■第百十一話 魔王城の開かずの扉から、三万通の未処理書類が出てきた
翌朝、昨日開いた倉庫の前に、遺族と元兵士が集まった。
吉岡が棚と箱を概算したところ、未配達の手紙、修繕依頼、名簿などは合わせて約三万通に上った。
その未処理文書を前にして、誰もすぐには手を出せなかった。
「全部を今日、片づけるつもりか」と俺が尋ねる。
「いいえ」とエリナ。
「今日は、間違って捨てない仕組みを作ります」
吉岡は保管棚に番号を付け、封筒の元の位置を図面に写した。
古い地名を知る兵士、差出人を覚えている村人、傷んだ紙を扱える職人が同じ机につく。
ゼルガディスは箱の一つを見つめた。
「わしの命令で、ここへ運ばせたものだ」
「だったら、命令を取り消すだけじゃ足りない。受取人まで届けよう」
元魔王は黙って箱を持ち上げた。
仕分けの準備が整うと、吉岡が長机を増やし、社員を三十人集めた。
最初の指示は、どの書類にも赤い『処理済』の印を押さないことだった。
「なぜですか。事務処理の進捗が分かりません」
「書類を処理したことと、人の問題が解決したことは別だ。『受付』『調査中』『本人確認済』『対応中』『完了』を分けよう」
エリナが五種類の札を並べた。
完了にするには、本人か遺族への説明と確認を要する。
連絡先が消えた手紙は保留ではなく、所在調査の対象にした。
一通目は、壊された井戸の修繕依頼だった。
二通目は、徴用された兵士への未払い賃金。
三通目は、戦場で行方不明になった魔族の青年を捜す母親からの手紙だった。
「同じ魔族からも、こんなに……」
「戦争の被害者に、種族の境界線はありません」とエリナ。
吉岡が古い名簿を持ってきた。
兵站部の戦死者欄には、青年の名前があった。
だが埋葬地の記載はない。
母親へ送られた通知は『軍事機密につき回答不能』の一行だけ。
「俺たちは勝ち負けを数えた。誰が帰らなかったかを数えていなかった」
「社長、今からでも数えられます」
翌日、魔族の退役兵が一人、名乗り出た。
青年と同じ隊にいたという。
彼は地図に小さな印をつけ、頭を下げた。
「ずっと話せなかった。命令だったんです」
「証言を記録する。お前の身の安全も守る」
俺はその言葉を言ってから、初めて気づいた。
過去を明らかにするには、今を生きる人が安心して話せる場所が必要なのだ。
その日の午後、城門に一人の老婆が現れた。
「勇者ジークは、あんたかい」
「そうです」
「二十年前、うちの村を焼いた魔族の名前を知りたい」
俺は頭を下げた。
「調べます。必ず返事をします」
「謝るだけなら誰でもできるよ」
老婆は帰り際、焦げた木片を置いた。
「うちの家の柱だった。忘れないでおくれ」
俺は老婆に保管と撮影の可否を確認し、返却先を台帳に記録した。
木片は本人から一時的に預かった証拠品として保護箱に収め、社長室の施錠できる保管棚へ移した。
調査を始めて三日後、王国から調査官が来た。
彼らは封筒の山を見て眉をひそめた。
「魔王軍が自分で調べるのか。証拠を捨てる気では?」
「そう疑われるのは当然です。原本は封印した倉庫の施錠保管室に置き、王国と魔族の遺族代表が共同で管理します。閲覧には双方の立ち会いを必要とし、複写した日時と担当者も台帳に残します」とエリナ。
「第三者の立ち会いも必要だな」
「ええ。魔族の遺族代表も参加します」
一人の調査官が、調査資料に添えられた焦げた木片の写真を見つめた。
「それは何です?」
「被害を忘れるなと、預かったものです」
「展示物にするのですか?」
「まだだ。まず持ち主に、どうしてほしいか聞く」
その日の夕方、作業終了前の仕分け中に、若い職員が封筒を一通持ってきた。
「この宛名、同じ村の名前が二つあります。どちらへ送ればいいでしょう」
俺は地図を見た。
戦争で村が焼かれ、生き残った住民が別の土地へ移り、同じ名を新しい村につけたらしい。
「名前が同じだからって、勝手に送れないな」
エリナは両方の村に照会状を出すよう指示した。
「本人確認が取れるまで、中身は保管しましょう」
「いつ届くか分からないぞ」
「間違った相手に渡せば、もう取り返せません」
吉岡は封筒を箱に戻し、台帳に『照会中』と書いた。
俺は初めて、進まないように見える一日にも意味があるのだと思った。
その夜、仕分け作業を終えた部屋では、施錠と保管記録の確認のためにだけ灯りがついていた。
吉岡は当番の確認を終えると、職員を全員帰宅させた。
残業禁止の会社で、俺だけが机に残ろうとすると、吉岡が時計を示した。
「社長。確認が済んだら、今日はもう帰りましょう。明日も続ける仕事でございます」
「三万通もあるんだぞ」
「三万通あるからこそ、担当者を疲れ果てさせてはなりません」
俺は、宛名だけを確かめていた未開封の封筒を保管箱に戻した。
早く終わらせたいという気持ちも、誰かの都合だった。
必要なのは速さだけではない。
途中で誰も置き去りにしない仕組みだ。
廊下に出ると、清掃担当のオークが小声で言った。
「社長。うちの親父の手紙も、あそこにあるかもしれねえ」
「探そう。見つからなくても、話は聞く」
オークは何も言わず、深く頭を下げた。
俺はそれを見て、社長室の玉座がひどく遠い場所に思えた。
「明日の朝、倉庫の存在、概算件数、文書の種類、調査体制と未確認事項を正式に公表する。ただし、差出人の名前や住所は勝手に公表するな。まず一通ずつ確認して、本人か遺族に連絡する」
「大炎上しますよ」とエリナ。
「当然だ。燃やされた村の人たちは、もっと前から怒ってる」
調査方針を決めた翌朝、倉庫の存在と調査状況を正式に公表すると、魔王軍株式会社の株価は急落した。
暗黒銀行のバルガスが電話越しに吠えた。
『ジーク! なぜ自分で不祥事を発表した!』
「隠したまま利益を発表する方が不祥事だろ!」
『それは正しい。
正しいが、株価が急落して、私の保有株の評価額がほぼ半分になった!』
未処理文書を分類する机は、すぐに足りなくなった。
吉岡は工場から長机を借り、封筒を受け取るたびに二人で宛名を照合した。
ある老人は請求額の欄を空白にしたまま、故郷の井戸の場所だけを記した。
「金より先に、村があったことを残してくれ」
俺はその用紙を特別扱いせず、しかし数字だけの箱にも入れなかった。
公表した日の夜、エリナが言った。
「社長。退任の予定日まで、残りは四か月ほどです」
「……長いな」
「短いですよ。三万通ありますから」
「退任までに読み終わらない!」
「だからこそ、あなたが辞めても続く仕組みを作るんです」
初めて、辞めることが逃げではなく、責任になるのだと思った。
吉岡は保管記録を照合し、老婆の許可を得て撮影済みの木片の写真を調査資料に添えた。
柱の焼け跡を、賠償金の数字に変えてしまわないためだ。
「宛先の分からない手紙は、どれほど届くんだろうな」
俺が尋ねると、吉岡は番号を記した札を掲げた。
「今は分かりません。だから、届かなかった理由も残します」
机の隅には、宛先不明の封筒が積まれている。
かつての俺なら、すべて解決してから報告しようとしただろう。
だが今夜は、未解決の数まで帳簿に書いた。
その翌朝、最初の照会状を持った配達員が城門を出ていった。
剣を抜かなくても、まだ誰かのところへ届けられるものがある。




