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ツグミノミ〜魔獣たちに贈る終の診療録〜  作者: 透羽柚紀
CASE 01 神獣と呼ばれた魔獣
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【ツグミノミ】 CASE 01-6 神獣と呼ばれた魔獣 イルミルカル

 ツグミは、白銀のイルミルカルの傍らにしゃがみ込んだ。


「リナさん」

 ツグミの視線が、リナと交わる。

 リナが、クゥと短い声を上げた。


 その声を受けて、ツグミは「ありがとう」と頷いた。

 先ほどまで浮かべていた笑みは消えていた。

 ツグミの静かで真っすぐな瞳が、リナを映していた。


 ラグは思わず息を止める。

 道草を食ってばかりで、いつもラグに怒られているツグミではない。


 生守師、ツグミ。

 魔獣を診るときだけ、彼女は誰よりも静かで、誰よりも強い。


「リナさん。触るよ」

 返事の代わりに、白銀の耳房がかすかに震えた。


 ツグミは、リナの鼻先から手の甲ひとつ分ほど離れた場所へ、右手を差し出した。

 リナが少しでも怯えたなら、すぐに手を引くつもりだった。


 長い沈黙が流れる。

 荒い呼吸だけが、夜の森へ溶けていった。

 やがて、リナがほんの少しだけ鼻先を伸ばす。


 ツグミの手の匂いを嗅ぎ、またクゥと小さく喉を鳴らした。

「ありがとう」

 ツグミはゆっくりと手を近づけ、リナの頭に触れた。


 その瞬間、表情が変わる。

 一瞬で、生守師の目になった。

「……体が熱いね。熱があるみたい」


 頭を撫でていた指を滑らせ、耳の内側へ触れる。

 本来ならほのかな桃色をしているはずの皮膚が、青く変色していた。


「血の巡りもよくない」


 呼吸数。

 胸郭の動き。

 腹部の張り。

 筋肉の震え。

 瞳孔。

 爪。

 毛並み。


 ツグミの目と指先が、見るべき場所を迷いなく追っていく。

 ラグは、その横顔から目を離せなかった。


 いつだって、ツグミはずるい。

 昼間まで頼りないツグミの姿とは、まったく違う。

 ツグミはリナの呼吸を見つめたまま、静かに息を吐いた。


「ガルシア」

「……何だ」


「いつから、ご飯を食べられなくなった?」

 ガルシアの耳が動く。


「五日……いや、六日になる」

「水は?」


「昨日から、ほとんど飲んでいない」

「そう」


 ツグミは小さく頷き、リナの胸の動きを見つめる。

 胸が上下するたび、耳房の先端が細かく震えていた。


「……苦しいね」

 その一言に、リナはゆっくりと目を閉じた。


「助かるか?」

 ガルシアの声は、縋るように震えていた。


 ツグミはすぐには答えなかった。

 リナを見つめたまま、静かに尋ねる。


「ここで話していいの?」

 リナが、ガルシアの頬を鼻先で突いた。

 ガルシアは目を伏せ、しばらくしてから頷いた。


「ああ。いい」

 ツグミは唇を噛んだ。

 止めていた息を、深く吐き出す。


「……助からない」

 森が静まり返った。


「今日を越えられるかも、わからない」

 ガルシアの喉から、低いうなり声が漏れた。


 けれど次の瞬間、リナが首を傾け、ガルシアの肩へ頭を乗せる。

 ガルシアは何も言わず、白銀の額へ鼻先を寄せ返した。


「そう……だな」

 声がかすれている。


「そう……だ。わかっていた」

 わかっていることと、受け入れられることは同じではない。


 ガルシアはまるで自分に言い聞かせるように、一つひとつ言葉とともに細く息を吐いた。

「もう少し触るね」


 ツグミが耳房へ指先を添える。

 房毛は力なく垂れ、一本一本から艶が失われていた。

 イルミルカルは耳房の毛に魔力を巡らせ、周囲の気配を感じ取り、幻惑の力を操る。


 しかし、そこにあるはずの魔力の脈動は、ほとんど感じられなかった。

「背中に触るよ」


 ツグミは手を滑らせ、リナの背中の中央へ手のひらを置いた。

 目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。


 ツグミの周囲に、小さな風が起こった。

「……魔力の流れが、どこかで止められている」


「魔力の流れって何?」

 ラグが背後からそっと尋ねた。


「人間の身体に血が流れているように、魔獣の身体には魔力が流れているの。それが身体を動かして、命を保っている」

 ツグミはリナに触れたまま答えた。


「でも今は、その流れが何かに堰き止められている」

「取り除けないのか!」

 ガルシアが、声を上げた。

 ツグミはゆっくりと手を離す。


「身体のどこかに、花石ができていると思う」

「花石……」

「花石は魔力が滞った場所に生まれる石だよ。最初は小さくても、魔力の流れに沿って少しずつ広がっていく」


 ツグミは静かに続けた。

「石が大きくなるほど、身体の隅々まで魔力が届かなくなる」

 ラグは思わず息を呑む。


「その病気が……」

 ツグミは小さく頷いた。


「魔蝕病」

 ガルシアの耳が震えた。


「……それが病の名か。」

「うん」

 告げられた名が、その重さごと静かな森へ落ちた。


「今、リナさんの身体は魔力が巡らないせいで、全身が少しずつ弱っている」

 ガルシアはリナを見つめたまま低く唸る。


「なら、俺の魔力を使え」

 黒い毛並みが逆立つ。


「俺から奪えるものなら、全部くれてやる」

 ツグミは静かに首を振った。


「命も魔力も、分けられるものじゃない」

 その声は優しかった。


「それに今のリナさんには、大きな魔力を受け止める力が残っていない」

 ガルシアは何も言わなかった。


 ただ耳が力なく伏せられる。

 わかっていた。

 それでも、何かできる方法があると信じたかった。

 リナが小さく喉を鳴らす。


 乾いた息だった。

「どこか苦しい?」

 ツグミが鼻先をそっと撫でる。


 リナは口を少し開け、浅い呼吸を繰り返した。

 その様子を見つめていたガルシアが呟く。


「ずっと水を欲しがる」

 視線が森の奥へ向く。

「川にも連れて行った」

 苦しそうに目を閉じる。


「……でも、飲めなかった」

 リナの舌は乾ききっている。


 水を口へ含もうとするたび、激しく咳き込み、苦しそうに顔を歪めていた。

「苦しいよね」

 ツグミは頷いた。


「喉だけが渇いているんじゃない」

 リナの耳房が小さく震える。


「身体そのものが魔力を欲しがっているんだと思う」

 ツグミはゆっくり立ち上がる。


「リナさん」

 視線は老樹へ向いた。

「この木の根元に来たのは、リナさん自身?」

「あぁ」

 ガルシアが答える。


「ここだけは落ち着くらしい」

 ツグミは老樹へ近づき、幹へそっと手を添えた。

 目を閉じる。


「そういうことか」

 ラグが首を傾げる。

「どういうことです?」

「リナさんと、この木」

 ツグミは幹を撫でた。


「魔力の波長が、とてもよく似てる」

 そう言うと、ツグミは老樹を抱きしめた。


「ツグミさん!?」

 ラグが慌てて声を上げる。

 ツグミは何も答えない。


 目を閉じたまま、小さく歌い始める。

 囁くような旋律。


 森の風に溶けるほど静かな歌だった。

 枝葉がざわめく。

 葉の隙間から、淡い光が一つ、また一つと浮かび上がる。

 夜空の星がこぼれ落ちてきたようだ。


 光は歌へ導かれるようにツグミの両手へ集まっていく。

 ラグは息を呑む。

 幻想的な光景の中心に立つツグミが、どこか人ではない存在のように見えた。


 胸が締め付けられる。

 このまま光へ溶けてしまいそうで。


「ツグミさん……」

 思わず手を伸ばしかける。


 その瞬間、歌が止んだ。

 ツグミは老樹から身体を離す。

 その両手には、淡い光をまとった水が静かに揺れていた。

 ゆっくりとリナの前へ膝をつく。


「飲めそう?」

 リナは鼻先で匂いを嗅いだ。

 ためらうように舌を伸ばす。


 小さく舐める。

 こくり。

 喉が一度だけ動いた。


「飲んだ……!」

 ラグは思わず声を上げた。


 リナはもう一度舐める。

 そして、今度は迷わず光の水を飲み始めた。


 一口。

 また一口。


 荒れていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。

 開きっぱなしだった口が閉じる。


 耳房が風を受けるようにふわりと揺れた。


「……よかった」

 ツグミは小さく微笑んだ。


 ガルシアは目を見開いたまま動けない。

 何かを必死に堪えるように喉が震える。


「……礼を言う」

 深く頭を下げた。


「リナがまともに、水を飲めたのはおまえのおかげだ」

 リナがガルシアへ鼻先を押しつける。


 ガルシアも低く喉を鳴らした。

 まるで、うまいかと尋ねているようだった。


「これで魔渇は、少し和らぐと思う」

 ラグがツグミの服を引き、耳元でこっそり尋ねた。


「今のは何ですか?」

「生守師だけが歌える歌」


「歌で水を作ったんですか?」

「作ったんじゃないよ」


 ツグミは老樹を振り返った。

「リナさんが一番落ち着ける場所から、少しだけ魔力を借りたの」

「木から?」


「うん。リナさんと、この木の魔力はよく似ていたから」

 ラグは老樹を見上げた。

 先ほどまでただの大木にしか見えなかった枝葉の隙間に、淡い光がまだいくつか残っている。


「そんなこともできるんですね」

「得意なんだ」

 ツグミは照れたように笑った。


「そばに座ってもいい?」

 ツグミはふたりから少しだけ距離をとって、土の上に座り込むと膝を抱えて座った。


「ずっと、一緒に生きてきたの?」

 リナの目が和らいだように見えた。


「あぁ、300年は経つだろう」

 ガルシアが答えた。

「昔は村なんてなかったんだ。この辺り一帯、森だった。リナは気が強く、出会う度に噛みつかれた」


 リナがグゥッと非難のような声をあげる。

「そういうな。実際、俺の腕にはリナに噛まれた傷が残ってるんだ」

 ガルシアとリナが何か話しているようだ。

 ガルシアもリナも穏やかな声だ。


「素敵だね」

 ツグミの言葉に、ラグは力強く頷く。


「村ができてしばらくした頃、人の子が森で迷っているのを見つけた。泣いていたその子を、リナが背に乗せて村まで送ったんだ。翌日、その子は一輪の花を持って会いに来た。それから村の者たちは、リナを神だと言い始めた」

「リナさん、本当に綺麗だものね」


「あぁ」

 ガルシアは素直に頷く。

 リナが恥ずかしそうに目を伏せる。


「人間と馴れ合う気はなかった。だが、我らは森を見回り、時に人間たちは感謝の品を持ってきた。そんなことが続いた」

「村にリナさんの銅像があったよ」


 ガルシアはこくり、首を振る。


「半年前、リナがうまく走れなくなった。最初は足を痛めたと思った」

 ガルシアの耳がペタッと力なく倒れる。


「すぐに治ると思った。だが、リナの感知する力が衰えているのがわかった。何かおかしいと思った」

「そうだったんだね」


「リナの力が時折、暴走して森全体が幻惑に巻き込まれるようになった。人間たちが急に剣を持ち、向かってくるようになった」

「……辛かったね」

「人間と仲間になったことなど一度もない。だが……」


 言葉を切って、ガルシアの視線が地面に落ちる。

「お前たちは、いつだって勝手だ」

 ツグミは視線を空に向ける。


 木々の隙間から、夜空のかけらが見える。

 謝るのは違う。


 その気持ちの一部を感じているようで、苦しい。

 リナの耳房がピクリと震える。


 房毛が逆立ち、空気がわずかに揺らいだ。

 老樹の葉がざわめき、ガルシアが顔を上げる。


「グゥッ……」

 リナが突然、苦しげな声を上げた。

 ツグミは弾かれたように立ち上がる。その動きに反応し、ガルシアが警戒して身を固くした。


「ガルシア、待って」

 ツグミは両手を見える位置に上げたまま、ゆっくりとリナへ近づこうとする。


「リナ! 苦しいのか? なんとかしてくれ!」

 ガルシアの焦った声が森に響いた。

 次の瞬間、リナの耳房が大きく逆立つ。


 白銀の房毛から、眩い光が弾けた。

「リナ! 俺だ!」

 ガルシアが呼びかける。


 だが、リナの黄金色の瞳は焦点を失っていた。瞳には確かにガルシアが映っている。それなのに、彼の姿を見てはいない。


 リナは苦しげな声を上げ、ガルシアの前脚へ噛みついた。

「グァッ!」

 ガルシアは振り払わない。


 牙が深く食い込んでも、低く喉を鳴らし続ける。

「大丈夫だ、リナ。我がそばにいる」


 痛みに耐える声にも、リナは激しく首を振った。

 耳房から白い粒子が噴き出す。


 光は風に乗り、森全体へ広がっていった。

 ラグの視界がぐにゃりと歪む。


 木々が大きくねじれ、枝が蛇のように四方八方へと延びていく。

 地面は波打ち、まっすぐに立つことすらできない。


「ツグミ……さん」

 込み上げた吐き気に、口を押さえながら、ラグはその場に膝をついた。

 頭の奥で、誰かが泣いている。


 耳を塞いでも、涙まじりの叫び声は消えない。

 救いを求める声が、幾重にもラグを縛りつける。


 なぜだ!

 力もないのに。


 無力なラグを責め立てるように、頭に響く声。

 ガンガンと頭の中に鳴り響く鐘。


 後頭部を殴られたような痛みが走る。

 必死に意識を保とうとした。


 霞む視界の向こうに、かろうじてツグミの姿が見えた。

 髪も服も激しい風に煽られているのに、その足は動かない。


「ツグミさん……平気、なんですか」

「平気じゃないよ」


 ツグミはリナから目を離さずに答えた。


「つらいし、吐き気がする」

 声はかすれていた。


 それでも、恐怖や動揺は表に出さない。

 こらえているのだ。


 ツグミは、生守師だから。

 今、一番苦しいのが誰なのかを知っているから。


 ツグミは腰から銀のフルートを取り出した。


「ガルシア、リナさんの傍にいてあげて」

「何をするつもりだ」


 ガルシアのうなり声があがる。

「苦しい夢を遠ざけるの」

「リナを眠らせるのか」


 ガルシアの声に、ツグミは一瞬、間を開ける。

 小さく頷いた。


「そう、眠らせる。でも、殺すわけじゃない。穏やかに、苦しみがないように、静かな時間が過ごせるようにするの」

 ガルシアの目が、ツグミを捉えている。


 今にも噛みつきそうな敵意が映っている。

「大丈夫。ガルシアの声が聞こえるくらい。隣にいることが、ちゃんとわかるくらいにする」


 ガルシアはツグミを睨んだまま、リナの身体を支え直した。

「……できるのか」

「わからない。でも、精一杯やってみるから」

 嘘のないツグミの声に、ガルシアの警戒が緩んだ。


 それを感じたツグミは、フルートを唇へと当てた。

 最初の旋律は、森のざわめきに消えそうなほど小さかった。

 だんだんと波のように、旋律が代わっていく。


 やがて旋律は、波のようにゆるやかにうねり始めた。

 寄せては返し、波打ち際で弾けるように、いくつもの音が重なっていく。

 荒れ狂っていた風が、少しずつ弱まる。


 ラグは地面に手をついた。

 先ほどまで波打っていた地面が形を取り戻している。

 顔を上げれば、ねじれていた木々が元の姿へ戻っていくような気がする。

 リナの身体から力が抜ける。


 ガルシアの前脚へ食い込んでいた牙が、ゆっくりと外れた。

「リナ」

 ガルシアが呼びかける。


 白銀の耳房が、かすかに揺れた。

 リナの瞳はまだぼんやりとしている。


 それでも、今度はまっすぐガルシアを映していた。

「……見えているのか」

 ガルシアが震える声で尋ねる。


 リナはゆっくりと身体を預けるようにガルシアへ寄り添った。

 その瞬間、ガルシアは深く息を吐いた。


 二頭の呼吸は少しずつ重なっていく。

 ツグミは旋律を止めない。


 苦しみの中にいるリナが、大切な者の存在を見失わないように。

 最後の時間を、幻の中ではなく、ガルシアの隣で過ごせるように。


 祈るように、ひとつ、またひとつと音を重ねる。

 銀の音色は、寄り添う二頭を包みながら、月明かりの森へ静かに響いた。

■女王様のお茶会■

https://cookiequeen.chu.jp/2010.queen/top.html


■NOTEにて、ツグミノミの制作秘話を公開中

 ツグミノミ制作ノート https://note.com/nagiho_uosawa/m/m833291b12a8e

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