■第百十五話 社長として最後の株主総会で、元魔王が勇者に一票を投じた
最初の引き継ぎ審査から三十日後、俺は再審査を受けて合格した。
これを受けて取締役会は臨時株主総会の日程を確定し、株主への通知を済ませた。
代表としての権限はまだ俺にあり、総会後の新取締役会で後任が選ばれた時点で退く予定だ。
もともとの退任予定日はさらに先だったが、後任体制が整ったため、取締役会は前倒しの手続きを進めることにした。
重要案件の決裁経路と、俺が不在のときの代行者を文書に残し、監査役が確認した。
「勇者の勘」を引き継ぎ書から消すのが最後の宿題だった。
その数日後、株主総会の一週間前に、俺は投資家向け説明会に呼ばれた。
壇上には売上高と営業利益の推移、返済予定、補償基金への拠出額が並んでいた。
「数字は良くなった。でも、何かを隠しているんじゃないか」
そう問うたのは、かつて軍需産業に投資していた老いたオークだった。
俺は首を振った。
「隠されていた約三万通の未処理文書の存在と調査状況を公開した。請求額が確定していない案件もある。分からないことは分からないと書いた」
「それで株価が下がった」
「ああ。下がった」
老オークは腕を組んだ。
「俺は戦争の儲けで家を建てた。孫には、その家のことをどう話せばいい?」
「俺にも答えはない。ただ、孫が同じ儲け方をしなくて済むようにはできる」
説明会の後、ボーン・グランデが俺を呼び止めた。
「年金基金は長く保有する。短期の株価より、社員が働き続けられることが大切じゃ」
「珍しくまともなことを言うな」
「千二百年生きておるからな。短期とは百年以内のことじゃ」
「長すぎる!」
総会当日の朝、城門前には賛成派と反対派が並んでいた。
補償基金を支持する遺族、配当を心配する小口株主、戦争に戻るべきだと叫ぶ古参兵。
俺は全員の前を歩いた。
「怖いですか」と吉岡。
「魔王城に突撃した日より怖い」
「今回は相手を倒して終わりにはできませんから」
会場後方には、戦争で家を焼かれた老婆も座っていた。
俺が頭を下げると、彼女は小さく手を振った。
壇上に立つ俺の手元には、魔王を追放するために買った最初の二株の記録がある。
あのときは敵を追い出せば終わると思っていた。
今日は、自分が退任するために株主へ説明する。
議題は三つ。
補償基金の継続予算、新体制への移行方針、そして取締役構成の変更だ。
最後の議題では、俺の取締役退任の届出を確認し、エリナの取締役選任を株主に諮る。
俺の取締役退任は、総会後の取締役会で後任代表が就任する時点で効力を生じる予定とし、それまでは現任取締役として必要な引き継ぎに参加する。
俺は代表取締役だけでなく取締役の職も退き、以後の経営判断には加わらない。
総会では取締役構成と移行方針を承認し、代表取締役の退任と次期代表の選定は、総会終了後に開く取締役会で正式に決議する。
最前列のミノタウロスが立った。
「戦争をやめて、結局われわれは得をしたのですか?」
「数字だけなら、戦争中より安定した。農機具、物流、住宅、医療、食堂。収入源は増えた。借金は残っているが、返済計画も監査も公開している」
俺は一息ついた。
「でも数字だけじゃない。家に帰れる社員が増えた。戦場に送られない子供が増えた。そこは胸を張れる」
「補償基金は利益を減らす!」別の株主が叫ぶ。
老婆が静かに立ち上がった。
「うちの家が燃えたとき、誰かの利益は増えたんだろうね」
会場から音が消えた。
俺は彼女に答えを求めなかった。
質問する権利は株主だけのものではないと、ようやく理解したからだ。
「退任する社長が、なぜ基金の将来まで決める?」
「俺一人では決めない。今日は予算方針を承認してもらう。運営は次の社長と独立理事会に引き継ぐ。俺の気分で止められないようにするためだ」
「次の社長が戦争を再開したら?」
「取締役会、株主、取引先、社員。誰も黙っていない。平和を守るのは俺の強さじゃない。異議を言える仕組みだ」
エリナが監査資料を掲げた。
「補償基金の支出は四半期ごとに公開します。受給者の個人情報は守り、独立監査を受けます。異議があれば調査窓口を設けます」
「本当に届くのか!」
「届かなければ、届かなかったことも報告します」
反対派の小口株主は納得した顔をしなかった。
それでも質問を取り下げなかった。
吉岡はその発言を議事録に残した。
採決の直前、ゼルガディスが立った。
「かつてわしは、反対する者を牢に入れた。今は反対する者にも発言時間がある。わしはそれを敗北ではなく、進歩だと思う」
誰も拍手しなかった。
ただ、みんなが最後まで聞いた。
元魔王は補償基金の継続議案に賛成票を投じた。
退任に伴う取締役構成の変更にも賛成すると、採決用紙に記した。
指先がわずかに震えていた。
集計は一度止まった。
委任状の記載が一件、株主名簿と一致しなかったのだ。
「急げば結果は変わらないだろう」と誰かが言った。
「急いで間違えたら、今日ここにいる意味がない」と俺は答えた。
エリナは投票を保留して本人確認を求め、吉岡は賛否双方の立会人を呼んだ。
確認が終わるまで会場は待った。
誰かの一票を都合よく消さない。
そのための時間だった。
やがて結果が読み上げられた。
補償基金の継続、可決。
新体制への移行、可決。
そして退任に伴う取締役構成の変更も賛成多数で承認された。
総会終了後、そこで取締役に選任されたエリナを含む新たな構成で取締役会が開かれた。
そこで俺の代表取締役退任とエリナの新代表就任が正式に決議され、代表権限の移行が完了した。
拍手が起きた。
最初の総会では魔王を追放して喝采を浴びた。
今度は自分が去るのに、同じように拍手されている。
「泣いてるのか、吉岡」
「目に議事録の紙粉が入りまして」
「無理するな」
俺も少しだけ目が熱かった。
壇上を降りると、ゼルガディスが待っていた。
「わしも、お前の退任に賛成したぞ」
「……お前が?」
「お前が辞めても、この会社は戦争に戻らん。そう確信したからな」
俺は手を差し出した。
元魔王が握り返す。
「ありがとう」
「ところで、退任祝いの宴会は経費で落ちるか?」
「感動を返せ!」
エリナが分厚い束を持ってきた。
「元社長。再審査には合格し、代表権限は今日から新社長へ移りました。ただし、未処理案件の説明と残務の引き渡しはまだ完了していません」
「今日ぐらいは休ませろ!」
「書類の管理と新しい決裁は私たちが引き取ります。元社長には、在任中の案件で確認が必要なときだけお尋ねします」
「最後の敵、強すぎるだろ……」
吉岡は反対意見がすべて議事録に残ったことを確かめ、投票用紙を保管庫へ運んだ。
俺はその背中を見送り、拍手だけでは会社は守れないのだと知った。
食堂では、昼の総会で反対票を投じた小口株主も席についていた。
俺は声をかけた。
「まだ納得していないか?」
「ああ。来年の配当は心配だ」
「それでも、ここへ来てくれたんだな」
「反対したからって、飯を食う権利までなくなるわけじゃないだろ」
俺は笑った。
彼も少しだけ笑った。
その晩、城の食堂で小さな送別会が開かれた。
議案や書類の話はいったん脇に置き、今日まで働いてきた人たちと食事をするための会だった。
ボルドがいつもより少しだけ厚い肉を焼き、ガンドルは壊れた椅子の脚を直してから席についた。
「退任祝いなのに、誰も俺を休ませてくれないな」と俺。
「今夜だけは、仕事の話をしないと約束します」とエリナ。
「それ、社長になって最初の命令か?」
「いいえ。皆で決めた送別会の約束です」
ゼルガディスがむせた。
吉岡は今日の議事録を食卓に持ち込もうとしたが、老婆に止められた。
「今夜は食べなさい。質問は明日もできるんだろう?」
「ああ」と俺は答えた。
「明日も、来月も、何年先でも」
老婆はようやく椅子に座った。
俺はそれを見て、最後の総会が成功したかどうかを初めて判断できた気がした。
誰かが質問できる場所が、俺がいなくなっても残る。
それで十分だった。




