■第百十二話 勇者が補償基金を作ったら、魔王が最初の個人寄付者になった
手紙や申請書など、約三万通の未処理文書を前に、俺は人生で最も重い計算を始めた。
どの記録の向こうにも、金額だけでは表せない暮らしがあった。
「会社として補償基金の設立を提案する。申請の採否も支出も、独立した理事会に任せる」
会議室が静まり返った。
「魔王軍の旧戦争資産を調べ直す。使っていない要塞は売却か公共施設に転用。役員報酬は見直す。利益の一定額を毎年基金に積む。国境を越えて被害申請を受け付ける」
エリナが補足する。
「請求の真偽を調べる独立審査会が必要です。魔王軍だけが判断すれば、自分に都合の悪い申請を退けられます」
人間王国の代表と魔族の遺族代表を同数にし、記録の専門家を加える案が出た。
金額の算定だけではなく、行方不明者の調査、墓地の整備、焼かれた農地の再生も対象にする。
「戦争で勝った者が払うのか?」と株主が聞いた。
「戦争で利益を得た会社が、記録を隠していた責任を負うんだ」
すると扉が開いた。
「ならば、わしも払おう」
入ってきたのは元魔王ゼルガディスだった。
旅行用の帽子に派手な花柄の上着。
世界征服を企てていた頃より、よほど怪しい。
「お前、何しに来た!」
「寄付だ」
「寄付?」
「わしの個人資産から五百万金貨を出す。保有する土地と預金の査定も受け、期限までに支払う」
「申し出は五百万金貨。ただし、今すぐ全額が入るわけではない」とエリナは議事録に記した。
寄付の申し出を受け、まず会社の取締役会が基金の設立と初動調査費の拠出を決議した。
拠出金の上限と使途を定め、会社の通常運転資金とは別の専用口座へ移した。
その後、関係者は数日かけて基金の規約を整え、人間王国と魔族の遺族代表、記録の専門家を含む理事を選任した。
被害を申し出た人には、調査の順番と次の連絡日を伝えた。
遺族代表も出席できる日を調整し、初めて理事会を開いた。
だが、その最初の議題から意見が割れた。
「人間の村を優先すべきだ!」
「魔族の遺族は後回しか!」
「現金を配れ!」
「現金では水路は直らん!」
俺が仲裁しようと口を開くたび、エリナが袖を引いた。
「社長が申請の採否や支出を決めてはいけません」
「じゃあ、誰が決めるんだ?」
「申請者と独立した委員が、公開した基準で決めます。社長の善意は、社長が交代したら消えますから」
最初に決まったのは、緊急性の高い飲料水と医療支援を先行することだった。
金銭補償は調査と並行して進め、行方不明者の捜索には専用の班を設ける。
理事会は、取締役会が承認済みの初動調査費の範囲内で現地調査を実施することを議決した。
専用口座の支出は独立した監査を受け、個々の申請の採否は会社の経営陣が決めない。
資産査定を受けて支払い計画が確認されると、ゼルガディスは五百万金貨の寄付契約に署名した。
初回分は三十日以内、残額は一年以内に基金専用口座へ送金する。
独立監査役が着金を確認し、未払いは理事会に報告する。
本人はその場で、最初の一枚を基金の箱へ入れた。
「これで償ったつもりはない」と彼は言う。
エリナは受領証を差し出した。
「だからこそ、誰がいくら負担し、誰に届いたかを公開します」
「五百万金貨で、どれだけ救える?」と元魔王。
「全件には足りません。最初の拠出にすぎません」とエリナ。
「……そうか」
元魔王は寄付の発表後、拍手を期待していたらしい。
だが理事会の外にいた遺族の男は、彼の顔を見るなり叫んだ。
「俺の兄を返せ!」
ゼルガディスは立ち止まった。
周囲の護衛が動こうとするのを、俺が制した。
「答えろよ、元魔王」
「……返せない」
「だったら何をする」
「記録を出す。命令した者の名も、わしの名も」
男は拳を震わせたまま去った。
元魔王は追わなかった。
追いかけて許しを求めることすら、相手への押しつけになると理解したのだろう。
翌週、基金に先行拠出された会社資金を使い、最初の現地調査に同行した。
村の水路は崩れ、井戸の底には焼けた石が詰まっていた。
ガンドルが土を握りしめる。
「石は運べる。水路も引ける。だが畑の土は、すぐには戻らねえ」
「何年かかる?」
「土を調べてからだ。分からねえことを分かったふりはしない」
元魔王が鍬を持った。
柄が太い腕に似合わず、小さく見えた。
「わしも掘ろう」
「魔王様、腰を痛めますぞ」と吉岡。
「魔王は腰を痛めぬ!」
三十分後、ゼルガディスは腰を押さえていた。
「……労災は適用されるか」
「ボランティア保険の範囲を確認します」とエリナ。
「お前ら本当に容赦がない!」
笑いが起きた。
だが畑の持ち主は笑わなかった。
彼は元魔王を見て言った。
「一日働いて、償った顔をするなよ」
「……ああ。明日も来る」
次の日、元魔王は本当に来た。
三日目も来た。
四日目には村人が彼の鍬の持ち方を直した。
和解ではない。
仕事のやり方を教えただけだ。
それでも、命令と恐怖しか知らなかった魔王には、大きな変化だった。
四日目の作業を終え、三人で城へ戻る馬車に乗った。
俺はまずエリナに聞いた。
「基金がいつか足りなくなったら?」
「支出の優先順位を説明し、追加拠出を議論します。払えない約束はしません。でも、払えないからといって記録を消すこともしません」
俺は帳簿の余白に一行書いた。
『補償は一度の善行ではなく、続ける義務である』
その文字を見たエリナは、初めて何も訂正しなかった。
しばらくして、向かいに座るゼルガディスに寄付を決めた理由を尋ねた。
「なぜ急に?」
「旅先で、わしの名前を聞いた子供が泣いた」
元魔王は帽子を脱いだ。
「わしは負けた戦争を覚えている。だが、あの子はわしに会ったこともない。それでも泣いた。つまりわしは、知らない誰かの人生をずっと壊していたのだ」
俺は返す言葉を探した。
謝罪の言葉を並べれば許されるわけではない。
退任の準備を進めるほど、補償を受ける順番を待つ遺族が胸に残った。
かつてなら聖剣を抜いて片づけようとしただろう。
「俺がいなくなっても、同じことができるか?」
エリナはうなずかなかった。
「基金を続けるのは、社長の善意ではなく、次に責任を引き継ぐ人たちです」
現地作業から帰城して数日後、俺たちは城の基金窓口を訪れた。
最初に申請した女性は、受領印を押されても席を立たなかった。
「夫の墓を探す人手は出せますか」
基金理事会の決定を受け、基金の事務局は支払い担当と調査担当を分けた。
エリナは会社側の連絡窓口として、その分担を確認した。
金貨を渡して終わりにしないためだ。
ゼルガディスは、五百万金貨の寄付契約とは別に、次回の調査隊に必要な費用を自分の個人資産から追加寄付すると申し出た。
金額はまだ決めず、見積もりと資産状況を確認してから正式に申し込むという。
エリナは受領前の金額を予算に含めず、理事会で使途と受領手続きを確認することにした。
女性は礼を言わなかった。
それでも申請書を置いて帰った。
その一歩を、俺たちは大切にした。
俺は署名欄から自分の名前を消し、次に責任を持つ人のための空白を残した。
寄付をしたことと、戦争責任の審査は別だ。
エリナは未入金の寄付を基金の残高に含めず、会社拠出金による初動調査の結果だけを理事会に報告した。
基金窓口を訪れたその日の夕方、以前、焦げた木片を預けた老婆が再び城に来た。
「金が欲しくて手紙を書いたんじゃないよ」
「分かっています」
「家が焼けたことを、誰もなかったことにしないでほしいんだ」
俺は保管時に撮影した焦げた柱の木片の写真を見せた。
「実物は社長室の施錠した証拠品保管棚でお預かりしています。引き継ぎ時も預かり記録と返却先を確認します」
老婆は小さくうなずいた。
夜、元魔王が俺に囁いた。
「ところで五百万金貨、経費にできるか?」
「お前、反省してるんだよな!?」
「反省と節税は両立する」
エリナが即答した。
「虚偽の経費計上は認めません」
元魔王は深くうなだれた。
「やはりお前が一番怖い……」
翌朝、基金の窓口に一人の老人が来た。
金貨の受け取りを断り、古い地図を机に置く。
「村の墓地が、今の道路の下になっている。金より先に、場所を調べてくれ」
エリナは支給額の欄に数字を書かなかった。
代わりに、調査担当と回答期限を記した。
「支払えないものも、あるんだな」と俺。
「はい。でも、聞かなかったことにはできません」
ゼルガディスは地図の端に記された村名を見つめた。
自分の命令書にあった地名だと気づいたらしい。
「わしも現地へ行く」
「謝罪のためか?」
「道を戻すためだ。謝罪は、そのあとも続ける」
元魔王が約束した寄付額は大きかった。
けれど基金が動き始めても、まだ救済を待つ人々がいた。
だが、この一枚の地図の前では、まだ仕事の始まりにすぎなかった。




