■第百十三話 次期社長の選考会で、勇者だけが引き継ぎ審査に落ちた
退任の準備が進むにつれ、俺は社長としての仕事を一つずつ手放していた。
だが、最後まで手放せないものがあった。
自分の失敗を人に見せる勇気だ。
俺が取締役会に提案した退任予定日まで、残り百二十日。
ただしこれは引き継ぎが長引いた場合も含めた上限の目安で、再審査に合格し後任体制が整えば、取締役会の承認を経て前倒しできる日程だった。
予定どおりに退けるかは、引き継ぎと正式な選任が済むかどうかにかかっている。
「後継社長の選考を始めます」
候補者でもあるエリナは選考委員会から事務連絡だけを任され、採点や推薦投票には加わらない。
その立場を確認してから、エリナが宣言すると、俺は思わず拍手した。
「やっとだ!」
「なお、現社長は候補者の適格性審査とは別に、仕事を後任へ渡せるかどうかの引き継ぎ審査を受けます。取締役会から選考委員会へ、両方の審査を委ねています」
「なんで!?」
「引き継ぎ能力を確認するためです。案件一覧、未決裁事項、代行決裁者、過去の失敗記録は、審査開始日の三週間前が提出期限でした。期限を過ぎても審査は行いますが、未提出は不備として記録されます。先週も催告しましたよね」
「決めるのは俺か?」と尋ねると、エリナは首を横に振った。
「選考委員会が適格性を審査し、正式な選任は取締役会と必要な株主手続きで行います。現社長の指名だけでは決まりません」
自分が退くための会議なのに、俺には決定権がない。
そのことに、少しほっとした。
候補は三人。
会計責任者のエリナ、総務責任者のゴブリン吉岡、製造部門を立て直したドワーフのガンドル。
面接官には従業員代表、人間側の取引先、独立監査役のグレゴール、年金基金のボーン・グランデが並んだ。
最初に吉岡が問われた。
「社長として最優先することは?」
「誰か一人の判断で、会社が戦争に戻らない制度を守ることでございます」
次にガンドル。
「経営が悪化したら?」
「まず工場に来い。炉の火を消す前に、何が作れるか一緒に考える」
最後にエリナ。
「利益と補償が衝突した場合は?」
「両方を数字にします。利益を隠して補償を約束するのも、補償を無視して利益を出すのも、長続きしません」
俺は感心した。
全員、俺より社長らしい。
「では現社長ジーク、まず社長として失敗したことを三つ挙げてください」
俺は口を開きかけて、止まった。
勇者としての勝利ならいくらでも話せるのに、失敗は整理できていない。
砂時計の砂が落ち切り、エリナも助け舟を出さなかった。
「……今は答えられません」
面接官は記録を取り、次の質問に移った。
「後継者があなたと違う判断をしたら?」
「……反対するかもしれない」
「それでも退任できますか?」
俺は少し考えた。
「できる。会社は俺の剣じゃない。俺が握ってないと使えないなら、まだ完成してないんだ」
一次面接を終えた候補者の三人は、その後数日をかけ、選考委員会による審査の一環として、現場確認のためそれぞれ違う場所へ向かった。
最終面接を通過しても、その場で社長に決まるわけではない。
吉岡は社員食堂、ガンドルは工場、エリナは補償基金の窓口だ。
「どうして社長候補が現場を回るんだ?」
「社長室で考えた答えだけでは、面接に通りません」とエリナ。
食堂で吉岡は、休憩時間をずらされたゴブリンたちから苦情を聞いた。
工場のガンドルは、新しい機械が高齢の職人には扱いにくいことを知った。
基金窓口のエリナは、字の読めない申請者が書類を前に帰ってしまうのを見た。
現場確認の日程がすべて終わった翌日、選考委員会の報告会で、三人はそれぞれ失敗を報告した。
「私は制度を作れば皆が使えると思っておりました」と吉岡。
「俺は新しい機械なら誰でも喜ぶと思ってた」とガンドル。
「私は申請書の正確さばかり考えていました」とエリナ。
俺は自分が答えられなかった質問を思い出した。
帰ったら失敗した案件を三つ選び、判断の理由と代わりの手順を引き継ぎ書に書こう。
「なんだ、みんな失敗してるじゃないか」
「三人は現場の課題と改善案を提出しました。ジーク様は引き継ぎ書を仕上げてください」とエリナ。
「分かってるよ。俺は、次の人が困らないように失敗を記録しなきゃいけないんだな」
現場確認を踏まえた最終面接の日、独立監査役グレゴールは意地悪な質問をした。
「人間王国が取引を止めたら、何人を解雇する?」
ガンドルは即答しかけ、唇を噛んだ。
「まず在庫と受注と現金を調べる。工場を止める前に転用できる仕事を探す。解雇人数を先に決めるのは順序が逆だ」
吉岡には、かつて苦情を封印した過去について質問が飛んだ。
「あなたは指示に従って人々の声を隠した。今後も命令に従うのでは?」
「その危険はございます。だから私は、上司が止めても監査役へ通報できる経路を作ります。自分の反省だけを信用しない制度です」
エリナにはさらに厳しい問いが来た。
「利益が悪化したら、補償基金を削るか?」
「勝手には削りません。必要な拠出は計画に織り込み、赤字の原因を公開します。もし会社が倒れれば基金も続かない。だから利益を出す努力と補償は、どちらも逃げられない仕事です」
委員のボーン・グランデが骨の指を上げた。
「千二百年後の年金も守れるか?」
「その前に、来年の給付を確実にします」
「堅実すぎて眩しい!」
昼休み、俺はエリナを屋上へ呼んだ。
「本当は、社長になりたくないんじゃないか?」
「怖いですよ。会社の決断で、誰かの生活が変わりますから」
「じゃあ断ってもいい」
「怖いからこそ、引き受けます。怖くなくなったら、私は辞めるべきでしょうね」
俺は言葉を失った。
魔王を倒しに行った頃の俺は、怖さを認めることが敗北だと思っていた。
午後、選考委員会は候補者ごとの弱点まで公表した。
吉岡は過去の服従、ガンドルは財務経験の不足、エリナは仕事を抱え込みがちな癖。
誰かを英雄に仕立てるのではなく、欠点を支える役員体制を組むためだ。
「エリナが社長なら、吉岡とガンドルが支える。俺がいなくても?」
「あなたがいないからこそ、です」
俺は自分の引き継ぎ書を開いた。
最初の一ページには『重要案件はジークが判断』と書いてあった。
俺はそれを二重線で消し、『取締役会で審議』と書き直した。
それだけで、少し肩が軽くなった。
選考委員会は数日にわたる後継候補三人の面接を終え、俺の引き継ぎ審査だけを不合格とした。
判定と不備の一覧は委員会名義で正式に通知され、候補者であるエリナは採点にも通知内容の決定にも関与していない。
社長候補の落選ではなく、退任までに提出すべき資料の不備によるものだ。
再審査は三十日後と決まり、俺には不足する資料の一覧が渡された。
合格するまでは、後任への権限移譲を完了した扱いにしないと決まった。
「なんでだよ!」
「引き継ぎ資料は提出期限を過ぎても揃っていません。代行決裁者の一覧も未完成です」とエリナ。
「それは書類が多すぎるから!」
「期限を過ぎた時点で警告もお渡ししました。今は代行者の一覧を完成させましょう。再審査まで三十日です」
選考委員会の推薦投票では、エリナが次期代表取締役の第一候補に選ばれた。
正式な選任は取締役会で行われる。
吉岡は執行責任者、ガンドルは製造と技術の統括に残る。
選考委員会の報告が終わると、俺は不合格通知の裏に三つの失敗を書いた。
決定を急いで現場を混乱させたこと。
自分だけで責任を抱えたこと。
反対意見を聞くのが遅かったこと。
エリナは紙を読んで、「ようやく引継ぎ資料らしくなりましたね」と言った。
次の社長に必要なのは、勇者の伝説ではなく、同じ失敗を繰り返さないための記録だった。
「引き継ぎ書から、俺しか判断できない案件をなくすよ」
エリナは静かに答えた。
「それなら、次の社長も迷わず仕事を始められます」
重要な案件は一人で決めず、取締役会と監査役に通す。
「エリナ、本当に引き受けるのか?」
「はい。あなたが始めた会社を、あなたなしで続けてみたいんです」
「寂しくない?」
「寂しいですよ」
初めて、彼女が即答した。
「でも、寂しいからといって引き留めたら、私たちは何も変わっていない」
俺は窓の外を見た。
魔王城の周囲に畑が広がり、工場の煙突からは武器ではなく農機具の部品が運び出されている。
「じゃあ、俺は何をすればいい?」
「まず、遅れている引き継ぎ資料を出してください」
「感動の場面だったのに!」
聖剣が机の上で鳴った。
『私の有給休暇の残日数も記載してください』
「お前まで書類を増やすな!」
その日の夕方、引き継ぎの相談を終えて会議室を出ると、廊下で若い事務員が俺を待っていた。
「引き継ぎ審査に落ちて、悔しくありませんか」
「悔しいさ。候補の三人は自分の審査を通ったのに、現社長の俺は引き継ぎの準備すら終えられなかった。笑い話だろ」
「不合格の理由をもう聞く必要はありません。明日から、代行者の一覧と緊急時の決裁手順を一緒に作りましょう」
胸に刺さる言葉だった。
俺は魔王を倒す方法なら百通り考えられる。
それなのに、自分の失敗をすぐに認めることも、社員が病気で休んだときの決裁手順を引き継ぎ書に示すこともできていなかった。
「明日、引き継ぎ表を一緒に見てくれるか」
事務員は笑った。
「それなら、引き継ぎ審査に落ちた人でも参加できます」
俺は頷いた。
次の社長を決める会議に、前の社長ができる仕事も残っていた。




