■第百二話 魔界は黒字なのに、神様が世界の赤字だと騒いでいた
神界の会計監査室には、赤い数字だけが大きく掲示されていた。
エリナは帳簿の裏面を見つける。
「こちらの収益は、なぜ集計されていないのですか」
担当の神は目をそらした。
俺は机を叩きかけて手を止めた。
怒鳴るより、抜けている一行を見つけるほうが早い。
監査官は帳簿の合計欄だけを指して、祈りの徴収を正当化した。
エリナはその下に、港の灯台守が提出した勤務日誌を広げた。
数字の誤りが誰の生活に影響したか、まず一人分から確かめるためだ。
夜勤明けの灯台守は、監査室の椅子で眠りかけていた。
神界への祈りを捧げるために、灯台を無人にした時間があるという。
「通貨ではないから損失ではない」と監査官が言う。
エリナは航海日誌を開き、その間に座礁しかけた船の名前を示した。
「金額にできない損失を、存在しないことにはできません」
エリナは監査室の黒板を二つに分け、左に確認済みの魔界事業収支の黒字、右に「神界運営費・暫定赤字/監査継続中」と記した。
世界全体の収支を確定する資料は、まだそろっていない。
「少なくとも、この帳簿だけで世界全体が赤字だとは言えません。神界の管理費には、精査すべき支出が多すぎます」
監査官は顔を赤くした。
「神々の威厳を維持するには費用がかかる」
吉岡が領収書を読み上げる。
「雲上宴会場の改装費、金色の椅子百二十脚、雷鳴演出の外注費」
聖剣が笑った。
『椅子は百二十脚も必要か。
尻は何個ある』
「黙れ」と俺は言ったが、笑いをこらえるのに苦労した。
しかし笑って終わる話ではなかった。
赤字の穴埋めとして、神界は港の灯台から祈りの徴収量を増やしていた。
夜勤明けの灯台守は、祈りの儀式に呼ばれて睡眠を削られたという。
「眠くて船を見落としたら、誰が責任を取るんですか」
監査官は答えられなかった。
エリナは徴収の停止と、過去の負担を調べる独立監査を要求した。
「魔王軍に神界の徴収を止める権限はありません」と監査官。
「だから神界の評議会に臨時決議を求めます。会計監査室だけで決める話ではありません」
「祈りは会計上の現金ではありません。人が自由に捧げるものです」
神界の会計官の一人が、こっそり改装費の発注書を差し出した。
上司の署名がある。
「私もおかしいと思っていました。でも言えば、翼を取り上げられる」
俺は発注書を受け取り、会計官の名を公表しないと約束した。
監査官の怒声が響く中、エリナは二つの帳簿を一冊に混ぜず、それぞれの責任者へ返した。
赤字の原因を誰かの暮らしに押し付けないためだ。
監査室の壁から『世界の赤字』という看板が下ろされ、代わりに神界の運営費と住民への負担を分けた暫定報告が掲示された。
「世界の価値と、神界の予算は別です」とエリナ。
監査官は不満そうだった。
エリナは先ほど求めた独立監査に加え、内部告発者を守る手続きも評議会へ提案した。
その日のうちに、灯台守への負担と帳簿の集計漏れを記した緊急報告が神界評議会へ送られた。
翌日、評議会は当事者の勤務日誌と徴収命令を確認し、関係部署から事情を聴いたうえで臨時会を開いた。
収支の確定を待つ間も被害が続くことを理由に、独立監査の結論が出るまで義務的な祈りの徴収を暫定停止する決議を行った。
過去に負担を強いられた人々の勤務時間も調べることになった。
数日後、灯台守に最初の通知が届いた。
金額の返還だけではない。
次の当直には代わりの人員が付くと書かれていた。
その後、独立監査人が神界各部門から提出された帳簿を照合した。
「どこまで調べたんだ?」と俺。
「提出済みの神界の帳簿だけです。未提出の証憑と、人間界・魔界の帳簿は今回の暫定監査に含めていません」とエリナ。
監査人の暫定報告によれば、神界が当初公表した赤字額の約半分は、別部門の収益を集計から外したために生じた見かけの赤字と推定された。
「じゃあ、残りは本当の赤字か?」
「支出超過が疑われます。ただし証憑が欠けていて、金額は確定できません」
監査人は暫定比率だけを示し、確定額の公表を保留した。
神々は安心しかけて、未確定の支出超過が残っていると知り、再び黙った。
俺たちは住民向けの支出を削る前に、豪華な儀式の経費と空席のままの役職手当を調べた。
「数字を直せば終わりじゃない。次の決算で同じことが起きないようにしないと」
神界の担当者は、月次報告を外部監査人にも提出する方針を評議会に諮ると約束した。
「赤字は消えたか?」
「まだです。でも、隠されていた負担は見えるようになりました」とエリナ。
さらにエリナは、翌月から神界の会計を「運営費」「儀式費」「住民に課した負担」に分けて掲示する案を出した。
徴収の再開は監査結果と評議会の再審議を条件にする。
「でも、儀式を減らしたら神々の仕事がなくなる」と若い会計官が言った。
「仕事をなくすのではなく、何のために必要かを説明するんです」とエリナ。
灯台守が手を挙げた。
「祈るのは嫌じゃない。船を見張る時間まで奪われるのが困るんだ」
俺はその言葉を議事録の最後に残した。
数字の表を直すだけでは、次の徴収命令は止められない。
俺は窓の向こうの灯台を見た。
あの灯りを守るのは、神々の帳簿ではなく、眠る時間を削って働いてきた人たちなのだ。




