■第百八話 勇者が辞めると言ったら、魔王軍が初めて反対しなかった
俺が退任の意向を社内に伝え、正式な退任日だけをまだ決めていなかった翌朝、魔王城の食堂はいつもどおり混雑していた。
オークたちは朝食を取り、ゴブリンたちは配送表を確認し、誰も俺の顔を見て仕事を止めなかった。
少しだけ寂しい。
「社長、計画案の確認を」と吉岡が書類を差し出した。
『後継者への権限移譲計画(案)』。
署名欄の下には、俺が今まで一人で決めていた仕事が四十七項目も並んでいる。
「こんなに抱えていたのか」
エリナは頷いた。
「勇者様が全部背負っていたのではありません。皆が、あなたの決裁を待たされていたんです」
胸に刺さった。
試しに俺は、その日の出荷許可を現場責任者へ任せた。
ところが港で荷車が一台止まった。
新しい担当者が判断をためらっていたのだ。
俺が駆けつけると、彼は頭を下げた。
「社長ならどうしますか」
俺は口を開きかけ、閉じた。
「お前はどうしたい」
彼は積み荷の送り先を確認し、別の荷車を手配した。
十分にできていた。
午後、ゼルガディスが社長室へ押しかけた。
「辞めるなら玉座を返せ!」
「お前はもう魔王じゃないだろ」
吉岡が冷静に言う。
「玉座は会社の固定資産です。退任者にも元魔王にも譲渡できません」
聖剣が笑った。
『最後まで椅子の取り合いか』。
夕方、エリナが引き継ぎ表の確認欄に署名した。
彼女の筆跡は迷いがなかった。
「私が間違えたら、皆に止めてもらいます」
計画はまだ途中だ。
現場が本当に自分で判断できるか、確かめる必要があった。
翌週、港で本当に問題が起きた。
代行責任者が出荷を止めたせいで、商会から違約金を請求されたのだ。
「やっぱり俺が決めるべきだったか」
俺が口にすると、エリナは請求書を伏せた。
「理由を聞く前に結論を出さないでください」
現場の責任者は、積み荷の木箱に破損があると報告した。
中身は医療用の魔石。
検査せずに出せば、病院で事故になる可能性があった。
「止めて正解だったのか」
「はい。ただ、取引先への連絡が遅れました」と責任者。
「それなら改善点は連絡体制だ。お前が判断したことじゃない」
俺は違約金の交渉に出ようとしたが、彼は首を振った。
「社長、次は私にやらせてください。現場の交渉権限で条件を詰め、減額や会社負担の最終承認だけはエリナさんにお願いします」
初めて、助けを断られた。
それは担当者が自分で責任を引き受け始めた証拠でもあった。
だが、間違ったときに相談できる相手がいるなら、俺が全部引き受ける必要はない。
引き継ぎの演習には、もう一つ試験があった。
社長が丸一日、連絡を取れなくなった場合だ。
「俺を牢に入れるつもりか?」
「休暇を取っていただくだけです」とエリナ。
「その方が怖い!」
俺は城の外れの畑で一日を過ごした。
最初の一時間は落ち着かなかった。
港で事故が起きたら、病院で魔石が足りなくなったら、取引先が怒ったら。
頭の中では何十件もの危機が生まれ、勝手に膨らんでいく。
演習の規則では、俺への連絡は本当の緊急事態に限られている。
昼過ぎになっても誰も来ない。
俺は何度も街道を振り返ったが、畑の向こうには人影すらなかった。
昼食に持たされたパンをかじりながら、俺は仕事のことを考えるのをやめようとした。
俺は自分に言い聞かせた。
「必要なときに相談できることと、毎回許可を取ることは違う」
そう分かっていても、何も頼まれないのは少し寂しかった。
だが、それは誰かが自分の判断で仕事を進められるようになった証拠でもあった。
夕方、俺は畑の端で、農夫が収穫した芋を運ぶのを手伝った。
誰も勇者としての判断を求めない。
代わりに、泥だらけの籠を一つ渡された。
「重いぞ、社長さん」
「ああ。だが、これなら俺にも運べる」
剣も決裁印も持たない一日は、思ったより忙しく、思ったより平和だった。
夕方、演習が終わると、吉岡がまとめた報告書が届いた。
船便の遅延も病院の予備魔石の確認も、担当者だけで処理されていた。
俺への決裁依頼は一件もなかった。
翌日、港の責任者が商会との交渉を終え、エリナが減額条件と会社負担分を承認した。
商会は検査に必要な時間を認め、違約金の一部を取り下げた。
残った費用は会社が負担し、現場責任者への罰則にはしなかった。
「これでいいのか?」と俺。
「満点ではありません」とエリナ。
「でも、誰かが責任を隠さず、次に改善できる結果です」
俺は引き継ぎ表に、最後の一項目を書き加えた。
【失敗した担当者を一人にしない】
ゼルガディスが覗き込む。
「勇者よ、わしの失敗も対象か?」
「お前の失敗は量が多すぎる。別冊だ」
「差別だ!」
笑い声の向こうで、港の鐘が鳴った。
俺の指示を待たず、今日も船が出ていく。
翌朝、港の掲示板には、前日の遅延と原因、代替便の時刻が並んでいた。
責任者の名前も、相談窓口もある。
誰かを責めるための掲示ではない。
次に同じことが起きたとき、誰でも判断できるようにするためだ。
俺はしばらくその前に立っていた。
元魔王が隣に来て言う。
「勇者よ、暇そうだな」
俺は否定しかけ、やめた。
「少しな」
ゼルガディスは得意げに笑った。
「ならば皿洗いを手伝え」
俺は笑い返した。
「それなら、現場責任者の指示を仰がないとな」
数日後、港の責任者から手紙が届いた。
『先日は判断を任せてくださり、ありがとうございました。
ただ、次に迷ったときは相談させてください』。
俺は返事を書いた。
『いつでも相談してくれ。
ただし、現場に委ねた決裁権限の範囲では、最後に決めるのはお前たちだ。
範囲を超える契約変更はエリナと経営会議へ上げてくれ』。
書き終えると、俺は社長室へ戻った。
机には、計画案を正式な引き継ぎ手順へ仕上げるための書類が一枚だけ残っていた。
俺は自分の署名欄を見て、少し迷った。
最後の仕事まで一人で決めてしまえば、また同じことの繰り返しになる。
そこでエリナを呼び、二人で手順を確かめ、正式な引き継ぎ手順として記録した。
その夜、俺は社長室の鍵を机に置き、翌朝の担当者へ渡すための札を添えた。
まだ社長を退任したわけではない。
ただ、俺しか開けられない部屋を、少しずつなくしていくのだ。




