■第百十四話 聖剣が退職届を出したので、勇者が丸腰になった
朝、俺の机に一本の剣と一枚の紙が置かれていた。
『退職届――退職希望日と本人の署名つき』
「……誰の?」
『私のです』
聖剣エクスカリバーが、やけに落ち着いた声で答えた。
退職理由には「休日不足」「これまで相談窓口がなかったこと」「鞘の老朽化」とある。
戦時中から緊急呼び出しが続き、平和になってからも会議や護衛で休みを取り損ねていたらしい。
「鞘なら新調するぞ」
『鞘だけの問題ではありません。
戦わずに済む時代なら、私も役目を変えたいのです』
「お前、剣だろ!?」
『先日の助言会議で、ようやく意思を持つ道具にも意見を述べる窓口ができました。
だから今、こうして退職の意思を正式に伝えられるのです』
「法律を覚えるのが早すぎる!」
理由は単純だった。
魔王を倒すために鍛えられた聖剣は、もう何年も誰も斬っていない。
代わりに書類を開封し、社長の護衛をし、時には会議の議事録を読み上げている。
『私は何のために存在しているのでしょう』
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
かつて聖剣は俺の誇りだった。
剣を抜けば敵が退き、勝利すれば歓声が上がった。
だが、剣を抜かずに済む日々が増えるほど、俺はその存在を当然のものとして扱っていた。
「辞めたら、どうするんだ?」
『考えています。
魔族と人間の子供に、戦わずに身を守る方法を教えたい』
「剣が、戦わずに身を守る方法を!?」
『だからこそ、教える意味があります』
俺は退職届を受け取り、傷んだ鞘をそっと磨いた。
修理を望むなら本人の同意を得て、退職手続きの間に職人へ預けよう。
「鞘は修理するか、新しくするか。お前が選んでくれ」
『まず修理をお願いします。
思い出のある鞘ですから』
新しい鞘を用意することはできる。
でも、聖剣が何をしたいかを代わりに決めることはできない。
希望を確かめてから、その日のうちに鞘を職人へ預け、修理を頼んだ。
修理中の移動には、刃を固定できる布張りの運搬用台座を使うことにした。
五年間の旅でついた傷が、まだ残っている。
「覚えてるか。最初にお前を抜いた日」
『あなたは私を抜く前に、柄を三回引っ張って転びました』
「その話は忘れろ」
『忘れることと記録しないことは別です』
聖剣はかつて、俺の命を何度も救った。
雪山では凍った道を照らし、砂漠では夜盗を退け、魔王城では最後まで俺の手の中にあった。
だが、その記憶の中で聖剣自身が何を望んでいたか、俺は一度も尋ねていなかった。
『あなたが敵を斬らなかった日のことも覚えています』
「いつだ?」
『山道で、腹をすかせた魔族の少年に食料を渡した日です』
俺は思い出した。
仲間には甘いと言われた。
少年は逃げるようにパンを持っていった。
『あの日、私は初めて、自分が抜かれなくても役に立てると知りました』
退職希望を受け付けた翌日、吉岡が必要書類をそろえた。
届を受理しただけではまだ退職は成立せず、本人の意思と安全管理を確認してから効力が生じるという。
聖剣には戸籍がなく、年齢は鍛造から千年以上、職種は『伝説の武器』。
吉岡は書類を前に頭を抱えた。
「扶養家族はいらっしゃいますか?」
『鞘は家族に含まれますか』
「判断に迷います」
「迷うなよ!」
エリナは本人の意思と安全管理を確認した。
退職の効力は手続き完了時に生じ、それ以降、聖剣は会社の指揮命令を受けない独立した存在になる。
学校への正式な講師就任は、見学と体験授業で適性を確かめてから決める。
聖剣の意思を尊重する独立確認書を交わし、退職後は会社の所有物として扱わないこと、移送と保管の責任を受け入れ先と個別に定めることを確認した。
学校とは体験授業一日限りの受け入れ確認書を交わした。
道中の移送は俺、教室の安全管理は学校が担当する。
聖剣本人には、いつでも参加を取りやめる権利がある。
正式採用後の報酬や教材費は、そのとき本人と相談して決める。
「それでいいか?」
『はい。
これで退職手続きも完了です。
これからは、活動する日も休む日も自分で決めます。
学校に採用されるかどうかは、体験授業の後で決めます。
ただし、子供に私を抜かせる授業はしません』
「当然だ」
俺は聖剣の台座に向き直った。
「会社の護衛としてじゃない。友人として、俺と一緒にあの老婆の村まで行ってくれ。移動中の保管と安全確認は俺が引き受ける」
『その頼みなら、喜んで』
聖剣の了承を得て、俺は布張りの運搬用台座を小さな手押し車に固定した。
刃が動かないことを本人と確かめてから、手押し車を押して村へ向かった。
道中、街道で荷馬車が横転していた。
その荷馬車の荷台の下敷きになった少年が泣いている。
俺は反射的に同行用の台座へ手を伸ばした。
柄に指が触れる寸前で、手を止める。
「……そうか。お前はもう、俺の武器じゃないんだった」
会社を退職して独立した聖剣を、俺の判断だけで抜くことはできない。
「エクスカリバー、力を貸してくれるか。剣として抜く必要があるなら、お前の判断に任せる」
『力は貸します。
でも、今回は抜かずに助けられます。
必要なのは刃ではありません』
『車輪を固定して、人を集めてください』
俺は周囲の旅人を呼んだ。
車輪を石と木片で固定し、荷台に綱を掛けて皆で少しずつ持ち上げる。
その隙に、俺が少年を引き出した。
誰も斬らず、誰も倒さなかった。
少年の母親が何度も頭を下げる。
『お見事です、ジーク』
「お前の指示だろ」
『一人で全部できることが強さではありません』
「分かった。お前の選んだ道が、少し分かった気がする」
『ありがとうございます』
救助した少年が無事に家族のもとへ戻るのを見届けてから、俺たちは村へ向かった。
そこには、魔王軍が焼いた家の跡が残っていた。
村で被害の記録を聞き取ったあと、俺たちはいったん宿に滞在した。
学校側とも予定と安全確認を済ませた。
数日後、約束していた体験授業の日になり、村の再建された学校を訪ねた。
教室では人間の子供と魔族の子供が同じ机で勉強していた。
教師が俺に言った。
「剣を持ってこられたんですか」
「怖がらせたなら、すみません」
そのとき、一人の少女が聖剣に近づいた。
「これ、しゃべるの?」
『しゃべります』
「すごい! じゃあ、剣を抜かないで守る方法、教えて!」
聖剣がしばらく黙った。
『まず、危険を見たら大人に知らせることです。
次に、一人で立ち向かわないこと。
そして、逃げるのは恥ではありません』
少女は真剣に聞いていた。
体験授業が終わり、片づけの時間になると、最初に質問した少女が聖剣に小さな布を巻いた。
花柄の剣帯だった。
「先生、これなら怖くないでしょ?」
『とても気に入りました』
俺は目を細めた。
魔王城で最も恐れられた刃が、花柄の帯をまとって教室に掛かっている。
その片づけの最中、教室に残っていた別の少女が尋ねた。
「もう誰も斬らないのに、どうして剣の形なの」
聖剣は長く黙ったあと、『忘れないためだ』と答えた。
少女は避難地図に赤い印をつけた。
「ここ、雨の日に滑るよ」
聖剣はすぐに教師を呼んだ。
かつて敵の弱点を探した目が、今は子どもたちの帰り道の危険を探していた。
帰り道、聖剣が言った。
『ジーク。
私は退職しましたが、あなたの友人まで辞めたつもりはありません』
「……それ、もっと早く言えよ」
『あなたが先に聞くべきでした』
俺は思わず笑ってしまった。
体験授業を終えたその日の夕方、城に戻ると、吉岡が待っていた。
出発前に職人へ預けていた古い鞘も、急ぎの修理が仕上がっており、磨き直された金具が光っていた。
『新しい鞘より、こちらが落ち着きます』と聖剣は喜んだ。
退職の申し出を受けた時点で準備を始めた警備担当の募集について、報告があるという。
「聖剣様の退職を機に、社長個人の護衛に頼る方式を改め、城全体の警備担当を募集いたしました。ジーク様の在任中はもちろん、エリナ様が社長に就任した後も、職員と来訪者を守る仕事です」
「もう?」
「退職届を受け取った時点で、城の既存の警備人員にも募集案内を回しておりました。応募者は三千名でございます。ただし大半は城内警備や巡回を希望する者で、社長個人の護衛候補はごく一部です。書類選考のうえ、護衛対象の同意を得て配置いたします」
内訳を見て、俺は頭を抱えた。
ドラゴン千二百、オーク九百、元魔王一名。
そのほかの種族から八百九十九名。
「最後のやつを面接に呼ぶな!」
『なお、元魔王様の志望動機は「暇だから」だそうです』
「余計に駄目だ!」
廊下では、子どもたちが新しい避難経路を相談していた。
その後、学校から正式な講師契約の申し出が届いた。
聖剣は内容を自分で確かめ、授業日と解除条件に納得してから承諾した。
剣を抜かない授業が、誰かを守り始めていた。




