■第百九話 元敵商会長が魔王軍の監査役になり、社長室が静かになった
既存の監査役に加え、株主総会で新たに監査役に選任された元敵商会長グレゴール。
その就任初日の朝、社長室の扉には新しい札が掛かっていた。
【監査対象資料保全中につき、資料保管区画への関係者以外の立入禁止】
「ここ、俺の部屋なんだけど! 仕事はどこでするんだ!」
扉の向こうから、聞き慣れた嫌味な声が返ってきた。
「会社の部屋だ。社長個人の城ではない。監査資料のある一角だけを封印して保全する。資料の搬出を避けるため、通常の決裁は一時的に隣の会議室へ移してもらう」
「それを元敵に言われると腹立つな!」
グレゴールはかつて、人間王国の商会を率いて魔王軍との取引を妨害した男だ。
戦争の時代には俺を裏切り者と呼び、商業会議所で散々罵った。
そんな男を監査役に迎えたのは、ほかでもない俺だった。
「味方だけで監査したら、見落とすものがあるだろ」
エリナは監査役への就任に先立ち、三つの確認事項を提示していた。
監査報告を経営陣が書き換えないこと。
監査役が過去に関わった取引は別の担当者が調べること。
監査結果は社員代表にも示すこと。
グレゴールは一つずつ確認して署名した。
「私は君が嫌いだ。だが数字はもっと嫌いになれない」
「数字が好きって言い方、ほかにないのか」
就任初日の午後、彼は港の契約書に赤い印を付けた。
「この倉庫賃料は高すぎる。しかも貸主は、私が昔出資した会社だ」
「自分の取引を告発するのか?」
「だから私が結論を出してはいけないと言っている。既存の監査役と外部監査人に調査と判断を任せ、私はこの案件から外れる」
俺は思わず目を見開いた。
敵だった男の口から、真っ先に自分の利益を疑う言葉が出るとは思わなかった。
外部監査人が来るまで、倉庫契約の更新は保留になった。
港湾組合から抗議が届く。
《倉庫が使えなければ、魚が腐る》
「監査のために現場を止めるわけにはいかない」と俺。
グレゴールは机を叩いた。
「業務を止めないための暫定契約を、執行側で検討すべきだ。私は契約案を決める立場ではない」
「それなら、エリナと港湾担当者に案を作ってもらおう」
「商売をしていれば普通に考える。君はすぐ剣を抜くから知らんだけだ」
「最近は抜いてないだろ!」
「抜かない剣を持って歩くのも、なかなか奇妙だ」
聖剣が鞘の中から抗議した。
『私にも監査を受ける権利がある!』
「お前は何を監査してほしいんだ」
『研磨費だ。
昨年から予算が減っている』
「また経費の話かよ!」
笑いが起きたのは、その一度きりだった。
短期契約の可否を判断するため、エリナと港湾担当者が現地調査を行い、俺も同行した。
グレゴールは審査担当ではなく、過去の取引の経緯を説明する証言者として現場に立ち会った。
質問も当時の契約内容を確認するためのもので、監査報告の作成や判断には加わらない。
監査上の判断は、既存の監査役と外部監査人に任せる。
帳簿では広大な保管施設になっているが、実際には半分の建物が空だった。
「魚が腐ると言っていたのに、使ってない倉庫があるじゃないか」
港湾組合長は苦い顔をした。
「雨漏りするんだ。修繕費が出ず、閉めている」
「なのに賃料は全棟分?」
グレゴールが尋ねると、組合長は古い契約書を差し出した。
倉庫を借りる会社には、修繕費の負担義務がなかった。
貸主は契約更新のたびに賃料を上げ、修理は先延ばしにしていた。
「昔の私は、この条項で儲けた」
グレゴールが静かに言った。
「お前が書いたのか?」
「直接ではない。だが、この契約方式を商会に広めたのは私だ」
組合長は怒りを隠さなかった。
「なら、今すぐ金を返してくれ。魚を守るために借金したんだ」
俺はグレゴールを見た。
彼は目を逸らさず答えた。
「私個人が負うべき債務か、会社が負うべき債務か、まず確かめる。逃げるつもりはないが、約束できない金額を口にするのも無責任だ」
「監査役のくせに、言い訳が上手いな」
「商人だったからな」
俺たちは空の倉庫を一つずつ見て回った。
屋根の穴から光が落ち、床には古い麻袋が散らばっていた。
隣の棟では、職人が腐りかけた木材を取り除いている。
エリナが修繕の見積もりを取り、吉岡が代替倉庫の空きを調べた。
エリナと港湾担当者が、短期契約の対象を使用可能な棟だけに限定し、修繕の責任を貸主に戻す案をまとめた。
貸主との条件確認を終えた後、エリナが執行側の決裁権限に基づいて暫定契約を承認し、港湾担当者が締結を進めた。
グレゴールは利害関係を申告し、この判断には加わらなかった。
「これなら今夜の荷は守れる」
組合長は少しだけ表情を緩めた。
だが、外部監査人が到着すると新たな問題が見つかった。
グレゴールの旧商会は、倉庫の貸主に出資しているだけではない。
修繕を請け負う工務店にも資金を貸していたのだ。
「つまり修繕が必要になれば、あんたの昔の仲間が儲かる?」
俺の問いに、グレゴールは頷いた。
「その可能性がある。だから入札の選定にも私は加わらない」
監査人は関係者一覧を作り、入札参加企業の実質的な出資者を公開するよう求めた。
「そこまで調べるのか」と俺。
「社長が信頼しているかどうかではなく、他人が検証できるかどうかです」と監査人。
帰り道、グレゴールは港を眺めていた。
「敵の会社へ入るより、自分の昔の商売を調べる方が怖いものだな」
「辞めるか?」
「いや。私が辞めても契約は残る。だったら、最後まで見届ける」
翌週、修繕工事の入札は三社で行われた。
最も安い会社ではなく、雨季までに屋根を直せる工程を示した会社が選ばれた。
価格だけで決めない理由も、議事録に残された。
組合長は完成した屋根を見上げて言った。
「今度は、誰が得をしたかより、魚が濡れないかを見ればいいんだな」
グレゴールは苦笑した。
「それが本来の倉庫の仕事だ」
監査の途中、グレゴールは退任予定を祝う食事会の予算申請を差し戻した。
「祝うなとは言わん。だが、社員全員の昼食代より高い飾り花はいらん」
ボルドは献立を見直し、余った予算を食堂の椅子の修理に回した。
俺は監査役に礼を言おうとして、彼の赤ペンが次の書類に向かうのを見た。
敵だった男に仕事を任せられる。
それが何よりの変化だった。
夕方、グレゴールは俺に古い請求書を差し出した。
戦争中、彼の商会が魔王軍へ食糧を売った記録だった。
「これは私の汚点だ。取引で利益を得た一方、王国では魔王軍と商売した者を非難した。私は他人を責める資格があるのか、ずっと考えていた」
「だから監査役を引き受けた?」
「資格があるかは分からん。ただ、私の過去を隠したまま監査する方が悪い」
エリナは請求書を受け取り、利益相反の事実を既存の監査役と外部監査人に報告した。
監査報告への記載内容は、経営陣ではなく監査担当者自身が判断する。
「隠さないことが、信頼の始まりです。信用してもらえるかどうかは、これからの仕事で決まります」
グレゴールは苦笑した。
「厳しいな、次の社長は」
「まだ候補です」とエリナ。
「なら候補のうちから厳しくしておくといい。社長になってからでは、誰も注意してくれなくなる」
俺はその言葉を覚えておこうと思った。
監査報告の公開日、港の労働者たちが会議室へ来た。
監査報告の結論は、担当した既存の監査役と外部監査人が説明した。
グレゴールは判断には加わらず、求められて過去の契約経緯を証言し、雨漏りした屋根の写真を机に並べた。
契約の欠陥が現場で何を起こしたか、全員が見られるようにするためだ。
組合長は補償の交渉を続けると宣言したが、監査報告の公表には賛成した。
グレゴールは「私の名も削らないでくれ」と言った。
エリナは頷き、経営側の再発防止計画に実施期限と担当者を明記した。
監査報告書そのものには手を加えなかった。
責任を認めることと、責任を果たすことは違う。
俺はようやく、その差を理解し始めた。
翌朝、社長室の扉から札が外れていた。
代わりに小さな箱が置かれている。
【監査役への匿名意見箱】
最初の投書は吉岡だった。
《社長が会議の資料を読まずに出席します》
「吉岡、お前な!」
グレゴールは嬉しそうに赤ペンを握った。
匿名意見箱の投書を受け、グレゴールは次の監査項目として会議資料の事前配布と閲覧記録を挙げた。
「社長にも、読んだかどうかを確認するぞ」
「そこまで監査するのか!」
「現場の失敗だけを調べて、経営者の怠慢を見逃すわけにはいかん」
「……最初の改善指摘は俺か」
俺はこの男を監査役に推薦したことを、ほんの少し後悔した。
だが、その後悔こそ必要なのだとも思った。




