2話
彼は優秀な神学者だった。
彼の熱心な研究から紡ぎ出す教説は多くの司祭から関心を集めた。
教会もそんな彼に一目を置いており、将来が有望視されていた。
だが、彼の研究は神の美しさをより露にしたが、一方で人の欲深さや人が作り出した教会という装置の醜さをも露にした。
彼は悩んだ。
自分の教説が間違っているのか、それとも本当に人や教会はそこまで愚かしいのか。
ある時、彼は上級の司祭が集まる会議での発表の機会を得た。
会議の場で議決が採られ、可決されれば彼の教説は会議のお墨付きを得た正しい教説として採用される。
通常であればそれは儀礼にすぎず、ほとんど最終確認でしかないはずだった。
彼が事前に提出していた概要は、彼自身の考えから数歩引き下がった無難な教説だった。
そのまま発表すれば問題なく採用されるだろう。
彼はそう確信を持っていた。だが、同時に疑問も抱いていた。
このような一生に一度かもしれない大舞台で、本当の自分の教説を示さなくて良いのか。
彼は悩んだあげく、提出してあった概要の数歩引いた教説ではなく、自らの考えを存分に盛り込んだ新たな教説を会議で発表することにした。
議長の教区長を始め出席していた司祭達は、最初はにこやかな表情で彼の発表を聞いていた。
だが、それが徐々に真顔となり、そして険しくなっていった。
「もういい。君の発表の時間は終了だ」
教区長が突然の終了を告げた。
彼は驚きながら聞き返した。
「もう少しお時間をいただけませんか。まだ途中です」
「これ以上君の発表を聞き続けようと思っている人がこの場に居ない以上、続けるだけ時間の無駄だ」
教区長の言葉で他の司祭達の顔色をうかがったが、誰しもが教区長と同様に険しい表情か俯きため息を付いていた。
「そ、そんな」
教区長は小さくため息を吐いて言葉を続けた。
「君の事は優秀と聞いていてこの発表にも期待をしていた。
だが、君は研究の中で道を踏み外し異端へと落ちてしまっていたようだ。
実に残念だよ」
「そんな事はありません。私は真摯に誠実に、」
教区長が言葉を重ねる。
「では問おう。君は自身の教説の中で神の沈黙をどう定義していた」
「人類には真意が解りかねるものです。神が人類に愛想をつかしたのか、それとも更なる跳躍を固唾を飲んで見守っていてくださるのか」
「その考えは神の慈悲を限界が有るものとして捉えている。それは神の威光をいたずらにさげすむ考えだ」
「そんなつもりはありません。私はただ可能性の話をしているだけです」
「永遠無限である神の慈悲に可能性を持ち出す事自体が異端だと言っている。揺るぎない事実に異を唱えるならばそれは異端だ」
「私はただ、そんな神の慈悲に甘んじて慢心する事を危惧しているだけです。人は自らを律しなければ欲に飲まれてしまいます。それは人だけにあらず、人が作り出した教会も同じく、」
「話にならん。君の発表の時間は終了している。今すぐこの場を立ち去りなさい」
「待ってください」
「残念だが異端に飲まれてしまった君には処分を下さなければならない。追って連絡を入れよう。
異端となってしまった君にも神の慈悲が与えられん事を」
教区長が祈りを捧げ会話は終了となった。
彼はいつの間にかに左右から彼を囲んでいた衛兵に抑えられ、引きずられて会議の場を後にした。
扉の向こうに連れていかれる彼を見送りながら、教区長はこれでいいのだと自分の心に言い聞かせていた。
彼の教説は正しかった。本来であれば万雷の拍手をもって受け入れるべきだった。
だが、彼の教説はあまりにも理想が高すぎた。
それが実現すればより良くなる事は、教区長も理解していた。
だが、実際の世界はそこまで崇高な人ばかりで構成されているわけでは無い。
他人を出し抜き自らの欲を叶える事にばかり力を入れる人も居る。
そういった人から教会や信徒を守る為には、ある程度の妥協や折衷案は必要だった。
彼の教説では人々を守れない。
だから、手心を一切加えず彼の教説を否定しなければならない。
彼が考えを変えられるように、彼のような考えの者が後から出てこないように。
我々には教会と信徒を守る責務があるのだから。
彼の姿が扉の向こうに消え、扉が閉められる。
静寂が会議場を包む。
「では、会議を続けよう」
教区長は感情を込めず、出来る限り事務的に会議の再開を宣言した。
自室で謹慎していた彼の元に、処分の内容が書かれた書簡が届けられた。
そこには「多くの司祭から助命の嘆願が有った為、極刑を取りやめる事になった」という前置きと共に、
「破門の上、郊外の修道院での蟄居を命ずる」と記されていた。
彼にはもう反抗するだけの気力も残っていなかった。
それだけ、自らの教説を否定された事は彼の心に大打撃を与えた。
最低限の荷物をまとめ、長年使ってきた自室を退去する。
彼の監視の為に一人の衛兵が、彼が外に出るまで後を付けていた。
教会の門を出た所で彼は振り返り、自らに付いてくる衛兵に聞いた。
「私は、私の教説は、間違っていたのでしょうか」
衛兵は何も答えず、ただうつむくだけだった。
「・・・いえ、なんでもありません。忘れてください。
では、行ってきます」
出来る限りの笑顔で衛兵に挨拶をした。
衛兵はおもむろに懐から細長い物を取り出した。
「こちらをお持ちください」
「これは」
それは一振りの短剣だった。装飾が施されており、おそらく儀礼用と思われる。
「目的地の修道院までの長い道のりの護身用として、教会より餞別として預かっておりました」
「それは、なんとありがたい事か」
彼は恭しく短剣を受け取った。
「お気をつけて」
衛兵は最敬礼で見送ってくれた。
目的の修道院までの道のりは長かった。
それでも護身用の短剣を抜かなければならない事態には巻き込まれなかったのは幸いだった。
やっとたどり着いた時、彼は目的地を間違えたかと思った。
その修道院は無人だった。
中に入ってみて見回しても、ありとあらゆる所に埃が積り、それだけの時間が誰にも使われずに過ぎた事を物語っていた。
中を一通り見て回ると、一部では天井や壁が崩れている所も有る。
正確にはほとんどの場所になにかしらの破損が確認できた。そこが屋内か屋外か判断がつかないような場所すらある。
彼は一番まともそうに見えた部屋を自らの住居とさだめて、荷物を下ろした。
彼はさっそく最初の仕事に取り掛かる。
彼は祭壇の埃を払い、祭具の汚れを拭き、元のあるべき姿に戻す。
彼は神への祈りを捧げた。
たとえ自らの教説が否定されようと、たとえ破門されようと、彼の神への信仰は揺らいではいなかった。
それからの彼は神学者と言うより農夫のような生活だった。
生きていく為には糧が必要となる。
教会からの給付も無い以上、自らの手で作り出さなければならない。
日々、農具を手に畑に向かった。幸い、郊外だけあって土地は有り余っていた。
最初の収穫までは木の実や草で飢えをしのいだ。
どうしてもとなったら修道院に残されていた物品を売り、食料に変えた。
最初の収穫が無事にでき、そこからは若干の余裕が持てた。
生活を続ける上で必要不可欠な消耗品を、遠くの街まで買いに行く。
金銭的な余裕はほとんど無いが、彼はその消耗品を買った僅かな余りを低質な紙に変えた。
彼は自室で、書きにくいその紙に自らの教説を書いた。
否定され捨てるように命じられた自らの教説。
彼はそれを捨てられなかった。
彼は畑仕事の後のわずかな時間に少しずつ書き進めた。
日々の疲れもあるし、灯りをいつまでもつけている余裕も無い。
注釈を書き足し、引用を記し、具体例を思案し、そして時には大切な紙が無駄になる事を知りながら書き進めた文章を破棄した。
なかなか進まず、根気が要る。だが、彼はその作業にのめりこんでいた。
いつの日か完成させる。それが彼の生きがいになっていた。
一方で彼の中の冷静な部分が、その行いを否定する。
これを書き上げた所で誰に届くというのか。
それどころか、これが教会に見つかれば今度こそ処刑は免れない。
大人しく農夫をしていれば、生きながらえると言うのに。
彼はそんな冷静な心に蓋をして、筆を走らせ続けた。
そうしてゆっくりと月日は過ぎていった。
彼を修道院に送った教区長達でさえ、彼の存在を忘れかけていた頃。
1人の司祭が彼の住む修道院を訪ねてきた。
その司祭はいまだ少年と言うのが相応しいほどに幼かった。
「道に迷ってしまい、今日中に予定していた街まで行けそうにありません。
もしよろしければ、一泊止めさせてもらえませんか」
彼は二つ返事で少年を招き入れた。
二人で夕食を囲む。
少年はその中での何気ない会話から、この修道院の主がかなり聡明だと気が付いた。
まるでそこに数十冊の経典があるかの如く、少年の質問に的確な引用がすぐに出てきた。
少年はその知識量に興味を惹かれ、次々に質問を繰り出し、男はそれらに答えた。
問答を繰り返している内に、その内容は彼の教説に及んだ。
彼は「これは私の意見に過ぎないが」と前置きをした上で、少年に自らの教説を伝えた。
彼もまた久方ぶりに誰かに自らの教説を話せる事に喜びを感じていた。
少年はそれらをどんどんと吸収し、そしてより核心的な質問をしてきた。
二人の問答は夕食時に始まったはずなのに、気が付けば東の空が白み始めていた。
「ああ、もうこんな時間になってしまった。
すまない。ここに休みにきたというのに一晩中会話に付き合わせてしまった」
「いえ。こちらこそとても勉強になりました。今まで疑問のままだった事が幾つも腑に落ちました」
「それは良かった。だが、休めておらず疲れも取れてないだろう。
どうだろう、もう一晩泊まっていくのは」
「やさしい提案をありがとうございます。
ですが、昨日道に迷った事も有って、これ以上時間をかけるわけにもいかないので」
「そうか。それは残念だが仕方ないな」
「一晩ありがとうございました」
「こちらこそ。久方ぶりにこれだけ喋ったよ」
「では」
「ああ」
少年は深々と会釈をして、修道院を後にした。
彼は扉を閉めながら、再開の約束を交わし忘れた事を少しだけ後悔した。
少年は血筋だけで言えば貴族だった。
だが、両親の不義の結果出来てしまった望まれぬ子だった。
少年は生まれてすぐに修道院に預けられた。
それ以降、定期的に多額の寄付が修道院に入ってきた。
その存在を世間から隠すかのように、まるでそんな子は居なかったとでも言いたいかのように。
理由はどうであれ多額の寄付は修道院の経営を支えた。
少年が修道院から教会に移れば、寄付もまた教会に移った。
「教会や修道院にとって私の存在は、寄付を継続的に得るための道具。
私が愛情と感じていた修道士や司祭からの暖かいまなざしは、私ではなく付随する寄付に向けられている」
自分について回る寄付の存在を、全くの偶然から知ってしまった少年はそう感じてしまった。
知らない方が幸せだった真実はすぐそばに有った。
会った事もない両親は自らの欲で、私を生んだ。
愛を持って接してくれていると思っていた修道士や司祭も、自分たちの欲から私を生き永らえさせた。
彼は自分の周り全てに嫌悪感を抱くようになっていた。
ある大きな礼拝の日。
いつもの礼拝では埋まる事の無い貴賓席に、とある貴族の夫婦が座った。
その貴族は少年と同世代の息子を連れており、息子は満面の笑みで父親を見上げていた。
そんな姿をはるか後方の修道士用の席から少年は見ていた。
「もし、何かが違えば私もあの子のように、両親に連れられ礼拝に参加していたかもしれない」
少年は今の暮らしが嫌いなわけでは無かった。
教会での生活は厳しい部分も多いが、同世代との共同生活は楽しい事も有る。
だが、少年たちを監督する司祭は、少年たちを一番に考えてくれるが、それは監督者としてだった。
それは親から子への愛というよりは、教師から生徒への愛だった。
少年は家族を欲した。家族団らんの風景を夢見た。
そこで少年は気が付いてしまった。
自分は両親の欲で生まれてきた。
自分は教会の欲で育てられた。
そして、自分自身も欲にまみれている。
その事実が少年を悩ませた。
あれだけ毛嫌いをしていた人たちと、自分は同じだった。
いや、もしかしたら過大な欲を抱いている分、自分の方が欲深いかもしれない。
少年の周囲への嫌悪という黒い靄は、とうとう少年自身すらも飲み込み始めていた。
司祭が少年に優しく語りかけても、少年は理由も告げずふさぎ込んでいた。
そんな少年の状態を案じ気晴らしになればと、司祭は少年に使いを頼んだ。
内容は簡単なもので、書簡を一通やや離れた教会に届け、帰りの足で物品を購入してくるというだけだった。
少年は街道を歩きながら思案にふけっていた。
決して解決策が浮かぶはずもないと分かっているのに、考えずにはいられなかった。
思想にふけり周囲への確認を怠っていた少年は、気が付けば全く知らない道の上を歩いていた。
事態に気づき、慌てて来た道を戻ろうかとも思ったが、既に夕闇が近づいてきていた。
仕方なく歩き続けた少年の視界に誰も居なさそうな古びた修道院が目に入った。
だが、その煙突からは煮炊きの煙が上がっていた。
普通、少年のような境遇の子供は、大人になるにつれ諦めと妥協を学ぶ。
そして心に折り合いをつけて、あるがままの自分を受け入れる。
しかし、少年は心の折り合いを付ける前に彼の教説に出会ってしまった。
彼の教説は少年にとって劇薬だった。
少年の価値観を大きく揺さぶり、新たな解釈を与えた。
彼の居た修道院を後にして、目的地に向かいながらも少年は彼の教説を反芻し、そして少年なりに咀嚼していった。
だが、道中一人での思案は、仮に間違った方向に進んでも誰も訂正してくれない。
もし、彼の言う通りもう一日修道院で過ごし、彼との問答を続けていれば起こりえなかった誤解。
少年の思案はどんどんと暴走を加速させた。
あの人は明言を避けていたが、神の沈黙の理由は人類を見限ったからだろう。
人は欲にまみれている。両親も司祭も、そして私自身も。
神が見限るには十分すぎる理由だ。
あの人は、我欲に溺れず謙虚に正しく生きるべきと説いた。
神が人類を見限った理由が無くなれば、もしかしたらもう一度、神は我々人類の事を視界の端に入れてくれるかもしれない。
神の長きにわたる沈黙が終わらせられるかもしれない。それは喜ばしき事で、全人類が目指すべき世界だ。
だが、我欲に溺れず謙虚に正しく生きる事がどれほど難しい事か。
人の欲深かさは自分が一番良く知っている。
神が再び声をかけてくれるいつかも分からぬその時まで、全人類が謙虚に正しく生きる。
あまりの難題に膝から崩れ落ちそうだ。
この試練は確実に突破出来ない。人の欲はそんなに容易く取り除けるものではない。
昨夜から寝ずに彼との問答を続け、朝になって彼と別れた後も一人思案を続けた少年の頭は、とっくに冷静な判断を下せる状態ではなくなっていった。
どんな極論も今の少年には正論に思えた。
ああ、そうか。全人類が多すぎるのがいけないのだ。
欲の深い人間を切り捨て、謙虚に正しく生きれる人間だけの世界を作れば良い。
欲が深い人間はだれか、そんなものは分かりきっている。
少年が一つの結論にたどり着いた頃、その足もまた目的地である街の商店にたどり着いていた。
「すみません」
「はい。おや、初めて見る若い司祭様だね」
「ええ。教会からの使いでして、薬品を一つ売っていただけますか」
少年が口にした薬品名を聞いて、店主は少し身構えた。
「有る事は有りますが、危険な薬品でございます。どういった目的で」
少年は笑顔のまま答えた。
「私も詳しくは知りませんが、教会で実験を行うそうで」
見る限り本物の司祭から教会で使用すると言われれば、街の商店の店主に断り切れるわけがなかった。
「わかりました。ですが、先ほども言ったようにこの薬品は大変危険で、簡単に人の命を奪います。
どうぞ、取り扱いにはくれぐれもご注意の程を」
薬品の瓶を受け取り、少年は笑顔で会釈をした。
瓶を鞄に入れ少年は歩き出した。街を出て街道に向かった。
だが、向かった街道は教会に戻る方向ではなかった。
そもそも、少年が使いを頼まれた物品はこのような危険な薬品では無かった。
少年は頼まれた物品を買わず、帰路にもつかず、ただ足のおもむくままに道を歩いた。
少年は探していた。この薬を飲むのに適した場所を。
時に街道の真ん中で、時に街道脇の木々の木陰で。
しかし、どこも少年を納得させられなかった。正確には少年の躊躇を超える事が出来なかった。
少年は服毒をしようと思っていた。だが、同時にためらいが最期の瞬間を遠ざけ続けていた。
歩いていると不意に止まり、鞄から薬品の瓶を取り出し、それを眺める。そしてまた鞄にしまい、歩き出す。
何度となく同じ事を繰り返しながら、街道を歩き続けた。
いつしか街道脇の木々が無くなり、視界が開ける。
そこには村があった。彼が逡巡して歩いているうちに隣の村まで来てしまっていた。
村の名前を確認して、少年はさらに驚いた。
その村はあの貴族の所領の村だった。
ただの偶然か、それとも何かしらの神の導きなのか。
少年が村の入り口でたたずんで考え込んでいると、村の人が話しかけてきた。
「これはお若い司祭様。この村にどういったご用で」
「いえ、私は、ただ道に迷い、」
少年は昨夜と同じように言い訳をした。道には迷っていない。だが、行き先が見つからないのは事実だった。
「それは難儀な事で。今からでは隣の街ですらつく頃には深夜となっていましょう。
一晩この村で休んでいかれたらどうですか」
「・・・私は、」
断ろうと思ったが、村の一軒から美味しそうな夕食の香りが漂ってきた。
少年は昨夜にあの人から振舞ってもらった夕食以降、何も口にしていなかった。
ただ目的の為に一日中歩き続けていた。
急に少年の体は空腹を訴えた。それまで無視され続けた訴えを最大にして、少年の思考を奪った。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「それは良かった。では、こちらに」
村人の後に続いて村の中に入る。
少年は鞄の上から瓶に触れる。
今日は駄目だった。だが、明日には飲もう。
一晩休ませてもらい、万全な状態で事に挑もう。
空腹に支配された少年は、そう自分に言い聞かせ薄暗い感情と一時停戦した。
村人は厚意から少年に夕食を振る舞い、会話を弾ませた。
少年は疑問を抱き、聞いた。
「なぜ、ここまで良くしてくれるのですか」
村人は笑顔のまま答えた。
「ただ機嫌が良いだけです。良い事が有ると人に優しくなれるでしょう」
「それはわかります。一体どのような良い事が」
「今年は思いのほか豊作で。珍しく村全体が潤っているのです」
「なるほど」
「自分にわずかでも余裕が有り、目の前には道に迷った人が居る。
そこで助ける手を差し出すように教えているのは、あなた方教会の方でしょう」
「それは、確かにその通りです」
村人の笑顔の問いに、少年も笑顔を返した。
少年は少し考えてから、やや嫌味な質問をした。
「ですが、豊作となればその分を税として領主が持っていくのでは」
村人の笑顔は崩れなかった。
「ここの領主様は素晴らしいお方です。近隣に比べればずいぶんと税が少ない。
本人もそこまで贅沢をするわけでもなく、節制を是としています。
良い領主様の領民で本当に良かった」
「そう、ですか」
村人はその後も領主たるあの貴族がどれだけ良い人かを語り続けた。
少年はそれを聞き続けた。
村人が「良い人だ」と言うたびに、心の奥底でほの暗い感情が舞い上がり、そして沈殿していく。
村人は食後に寝床も貸してくれた。
少年は心から感謝を伝え、ありがたく寝床を借りた。
昨日から一睡もしておらず、さまよい歩き続け足は重い。
そこに満腹で寝床まで有る。
それでも、頭は回り続け一向に睡魔は訪れなかった。
少年は寝ようと寝床に横になっていたが、いつまでたっても眠くならなかった。
村の誰もが寝静まった深夜に、気分転換でもしようと少年は寝床をはい出て、静まり返った屋外に出た。
少年は村の中を静かに歩いた。
夜風は涼しいが、それも少年の心の靄は取ってはくれなかった。
あの貴族を領民は「良い人」だと言う。
きっと領地経営の手腕はあるのだろう。
だが、それでも。
あの貴族は欲にまみれている。
妻や息子を連れ立って礼拝に訪れはしているが、あの貴族は不義を働いた。
自らの欲の赴くままに不義の子をなした。
更には、その子を寄付という偽善を張り付けた金と共に修道院に押し付けた。
自分の不義が公にならないように、自らの本当の家族が悲しむ事がないように。
どれだけ「良い人」と言われている人物でも、その内側にはどれだけの欲が渦巻いているか図りようもない。
むしろ、その欲を内側に隠し外側を良い人で覆い隠す行為自体が更に欲深い。
やはりあの貴族は欲深い。
あの貴族が生きている間は、決して神は人類を見てくれる事は無いだろう。
そしてまた、私自身も欲深い。
少年は屋外に出る際にほぼ無意識で背負っていた鞄の存在を意識した。
手で触れれば、そこには確かに瓶の重さが伝わってくる。
ここでこれを飲んで神に謝罪しに行くのは簡単だ。だが、あの貴族はこの世界に残る。
とは言ってもあの貴族にこれを飲ませる方法は思いつかない。こんな司祭になりたての若造がそう簡単に手が届く人物ではない。
だが、この村なら。
悪魔のような閃きが少年の頭を席巻した。
この村が有るからあの貴族は税を得る事が出来る。そして、その税はあの貴族の欲の為に使われる。
この村があの貴族の欲を増長させているのでは。
この村もあの貴族の欲に加担した欲深い存在なのでは。
私に夕食と寝床を提供してくれたあの村人は確かに優しい。
だが、それもあの貴族が欲を隠しているのと同じように、あの笑顔の裏にどれだけの欲が有るかわかりようもない。
歩き続けていた少年の目の前には、村の唯一の井戸が見えてきた。
「これは復讐なんかでは無い。神への謝罪の為だ」
少年は何度となくそう呟き、自分自身に言い聞かせる。
震えの止まらない手で鞄から瓶を取り出し、その栓を開け瓶ごと井戸に投げ入れた。
井戸の奥底から水音が聞こえた。
少年の震えは最高潮になり、全身に寒気を感じる。
荒く浅い息をしながら、少年は寝床に戻った。
今度は即座に眠りについた。少年の頭はすでに考える事を放棄していた。
日が昇り朝になると村の人々が動き出した。
いつものように朝一番の仕事として、井戸の水を汲みそれぞれの家に持ち帰る。
ある者はそれで喉の渇きを癒し、ある者はそれで顔を洗い眠気を流す。
そして、村の家々からうめき声とそれに気が付いた家族の悲鳴があがる。
あっという間に村中が騒然となった。
そんな中、わずかな時間でも深い眠りに落ち、そして目覚めた少年は村の様子をその騒がしさで感じ取った。
少年は携帯していた紙と筆記具を取り出した。
紙に一言書きつける。
「人類は神に謝罪をしなければならない」
その紙を机の上に置き、部屋を出た。
村人は誰もが大騒ぎに慌てており、誰一人として少年の行動には気を留めなかった。
少年は井戸まで行き、水をくみ上げた。
もう少年には昨日のような、飲む事への躊躇は無かった。
事は動き出した。ここで自分だけ逃げだすような事は出来ない。それこそそのような欲深い行動を神は許さないだろう。
例え全ての欲深い人をこの世界から排除はできなくても、その減らす手伝いは出来た。
最後はこの村の誰よりも欲深い一人をこの世界から排除するだけ。
喉に流し込んだ井戸の水は苦かった。
そう思った次の瞬間には、少年は意識を失い、その心臓は動きを止めた。
彼はいつものように街までくり出し、日用品を購入していた。
行きつけとなった雑貨屋の店主が世間話を始めた。
「そういえば、兄さんは近くの村で起こった事件を知っているか」
「いえ、そういった事には疎くて」
「なんでも村の井戸に毒が入れられて、数多の犠牲者が出たって話だ」
「それは、なんとも痛ましい事件ですね」
最初こそ彼は眉を下げ、聞いていた。
その事件の詳細を聞いているうちに、その事件の犯人とされている若い司祭の特徴と、先日一泊の宿を貸し一晩中議論を交わした少年の特徴が一致する事に気が付いた。
そして、その犯人が書き残した「人類は神に謝罪をしなければならない」の一文を聞いて立ち眩みを覚えた。
そこから先は店主の世間話の内容はほとんど覚えておらず、彼はただ青ざめる顔を何とか気取られる事が無いように冷静を装い続けた。
彼は半ば強引に話を切り上げ、足早に住居である修道院に戻った。
いつも教説を書いている机の椅子に腰かけると同時に頭を抱え込んだ。
「なぜ、そんな事を、」
少年の書置きから、少年がどのような結論にたどり着いてしまったかは彼には容易に想像出来た。
彼の教説の極論。
彼自身も長い時間の推敲の中で、何度となくぶつかった一つの極論。
だが、彼はその度に頭を振ってその極論を否定してきた。その論は間違っている。その論には先が無い。
何度となくぶつかり、その度に否定してきた彼だからこそ、少年がその極論に魅了されたのも理解できた。
「だが、私は、そんな極論を実現させる為に、教説を伝えたわけではない」
視界には、書きかけの手記が有った。
結局、あの教区長が言っていたように、私の教説は間違っていたのだろうか。
破門されこの修道院に押し込まれた時点で、私は自身の教説を捨てるべきだったのだろうか。
少なくとも教会はそれを望んでいた。私はそれを無視し今日まで自らの教説を書き記し続けた。
だが、私に残されているのはこれだけというのも事実。
もはやこの教説が正しいか正しくないかを自ら判断する事は出来ない。
私に出来る事はこれだけだ。
彼はペンを握り、書きかけの手記の続きを書き始めた。
手が震え思ったような字が書けなくても、書き続けた。
彼は書き進めながら、一方で冷静な判断も下していた。
こうなってしまった以上は、私に残された時間はわずかだろう。
次こそは温情が与えられるとは思えない。
そして、こうして書き進める手記も私の処刑と共に破棄されるだろう。
誰にも届かない。
だが、私には書く以外に出来る事は無い。
その日から彼の日課の内、農作業の時間は全て机に向かい手記を書き込む事にあてた。
もう彼には農作業を行う理由が無くなっていた。
明日にでも教会から処刑宣告が届くかもしれないのに、農作物が育つほど先の事は考えられなかった。
彼はただ自らの教説を完成させる事しか考えていなかった。
一方で教区長も同じ事件を原因として悩んでいた。
異端と認定され処刑されてもおかしくなかった彼を、田舎の修道院に蟄居という形で温情を与えたのは失敗だったのか。
あの時、冷静に前例を照らし合わせ処刑を選択していれば、今回の村の惨劇は起こらなかったのでは。
だが、私は優秀な彼に期待をしてしまった。
修道院での蟄居の先に、より洗練された彼の教説が出来上がるのではないかと。
気高い理想だけではなく泥臭い現実も加味した、素晴らしい教説が。
その甘さが村への甚大な被害として返ってきた。
今から彼を召喚し、諮問を行い、再度異端と認定し処刑する事は簡単だ。
だが、それは出来ない。
今回の事件が大きすぎて、既に民衆の大きな話題になっている。
すでに粛々と内部で処理をするだけではすまない。
処刑を行ったとしても、民衆は説明を求めるだろう。
そうなれば、若い司祭を惑わせる結果となった彼の教説も説明しなければならない。
それでは彼ごと彼の教説を田舎の修道院に押し込め、隔離した意味が無くなる。
教区長はその難問を会議の場で示した。
一人の司祭がある提案をした。
「では、民衆が納得する形の話にしましょう」
その司祭の案は採用された。
早速、村の事件に対する教会の見解として「魔王の仕業である」と発表した。
その上で、協会は街で名の通った一人の傭兵に接触した。
教会は村の事件の首謀者である魔王を討伐してほしいと、傭兵に依頼をした。
傭兵は二つ返事で快諾した。
教会の金払いが良いというのも有ったが、教会の依頼をこなしたという実績は信頼につながる。
今後の依頼を受けやすくなるし、教会からも依頼が来るかもしれない。
何より、傭兵は村の事件が許せなかった。
依頼を受けて人の命を奪って日銭を稼いでいる身ではあるが、それでも何の罪も無い人達の犠牲は傭兵の倫理から外れていた。
傭兵に断る理由がなかった。
契約がまとまった後に、司祭が傭兵に聞いた。
「ところで、あなた様は最近どのような夢を見ましたか」
質問の意図が全く理解出来ないかった傭兵は、思い出した曖昧な夢の記憶を司祭に話した。
聞き終わってしばらく沈黙していた司祭が深々と頭を下げて言った。
「あなた様の見た夢は神のお告げに違いありません。
我々は民衆にとって脅威であるあの魔王を打ち滅ぼしてくれる勇者の存在を神に懇願しました。
そして、神はあなた様を選び、その証拠としてあなた様の夢と通じてお告げを授けた。
あなた様こそ、我々の求めていた勇者様です」
勇者となった傭兵は準備を整え、教会に教えてもらった魔王の住居である廃修道院を目指した。
完成を目指し日々机に向かい手記を書き溜めていた彼だが、結局はその完成前に時間切れとなってしまった。
乱暴に部屋の扉が開けられる。
それと同時に野太い怒声が部屋中に響き渡る。
驚いて扉の方を向くと、そこには戦場からそのままここに来たという感じで、使い込まれた甲冑を着込んだ男が抜刀して立っていた。
自らの教説が完成しなかった事に落胆しながらも、男の一言に反応してしまった。
彼は握っていたペンを書きかけの手記の上に置き、机の端の方に置いていた短剣を手に取った。
破門され蟄居の為の移動の際に渡された護身用の短剣。
その短剣もまさか教会に牙を向ける為に使われるとは思ってもみなかっただろう。
彼らは私を魔王と呼んだ。
ならば私は魔王になろう。
極論とはいえ私の教説の一点を突き進み凶行に至ったあの少年の行動を私が肯定しないで誰がするのか。
教会の手下であるこの男相手に再度私の教説を示そう。あの少年が誤って選んでしまった極論を、間違っているとはいえ私の教説の一部である極論をこの男に論じよう。
少年に教説を話した者の責任として。
「お前らはこの私を魔王と呼ぶのか。面白い、ならば今から悪の魔王と自称しよう」




