■第百十話 勇者が最後に倒したのは、魔王城の開かずの扉だった
魔王城の廊下で、遺族の女性が夫の遺品だという古い鍵を握っていた。
かつて夫が軍の書類運搬を手伝った際に預かった鍵だという。
戦況の悪化で担当部署が解散し、返却先が分からないまま遺品として残されたらしい。
彼女は今日、夫の手紙を探すために城へ来たのだ。
「扉を開ければ、夫の名前があるかもしれません」
俺は剣に手をかけ、すぐに離した。
ここで必要なのは力ではない。
吉岡は封印台帳を開き、ゼルガディスは誰よりも先に、その扉の前で立ち止まった。
長く放置された錠前は錆びつき、夫の遺した鍵を差しても回らなかった。
錆が深く食い込み、扉の隙間から乾いた紙の匂いだけが漏れている。
『斬れば早いぞ』と聖剣。
「中に手紙があるかもしれない。燃えたら取り返しがつかない」
『私は斬るだけです。
燃やしてはいません!』
「前に火花で倉庫を焦がしただろ」
聖剣は黙った。
吉岡が封印台帳を照合し、ガンドルが錠前の蝶番を少しずつ外した。
ゼルガディスは壁に刻まれた古い命令番号を見つけて顔色を変えた。
「この倉庫は、わしが閉じさせた」
「何を隠した?」
「戦況が悪化しているという報告だ。兵士の負傷記録も、家族への手紙も……まとめて止めた」
遺族の女性が鍵を握り直した。
「夫は、帰ってくると書いていました」
誰も返事をしなかった。
扉が開くと、棚いっぱいの封筒が見えた。
未開封の手紙は、棚の奥で年月を重ねていた。
封筒の角は丸く擦れ、宛名の村にはもう存在しない地名もある。
吉岡が破れた封に触れかけると、遺族の女性が「そのままで」と止めた。
金貨も武具もない。
村の名前が書かれた箱と、配送されなかった手紙、負傷者の名簿が並んでいた。
女性は一通を見つけた。
差出人は夫の筆跡だった。
彼女は封を開けようとして、手を止める。
「最後の言葉だったら、怖いんです」
「読まなくてもいい」と俺は答えた。
「持ち帰っても、ここへ預けてもいい」
「読まなければ補償を受けられませんか?」
エリナが即座に首を振った。
「いいえ。手紙を読むかどうかと、補償申請は別です。どちらも本人が決められます」
女性は長く息を吐いた。
見つけた封筒を吉岡に渡し、管理番号と宛名を確認してもらった。
吉岡は封筒を保管箱へ戻し、本人が持ち帰ると決めるまで封を開けずに預かることにした。
「今日はまだ読めません。でも、明日があるから」
ゼルガディスは封印命令書を机に置いた。
署名は彼自身のものだった。
「知らなかったとは言えぬ。わしは、届けるべき言葉まで止めた」
「謝れば終わると思うなよ」と俺。
「分かっておる。終わらせるつもりもない」
元魔王は棚の前に膝をつき、最初の箱を運び出した。
吉岡は箱に番号を付け、元の配置を記録した。
封筒の宛先が読めないものは廃棄せず、別の台帳へ。
届け先が見つかっても、本人の同意なしに中身を公開しない。
調査の監督には遺族代表にも入ってもらう方針とし、代表の選出方法は後日、遺族側と協議することにした。
「これを全部、今日中に?」と俺。
「手紙や申請書、名簿を合わせて、約三万通の未処理文書がある可能性がございます」と吉岡。
「剣で戦争を終わらせる方が早かった……」
『私の出番は?』
「紐を切るな。封筒まで切るから」
『信用がない!』
日が暮れる前、女性は中庭で気持ちを落ち着け、手紙を持ち帰る決心をして倉庫へ戻ってきた。
「夫の名前があることは分かりました。まだ、読む勇気はありません」
吉岡は本人確認を行い、手紙の管理番号と受領日を台帳に記録した。
女性が受領欄に署名したのを見届けて封筒を渡し、希望すれば後日、会社の保管庫へ預けられることも説明した。
女性はそこで初めて封筒を鞄にしまった。
女性はゼルガディスを見た。
「許したわけではありません」
「それでよい」
「でも、手紙を残してくれていたことだけは、よかった」
元魔王は答えず、深く頭を下げた。
廊下へ出ると、俺は腰の鞘に収まった聖剣を見下ろした。
扉を開けるのに必要だったのは、剣ではなく、待つ時間と手を動かす人たちだった。
「明日は俺も仕分けを手伝うぞ」と俺。
吉岡は予定表を開き、少し考えてから閉じた。
「では、勤務時間内でお願いいたします。休暇は調査が軌道に乗ってから改めて確保しましょう」
「……休むにも段取りが要るのかよ」
扉の向こうでは、ゼルガディスが一通目の宛名を確かめていた。
女性を見送るため城門へ向かう前、ゼルガディスは倉庫の入口に小さな札を置いた。
【この部屋にある手紙は、受取人のものです】
「命令書ではないのか」と俺が聞くと、元魔王は首を振った。
「わしが閉じた扉だ。今度は、わしが勝手に開けぬための約束だ」
遺族の女性はその札を読み、鞄の中の封筒をそっと押さえた。
「明日、仕分けを手伝いに来てもいいですか」
「もちろん。無理はしないでください」
彼女はうなずいた。
夕暮れ、俺は遺族の女性を城門まで送った。
城門の外で、遺族の女性は一度だけ振り返った。
開いた扉が見えるわけではない。
それでも彼女は、長く閉ざされていた廊下の方を見つめていた。
「明日、来られなかったら」と彼女が言う。
「来週でも、来年でもいい」と俺は答えた。
「あなたが決めてください」
女性は鞄を抱き直した。
「夫の手紙を読む日は、私が決めます」
その声は震えていたが、はっきりしていた。
俺は彼女を見送った。
女性が城門へ向かったあと、ガンドルは錠前を布で包んだ。
「これは捨てるのか」と俺が聞く。
「いや。誰が、どんな理由で閉じたのか分かるように残す」
ゼルガディスは錠前に触れかけ、指を引っ込めた。
「閉じた者の名前も記すべきだな」
「お前の名前だ」と俺。
「承知している」
元魔王は初めて、言い訳をしなかった。
倉庫の外では、若い職員たちが箱の運び方を相談していた。
職員たちは白い布手袋をはめ、棚の位置を記録してから封筒を扱い始めた。
吉岡は女性の手紙とは別の箱にあった封筒を確かめながら、作業を止めた。
「どうした?」
「受取人の同意を得る前に、こちらの都合で中身を読もうとしておりました」
俺は頷いた。
「急いでいるからって、また誰かの声を奪うところだったな」
エリナは方針を具体的な作業手順に落とし込んだ。
宛名と所在の照会を先に行い、開封の可否は受取人または適切な権利者に確認する。
調査目的で開封が必要な場合も、権限と立会人を記録する。
「これだと、三万通を調べるのに何年かかる?」
「分かりません」とエリナ。
「勇者が魔王を倒すより長いかもな」
「でも、早く終わらせるために隠したのが、この倉庫です」
俺は反論できなかった。
夜更け、廊下に一人の老兵が立っていた。
かつてこの扉の前で見張りをしていたという。
「手紙を運び込むたび、泣き声が聞こえた気がしました」
「なぜ誰にも話さなかった?」
「命令でした。命令を破れば、家族がどうなるか怖かった」
ゼルガディスが静かに言った。
「その命令を出したのは、わしだ」
老兵は何も言わずに頭を下げかけた。
元魔王が止めた。
「頭を下げるのは、わしの方だ」
長い沈黙のあと、老兵は明日の仕分けを手伝うと申し出た。
古い地名なら覚えているという。
俺はその名前を吉岡の名簿に書き加えた。
扉を開いたからといって、失われた時間が戻るわけではない。
それでも、閉じていた間に言えなかったことを話せる場所が、ようやくできた。
受取人の意向を尊重するという約束を、明日の仕分けでも守らなければならない。
ゼルガディスはその名簿の前で立ち止まり、「わしが決めてよいことは、もう少ないのだな」と呟いた。
勇者の仕事は、誰かの代わりに扉を壊すことだけではない。
扉の向こうへ進むかどうかを、その人自身が決められるようにすることなのだ。




