散し、従業員の苦情窓口を整備した。
重大事故は社長を経由せず独立監査役にも報告される。
「社長が知らないまま進むのは怖くないか?」と俺が聞く。
「社長がすべて知っているふりをする方が怖いです」
旧社長室の玉座跡は、部署をまたいで話し合える共同机の場所になった。
エリナの新社長室は、その隣の窓の広い小さな部屋だ。
来客用の椅子は四脚、壁には業務の進捗表。
机の上には、最初の三万通のうち調査を終えた件数が表示されている。
「玉座より落ち着かないな」と俺。
「数字が見えるからです」とエリナ。
「逃げ場がない」
「ええ。だから皆で分担します」
その数日後、新しい権限分担が農地での深掘り機の試験事故への対応によって試されることになった。
その日は、引き継ぎの残務を確認するため、俺も新社長室に顔を出していた。
地熱の兆候がある農地で、農業用の深掘り機を試験運転していたところ、地中の熱水を含む層に達し、熱水が噴き出したという。
俺は靴を履きかけたが、エリナは担当責任者へ状況を尋ね、運転停止の確認を取った。
「負傷者は?」
「なし。立入禁止区域の設定完了。地質調査班が向かっています」
「再稼働の判断は?」
「安全委員会の承認後です」
報告は簡潔だった。
誰も元社長の許可を求めなかった。
夕方、深掘り機の試験に立ち会っていた工場所属の若いドワーフ技術者が城へ来た。
「元社長に、礼を言いたくて」
「俺は何もしてないぞ」
「だからです。今回は現場の判断を信じてもらえた。昔なら、魔王の顔色を見てる間に事故が広がってた」
俺は返事に困った。
何もしないことが仕事になる日が来るなんて、思っていなかった。
翌朝、エリナは先に整備した苦情窓口と独立監査への通報制度について、具体的な利用方法と担当部署を掲示した。
『社長への異議申立て窓口――受付は総務部』『事故情報の直接通報――独立監査役へ』『予算超過の公開審査――申請先は財務委員会』。
社員が見上げていたのは玉座ではなく、誰でも読める掲示板だった。
吉岡が俺に言った。
「新社長は、魔王らしくありませんね」
「俺だって魔王らしくなかっただろ」
「ジーク様は、時折、玉座で昼寝をしておりました」
「言うな!」
俺は城門で来訪者の列を見た。
元社長でも、今は順番を守る立場だ。
不思議と、それが誇らしかった。
試験農機具は改修され、熱水が出た区域は地質調査を続けることになった。
共同浴場に使えるかは、安全性を確かめてから検討するという。
「現場だけで解決したのか」
「ええ」とエリナ。
俺は少し悔しくて、少し嬉しかった。
深掘り機の試験事故から数日後、権限分散を現場に根づかせるため、旧社長室の共同机で部署横断の会議が開かれた。
配達員が遠慮がちに手を挙げた。
「港の荷降ろしが遅れています。玉座があったころは、こんな小さな話をここでしていいのか分からなくて」
エリナは議題表にそのまま書き込んだ。
「小さくありません。誰かの夕食が遅れます」
ゼルガディスは机の端に座り、しばらく落ち着かなさそうにしていた。
「わしの席は、どこだ?」
「空いているところです」とエリナ。
元魔王は渋々、配達員の隣に腰を下ろした。
地図を覗き込み、荷車が通れない橋を指差す。
「ここを直せば早い」
「予算は?」
「……見積もりを取る」
玉座を失った男が、初めて会議でまともな答えをした。
さらに数日後、俺が一人で城を訪れると、受付の列には昔の部下だったオークもいた。
「元社長、先にどうぞ」と道を譲られかけたが、俺は首を振った。
「今日は同じ来訪者だ」
オークは少し驚き、それから笑った。
窓口の若いゴブリンが俺に名前と訪問目的を尋ねる。
俺は書類に『エリナ社長への挨拶』と記した。
「予約はありますか」
「……ない」
ゴブリンは丁寧に答えた。
「では、空き時間を確認します」
魔王を追放した男が、新社長の予定表に勝てない。
俺は苦笑しながら番号札を受け取った。
やがて吉岡が受付へやって来た。
「元社長。次回からも一般来訪者としてご予約をお願いいたします」
「俺、この城を救ったんだけど!?」
「はい。だからこそ、新しい規則を守るお手本になってください」
俺は番号札をしまい、苦笑した。




