■第百三話 神様が全員退職したので、世界の管理職がいなくなった
祈祷窓口の前に老人が並んでいた。
神々が退職したと知らず、いつもの時間に来たのだ。
受付の掲示には「代行未定」とだけあり、薬を必要とする老人にとってはそれが最も怖い言葉だった。
「明日も閉まるのかい」と聞かれ、吉岡は即答できなかった。
俺は札を裏返した。
「休業の理由と、代わりに相談できる場所を書こう」
管理職がいなくても、困る人が消えるわけではない。
ガンドルは壊れた装置を前に、修理代より交換代が安いと言った。
俺が交換を決めかけると、年老いた職人が止めた。
「新しい装置を扱える者は、この村にいない」
見積書にはなかった教育費が、そこで初めて計上された。
神界の祈祷窓口に「本日休業」の札が下がったのは、日の出の十五分前だった。
それだけなら、俺も笑って済ませたかもしれない。
ところが日の出そのものが十五分遅れた。
「社長、太陽が遅刻しています」
吉岡が時計を突きつけてきた。
「俺に言うな。太陽の上司は知らないぞ」
「神界の運行課です。その運行課が全員退職しました」
窓口の奥では、祈りの伝票が天井まで積まれていた。
農村からは雨乞い、港からは追い風、病院からは夜明け前の治療支援。
どの伝票にも、受理印が押されていない。
セラフィが引き出しを開けた。
そこには退職届が三百七十二枚、綴じ紐で束ねられていた。
「残業が百日続いた部署もあります。神々は祈りを聞く仕事を嫌になったわけではありません。聞いたあと、何も決められない仕組みに疲れたんです」
「どういうことだ?」
「雨を降らせるには河川課、農業課、航海課の承認が必要です。三課が合意する頃には、雨雲が消えています」
ゼルガディスが腕を組んだ。
「ならば命令すればよい」
「それで三百七十二人が辞めたんだろ」
元魔王は黙った。
自分の古い統治方法を思い出したらしい。
俺は職員名簿を手に取った。
退職者の名前の横には、後任者の欄がない。
「神様が辞めるのは自由だ。だが、世界の運行を一人に押しつけるのも違う。引き継ぎに協力してもらえないか、まず頼もう」
「強制ではありませんね」とエリナ。
「もちろん。給料も出す」
「神々への給料ですか」
「世界を動かしてるなら、働いてるだろ」
俺たちは祈祷窓口を三つに分けた。
命に関わる緊急依頼、期限のある生活依頼、急がない相談だ。
祈りの内容を覗き見る権限は、必要な担当者だけに限定した。
最初に来たのは港の船長だった。
「追い風はいらん。今日は海を静かにしてくれ。帰港する船がいる」
次は農夫。
「雨は欲しい。でも収穫前の畑だけは避けてくれ」
二人の願いを一緒に叶えるには、天候を動かすだけでは足りない。
地域と時刻を細かく決める必要があった。
「願い事って、こんなに矛盾するんだな」
セラフィは小さく笑った。
「だから担当者は、ずっと調整していたんです」
午前中、俺たちは神界の運行台帳を持って港の見張り台へ向かった。
窓口の中で計画を立てるだけでは、どの願いが切実なのか分からなかったからだ。
港には、夜明けの遅れで出航できなかった漁船が並んでいた。
魚を積んだ箱には氷が足され、漁師たちは空を見上げていた。
「十五分でこれほど影響が出るのか」
「潮の満ち引きに合わせて出る船もあります。遅れが次の遅れを呼ぶんです」
船長は航海表を広げた。
いつもなら太陽の位置で確認する浅瀬が、今朝は闇に沈んでいたという。
「誰も死ななかったのは運が良かっただけだ。明日も同じなら船は出せん」
俺は頭を下げた。
社長が頭を下げたところで太陽は動かない。
それでも、影響を受けた人に向き合う必要はあった。
港の向こうでは、農家の一団が風向きを巡って漁師と口論していた。
農家は雨雲を畑へ呼びたい。
漁師は雲が海へ流れれば危険だという。
「どっちの願いを優先する?」
吉岡の問いに、俺は即答できなかった。
エリナが地図を広げ、川の流域を指でなぞった。
「雨を降らせる場所と時間を分けましょう。ただし、神の力だけで解決する前提は捨てます。畑には貯水池、港には灯台の補助灯が必要です」
「それ、神界の仕事じゃないだろ」
「だから私たちの仕事なんです」
帰り道、神界の古い職員寮に寄った。
廊下には荷造りした箱が積まれ、退職した神々が静かに茶を飲んでいた。
「復職を頼みに来たなら帰ってくれ」
最年長の雲の神が言った。
「違う。何が一番つらかったのか聞きたい」
「願いを断ると罰せられた。引き受けても失敗すれば罰せられた。上司は承認印だけ押し、現場には一度も来なかった」
隣の若い神が、破れた手帳を見せた。
三十日分の勤務表に休みは一つもなかった。
「雨を降らせた翌日に洪水になったとき、村の人から責められました。私だって助けたかったのに」
「責められるべきは、一人に決めさせた仕組みだ」
俺は退職届を返すようには言わなかった。
代わりに、引き継ぎを希望する人だけが参加する講習会を提案した。
講師料と時間上限を明記し、参加しなくても不利益はないと伝えた。
雲の神は返事を保留した。
ただ帰り際、廊下の窓を少し開けてくれた。
雨の匂いがした。
神界へ戻ると、セラフィが緊急連絡表を作っていた。
依頼を受けた人が倒れたとき、代わりに誰が判断するかまで記入してある。
祈祷窓口の代行表が完成すると、吉岡は老人たちに一枚ずつ手渡した。
紙の上には神の名前ではなく、診療所の受付時間と緊急連絡先が書かれている。
「神様が戻るまで待てってことじゃないんだね」と老人が言った。
俺はうなずいた。
世界の管理を引き受けるというのは、壮大な宣言ではなく、明日の朝に開く窓口を約束することなのだ。
「これは昔の神界にはなかったのか?」
「責任者はいました。でも責任を分け合う人はいませんでした」
俺は表の一番下に、俺自身の名前を書き加えた。
現場の判断を奪うためではない。
失敗したときに、担当者だけを矢面に立たせないためだ。
午後、退職した神の一人が戻ってきた。
老人の姿をした風の神だ。
「復職はせんぞ。ただ、あの港には私が教えた航路がある。新人が事故を起こすのは見たくない」
「それで十分だ。教える時間は決めてくれ。無理は頼まない」
老人は初めて俺の顔を見た。
「魔王軍の社長は、神を働かせるのではなく休ませるのか」
「休まないと辞めるって、今日知ったからな」
翌日の試験運行では、セラフィが初めて判断を保留した。
港の風と畑の雨が衝突したのだ。
俺は「社長命令で決めろ」と言いかけ、飲み込んだ。
代わりに港と農村の代表を呼び、互いの事情を直接聞いてもらった。
決まったのは、早朝は港を優先し、午後に貯水池へ雨を集める計画だった。
誰も満点の回答とは言わなかった。
それでも全員が、自分の意見が扱われたことだけは確認できた。
セラフィは新しい運行表に、決定理由と再検討の日付を書いた。
その日の夕方、太陽は予定より二分遅れて沈んだ。
完璧ではない。
けれど窓口には、新人の名前が一つ書き加えられていた。
【運行課臨時担当 セラフィ】
「お前、引き受けて大丈夫なのか?」
「時間外勤務はしません。それから、業務を一人で抱えません」
「いい条件だ」
エリナが横から書類を差し出した。
「社長にも同じ条件を適用します」
「俺の退勤時間まで決めるな!」
神々の退職届は、責任者の名前だけを空白にしていた。
吉岡は臨時の担当表を貼り、必ず二人一組で引き継ぐようにした。
「神様一人に任せていた仕事を、人間一人に押しつけるわけにはいきません」
「太陽の退勤時間を守りたいなら、まずご自分からです」
窓の外では、少し遅れた夕焼けが港の海を赤く染めていた。




